川柳・ボートっていいね!北海道散歩

川柳・政治・時事・エッセイ

私泥摸泥(しどろもどろ)・・・佐藤容子

2008年01月15日 | 川柳
              現代川柳『泥』終刊号

 その四

   多様化、という言葉が、何の抵抗もなく使われるようになって久しい。

 当然のように、川柳の世界においても、この現象は年々歳々進んでいるような気がしている。

 その結果、作品はより個人的になり、細分化してきて、全体として川柳を取り上げたり、ひとつの方向へ向けることは難しくなってきている。

 近年では、どう作ったか、どう読んだかと、作者にしても、読者にしても個人の内部へと視点が向けられ、個人がひとつの単位になっている。

 自由に私川柳を作りたいという欲求と、作品とそれを生んだ人間とは一体でありたいという願望もその表れだと思う。

 また最近の大会などにみられるカリスマ選者の存在もそうだろう。こうした選者に共通しているのは、自身が自らに課しているその人のものでしかない姿勢や部分、あるいはその人がその人であるという絶対的な思考(魂)つまり、この魅力を持っているということだ。

         作者は個として、選者の個へ問いかけたいのである。

 多様化とは、ある意味で量より質への拘りなのかも知れない。

 少人数の大会や小単位の同人誌が益々増えてくることが予想される。人と人との、個と個との結びつきがそれだけ強くなっていくだろう。

    「泥」という小さな誌が、無事終刊を向かえられたのは、
     そうした強い結びつきに支えられていたからである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私泥摸泥(しどろもどろ)・・・佐藤容子

2008年01月15日 | 川柳
              現代川柳『泥』終刊号

その三

       「泥」から北海道を感じると言って下さった方がいる。

 誌全体に漂っている重さ、硬さ、それと相反する、おおらかさにそれを感じたという。
思ってもいない感想である。

 北海道でも、南部に位置している、比較的気候の温暖な、函館、伊達、苫小牧の三人の作品のどこに北海道が内在していたのだろう。

 マスメディアの進化は徐々にローカル色を希薄にしている。風土を感知させる作品は、川柳に限らず少なくなってきている。

 国木田独歩は北海道を、大自然の中を渡っていく時雨のすさまじい淋しさを、日本文学も、日本の自然にも、無かった新しさと表現した。

 しかし、わたしたちは、すさまじい淋しさと同時に、大自然を覆い尽くす吹雪の怖さや厳しさも知っている。

 そして、その中で生きるか、死ぬかと戦ってきた父祖たちの、したたかな血を受け継いで生きている。

 本州の平明さは、本州の歴史や風土が築きあげたものである。北海道とは比べものにならない永々とした歴史が、歳月に濾過されて、あの表現を培った。

 北海道のゴツゴツした硬さを誇りたい。北海道という土地が、日本の歴史の中では例を見ないかたちで、作り拓かれたものなのだから。

 そして、無限の怖ろしい力が、自然の美しさを極めていることを知っているから。

                             続く・・・。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする