川柳・ボートっていいね!北海道散歩

川柳・政治・時事・エッセイ

翔ぶ勇気・・・池さとし

2008年01月16日 | 川柳
               現代川柳『泥』終刊号

 川柳が愛されていると考える、ごく常識的な一面は、
             およそ次のような事なのではないだろうか。

 ひとつの作品と出会った読み手が、ある特別な感動や喜びを感じ取ることで、精神的な高揚感を得られたとき、また、今までとはちがったものの見方・考え方に思考操作の変容が感じられた時。

         その裏返しに書き手のこころが存在する。

 しかし、書き手と読み手との気持ちの合致点はとなると、一筋縄ではいかない難しさが横たわる。

 私はつねづね、川柳は癒しの文芸だと思っているのでそれを素材にしながらその解明を
してみることにする。

 川柳には、川柳としての「かたち」「味わい」「リズム」「バランス」「風刺」「韻」などが、ひとつの概念として川柳に携わる人達にインプットされている。

(ごく少数の読者を除いては、作り手イコール読み手であることをはっきりしておかなければ、大衆川柳というコトバに惑わされてしまうだろう。)

 もちろん一様ではないにしても、それらの概念や観念が読み手の受け皿となる。

 したがってこれらの秩序が保たれ、均衡のとれている作品は、当然のことながら受け入れられ易いという現象を生むことになる。

 その一方で、受け入れ難い作品はとなると、これにプラス作者自身のたましい、作者自身の独自な精神状態が一層強く加わるからであろう。

 言うまでもなく、作者自身の独自な精神状態とは、突き詰めると狂気にさえなりうるような、強靭さを孕んでいるものである。

                          続く・・・。
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翔ぶ勇気・・・池さとし

2008年01月16日 | 川柳
              現代川柳『泥』終刊号

 川柳だけに限ったことではない。文学は溌剌とした精神の若さにこそ存在するということを、明確に意識するべきである。

 常に前へ前へ進む気概・姿勢なくして、今日の川柳を語ることは出来ないのではなかろうか。
 
         既存の思考や手段、枠組みを否定するわけではない。

 むしろ、それらの諸要素を十分認め、かつ咀嚼した上でそのことをベースに、更なる積み重ねをする。

 あるいは又、その枠の外に飛び出してみる勇気も、これからの川柳界には、一層必要になってくるような気がしてならない。

 つまり、川柳をつくるという行為は、非常に数多くの反省的思考を繰り返しながらも、その場に定着をきめこむのではなく、未来へ向けての情熱を象徴的に発信していくひとつの証でも言い表せるだろう。

 カオスの状態、そんな中からの萌芽はというと、やはり開拓、発見というような人間の本能的な闘争心の発露があってこそ、確立されてくる。

          川柳という十七音字の短詩の世界。

   音楽の世界にいろいろな分野があるように、川柳とて例外ではない。

 千差万別と表現してもいいくらいの、様々なかたちの川柳が毎日量産されている。

 さまざま傾向の川柳が存在するのは、当然のことであり、お互いにそのことを充分認め合って今の川柳界は成り立っている。

               言うなれば共存であろう。

   21世紀の川柳などと言うと、何か非常に大袈裟に聞こえるが、

    コトバを変えると「現在を生き抜く川柳」と言うことでもある。

 川柳の働きには、いろいろなファクターがあり、そのいずれかと、川柳人は深くかかわり合いを持ちながらの日々である。

                            続く・・・。
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