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私泥摸泥(しどろもどろ)・・・佐藤容子

2008年01月14日 | 川柳
              現代川柳『泥』終刊号

 その二

         映画を観て思い切り感動したいと時々思う。

 それもグシャグシャになってしまうくらい泣けるものか、そうでなければ、顔がグシャグシャになってしまうほど笑えるものを。

 しかし、思いっきり感動したくて川柳を読もうとは滅多に思わない。けれど感動させられる作品との出会いは確かに何度かあった。
  
       夢中になって句を創りたい、と思った日は余り無かった。

    正直に言えば、締め切り日が迫っているから創っていたような気がする。
       
 反面、作りたい意識はいつも頭の隅にあって、気になっていたことは事実である。

 おそらく30年以上も関わってきた、一種の習性のようなものが、身についていたからかも知れない。

         川柳に夢中になっていたと言えば、嘘になる。

 夢中になれなかったから、今も、こうして続けているのではないだろうか。

 例えば作品が歪な壺と言われようが、皿になってしまったと思われようが、それらは、わたし自身である。

 創られた作品はわたしのほんの一部、だから、わたしのすべてを表白したなんてことは言えない。

         創ることや書くことをいつも辛いと思っている。 

     でも、いやいやながら創ったり、書いたことは一度もなかった。

      書くことは、なんと残酷で、そして楽しいことなのだろう。


                           続く・・・。
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私泥摸泥(しどろもどろ)・・・佐藤容子

2008年01月14日 | 川柳
              現代川柳『泥』終刊号

 その一
    こんな笑いがある。

 巨匠と言われている陶芸家が、窯から出したばかりの絶品の皿を割っているのを見て、その弟子たちは驚き、訳を聞くと、「わたしは、皿を創ったつもりはない、壺を作りたかったのだ。」と言ったという。

 皿と壺では全くかたちが別である。壺の微細に拘り、それを割るのなら理解できるのだが・・

              だから、笑い話なのである。

 しかし、この嘘か本当かわからないような話は、日常、割とあり得ることではないだろうか。

 例えば、巨匠の創ろうとしていた壺を「言葉」に置き換えてみよう。

 伝えたかったことばが、そのまま伝わらなければ、それは歪な壺と同じことになる。
また、壺でなくて皿になって相手に伝わってしまう場合だってある。

        「わたしは、そんなつもりで言ったのではない。」と。

 確立されている一語に潜む曖昧さ、それを繋げることで生じる別のイメージ。そんな言葉(壺)になれなかった皿を粉々に割ることができたら、どんなにスッキリするだろう。

                              続く・・・。
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