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『狼煙はどこまで届くか』かなまるよしあき

2008年01月07日 | 川柳
              現代川柳『泥』終刊号

 およそ半世紀余りも経つ戦後ロマンチック左翼の残影を、未だに性懲りもなく引き摺っているわたしは、一寸した意見を述べようとする場合でもすぐ肘を張る「へき」があるのだが、まず始めに一呼吸して、『泥』五冊を並べると、誌名にかぶせた『現代川柳』というサブタイトルに気をとられた。

 通常時代区分に何気なく使われがちな<現代>という単語は、こと文学史の中では各ジャンルの時間と表現形式の指向を分類する。

 <現代詩>とか、<現代俳句>のように、とりわけ旧来の定形や韻律、更に風雅ーわびさびに代表される伝統枠から」の批判脱却を意味することが多いようで、当然体制保守層から難解とか独善、またはいたずらに前衛ぶってなどのレッテルが貼られがちだという思いが浮かんだからであった。

 つまり孤立ー先細りという辛い記憶が根深く残っていて、少なくともそうならせてはなるまいと考えるのがだが、はたしてそういう姿勢はまったく正しいのだろうか。

 もともと人間社会の本質を活写しようとした川柳本来の喜怒哀楽の持つ健康なエネルギーが、明治・大正・昭和と移る時流に筋骨が抜かれ、花見遊山や祭礼のぼんぼりや短冊飾りで庶民にわずか披見されるだけの、くすぐり、駄洒落に堕ちてしまったという、戦後の深刻な反省が先ずあって、片方で「第二芸術論」という伝統端子系に、川柳界一般の現況は気が効いたとされる訳知り顔の、それこそ、<月並み亜流>がまたしてもはびこっているというのが、常々私の印象でこれを容易には拭い取れないのだ。

 <現代>とはもともと第一次世界大戦(19014~18)語の年代を指し、日本では一般に太平洋戦争以後を意味するという。先の指向の根本を探ると、夫々がたずさわっている文学ジャンルの社会的土壌へのひろがりように、多分のあせりを含めた不安定なコンプレックスも作用していたこともあったのではないかと思いつく。

 表現の<尖端あるいは前衛>とは文学世界の構造全体、つまり<中衛ー後衛>を含む日本社会の文化許容量に対する牽引者の優越意識なしには生まれない、その裏返しでもあり、いくらか視点を高めたなら前向きにひたすら未知を切り拓こうとするヒューマンな試みを究極まで評価すべきは明らかである。

 但し己を先駆者と位置づける余り、多少の逸脱でも許されるだろうと全能の神を擬した過去の至上主義者の撞着は断固ノーだと断罪することも当然なのに、それさえよしとする自大野郎が、まだ一部残っているのもまた事実である。

                           続く・・・・。
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小樽商人の気骨・魂・故藤橋茂。 E

2008年01月07日 | 川柳

             今日から、仕事始めです。

 仕事始めと言えば、初めて小樽でOLになった時に、生涯忘れられない商人、「故藤橋茂氏」にどうしてもぶつかってしまう。私の仕事の原点の人ということになります。

 小樽旧拓殖銀行時代に、「小林多喜二」と盟友で、文学活動も、仕事も、1927年6月の労働争議の若手中心的リーダー3人の中のひとりであったと、退社後しばらくして知ることとなる。

 生涯を通じて、多喜二との書簡を墓穴まで持って行って、世には出さなかったと窺っている。どれくらいすごい商人か少し書いてみたい。私は、今でもこの人を超える商人はいないと自負している。

①昼食は、戦争時代に使ったハンゴに「鮭一切れ・たくあん二切れ」外食や、接待以外の昼食は別に、老衰で亡くなるまでこのスタイルを貫いたという。

②紙切れ一枚のメモ用紙を私が、くずかごに捨てたら、それを見られて・・「これはいくらか?わかるか?」と聞かれたことがある。女性には直接話すことのない専務でしたが「50銭もするんだぞー!!」と19歳の私は、足の裏から地割れがするのじゃないかと思うほど、沢山の社員の前で叱られました。そして、2階の事務所でみんなに教えるように「これはなー・・これはなー・・50銭もするんだぞ!!!お前は会社の資産を捨てるのかあ!!」と死ぬほど一喝されました。(原価意識と、資産を教えられました、骨身に沁みて)

③営業マンの大学出身者には、会社の役職の道を、高校出身の市内ルートセールスには、全道各地のお得意さんから、商店の「婿養子」を頼まれ、「お前は、ここにいても出世はあまり望めんぞ・・○○商店ならそこの名士だ・・考えてみないか?」と言って、婿養子になったところと、太いパイプで結ばれる。

④今でも忘れられないのは、中堅の営業マンが、大手メーカーの手形を、一日延ばして欲しいと先方から頼まれ「本人決済」をして、2000万(今で言ったら2億でしょうか)専務に報告した時のことです。本人は有名メーカーですし、一日だと思ったのでしょう。
「ちょっと座りたまえ・・後ろを向きたまえ」とその営業マンを後ろ向きに座らせて、座禅の時に、肩を叩くようにそろばんで2度「ビシッ!ビシッ!」とすごい力で叩いたのです。周りはみんな、息を呑むばかり。顔面蒼白になったA氏に「俺に叩かれたと思ったら腹が立つだろう!!一日手形を延ばされたと言うことは、お前に信用がないからそうされたんだ!!お前が商人ならそろばんに叩かれたと思え!!」・・・専務がいなくなってから、泣きたいくらいびっくりした私が、「専務ってあそこまでしなくていいのにねー」ってA氏にこっそり告げたら・・「何言ってるんだ!!悪いのは俺なんだ!!」と逆に怒鳴られてしまいました。(この、信頼関係のすごさを思い知った訳です)

⑤市内のルートセールスで、お調子者で、大学は出ていても、要領のいいN氏が、今月一番の売り上げをした時です。
「ちょっと・・ちょっと・・N君・・。今月は一番おめでとう!!」でも専務の顔は、そのいい加減さを見抜いて、「まさか・・君の売り上げ一番は・・お客さまを・泣かせて立てた売り上げじゃないだろうなあ・・」と、目も、口も彼を、睨み付けているのです。
N氏はかなり動揺していました。(見抜いていたのですね・・押し付け営業を)

エピソードはつきません。小樽に「藤橋あり」と、日本中の、各メーカーから一目置かれた、商人道を貫いた人です。「何故、自分にもあれほど厳しく生きたのか?」と、自分の分身を育てたS氏に(後の専務)尋ねたら・・多喜二の分まで生きたんだろうよ・・と答えてくれました。その会社は、S氏在社の10年前は200億円の売り上げがありましたが、S氏が定年後会社は大幅に縮小しました。(主力商品に特化させたのです)

小樽の商人の歴史は、船場・近江商人の歴史です。1円2円50銭・何毛とそろばんをはじいて商談をしていたことが思い出されます。

今は、自分自身・・のんべんだらりと、故藤橋氏に墓穴から怒鳴られそうですが、今年は
このようなたくさんの教えを、思い出し、会社の独楽の芯になって、半分仕事人・半分川柳人になって日々楽しんで行きましょう。(大変な時代こそ、笑って超えることが、大事だと常々感じています。)

 窓際から、日本の美しい四季の移ろいも感じながら、本物の雪も見ながら、いろいろな潮流と、原点を見つめ・・気負うことなくスタートです。


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