11日から13日にかけて群馬県の伊香保温泉と草津温泉に行った。
最初の宿泊地、伊香保温泉の歴史を検索すると、温泉は榛名山の火山活動より湧き出したとされる。この温泉は、古くは垂仁天皇
(紀元前29年~紀元後70年)の時代に開かれたとも、行基(668年~749年)
によって発見されたとも言われている。最初に、書物に登場するのは、南北朝時代に編纂された『神道集』で、「伊香保大明神事」
に、温泉が湧き出した経緯についての記載がある。このことから、少なくともこの時代には、温泉が広く知られていた事が分かる。
次に1502年、宗祇(室町時代の連歌師)は、千明(ちぎら)仁泉亭に泊まっている。『宗祇終焉記』に「中風の為によしなど
聞きて宗祇は其方に趣きてふたかたけなりぬ。」とあることから中風に効く温泉として有名だったこことが分かる。
千明仁泉亭(伊香保温泉で一番古いこの宿は、徳冨蘆花が「不如帰」を書いた旅館としても有名。)
「我国温泉都市計画第一号の地」とは、何の事やらと思っていたら、石段街の原型は、武田勝頼が織田信長との「長篠の合戦」で
負傷した兵士の湯治のため、配下の真田昌幸に命じて造られたということだった。
江戸時代には湯治場として湯客も増加し、俳人、文人が多く訪れ、また、「子宝の湯」として知られ、多くの婦人客でにぎわったと
言われている。近代になると、最も伊香保を愛し、作品に取り上げたのが徳冨蘆花で、伊香保を舞台にした名「不如帰(ほととぎす)」
が有名。徳冨蘆花記念文学館もあるが、立ち寄らなかった。
“榛名山の一角に、段また段を成して、羅馬時代の野外劇場の如く、斜めに刻み附けられた 桟敷形の伊香保の街、屋根の上に屋根、
部屋の上に部屋、すべてが温泉宿である、そして榛の若葉の光が柔かい緑で 街全體を濡らしてゐる。街を縦に貫く本道は雑多の店に
縁どられて、長い長い石の階段を作り、伊香保神社の前にまで、Hの字を無数に積み上げて、殊更に建築家と繪師とを喜ばせる。”
と石段に与謝野晶子の詩が刻まれている。
俳人、種田三頭火(1882年~1940年)は、確か温泉地によく行ってたな。この伊香保温泉にも来たことあるのだろうかなんて
思いながら、伊香保温泉のシンボルであるこの石段街の写真を撮っていると、いつの間にやら山頭火が目の前にいた。
最初の宿泊地、伊香保温泉の歴史を検索すると、温泉は榛名山の火山活動より湧き出したとされる。この温泉は、古くは垂仁天皇
(紀元前29年~紀元後70年)の時代に開かれたとも、行基(668年~749年)
によって発見されたとも言われている。最初に、書物に登場するのは、南北朝時代に編纂された『神道集』で、「伊香保大明神事」
に、温泉が湧き出した経緯についての記載がある。このことから、少なくともこの時代には、温泉が広く知られていた事が分かる。
次に1502年、宗祇(室町時代の連歌師)は、千明(ちぎら)仁泉亭に泊まっている。『宗祇終焉記』に「中風の為によしなど
聞きて宗祇は其方に趣きてふたかたけなりぬ。」とあることから中風に効く温泉として有名だったこことが分かる。
千明仁泉亭(伊香保温泉で一番古いこの宿は、徳冨蘆花が「不如帰」を書いた旅館としても有名。)
「我国温泉都市計画第一号の地」とは、何の事やらと思っていたら、石段街の原型は、武田勝頼が織田信長との「長篠の合戦」で
負傷した兵士の湯治のため、配下の真田昌幸に命じて造られたということだった。
江戸時代には湯治場として湯客も増加し、俳人、文人が多く訪れ、また、「子宝の湯」として知られ、多くの婦人客でにぎわったと
言われている。近代になると、最も伊香保を愛し、作品に取り上げたのが徳冨蘆花で、伊香保を舞台にした名「不如帰(ほととぎす)」
が有名。徳冨蘆花記念文学館もあるが、立ち寄らなかった。
“榛名山の一角に、段また段を成して、羅馬時代の野外劇場の如く、斜めに刻み附けられた 桟敷形の伊香保の街、屋根の上に屋根、
部屋の上に部屋、すべてが温泉宿である、そして榛の若葉の光が柔かい緑で 街全體を濡らしてゐる。街を縦に貫く本道は雑多の店に
縁どられて、長い長い石の階段を作り、伊香保神社の前にまで、Hの字を無数に積み上げて、殊更に建築家と繪師とを喜ばせる。”
と石段に与謝野晶子の詩が刻まれている。
俳人、種田三頭火(1882年~1940年)は、確か温泉地によく行ってたな。この伊香保温泉にも来たことあるのだろうかなんて
思いながら、伊香保温泉のシンボルであるこの石段街の写真を撮っていると、いつの間にやら山頭火が目の前にいた。