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花は咲いたか・・・青葉テイ子

2008年01月11日 | 川柳
              現代川柳『泥』終刊号

 凛と立つ泥樹がいっぽん

     いかなる木といえども 空のたかみに燃えさかる星をめざして
     いかなる木といえども 空のきわみに冷朧と冴えわたる星をめざして
     いかなる木といえども 空のいただきにまたたく不滅の星をめざして

                             「泥樹」より
      敬虔な祈りにも似て佇む。              原子 修
 
 雲ひとつない群青、長いようで短かった三年の歳月は、わが心臓の鼓動打つ音にも似てはやい。

 川柳の芒洋とした失望と不安、そして、やるせないほどの川柳への希求は、バイオリズムの波のように繰り返し、私を苛んだ。

 目に入り得る川柳誌、夥しい産まれたての川柳たち、柳論のどれもが飽かず繰り返される空論のように虚しく私を襲う。

 何を読んでも、書いても糠に打つ釘のように手応えがない現実。夥しく量産される歪なわが句たち。

何処へ流されてゆこうとしているのか。

           この疑問が、いつ頃から起きたのだろうか

 これでいいのか川柳、川柳の真髄をもっと語りたい、探りたい。川柳のビジョンは・・・いま、川柳を生きるものの一人として成すべきは何。芒とした不安がよぎる。

 この多様化された現代にあって黙して流されていっていいのだろうか。もう一人の私が耳元で囁く。

 夏の陽盛り、短い命を惜しむかのように、終日啼いていた蝉。お釈迦様の瞬きに過ぎないという人間のいのちの重さ軽さ。ことの起こりは、そこから始まった。

          誰か、この歪なわが子を叱咤してはくれないものか。

「泥」から這いのぼるいっぽんの狼煙。

 同じ志を持つ仲間と出合えたのは僥倖か。多くの言葉を弄せずとも通じ合う不思議さ、心奥で疼くものが、どこかで共通していた。

 そして、「泥」は産声をあげた。

「泥」を媒体にして出合うた人々、有形無形の甘口辛口にまみれた。辛口は川柳の応援歌だ。ありがたく拝聴して貪欲にも己れ自身の血や肉にしてきた。


                        続く・・・・。
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