川柳・ボートっていいね!北海道散歩

川柳・政治・時事・エッセイ

川柳をつくるときにどんなことにエネルギーを注いでいるか。

2007年10月19日 | 川柳
           現代川柳『泥』第三号 ミミズの考察(要諦)

             さとし・・・新鮮なまなざしで

・作品の中に、いつも新鮮なまなざしをが偽りのない心境である。
・表現はやさしく想いは深くで、終始一貫した自分のテーマである。
・颯爽としたきらめきを、いつも川柳作品に取り組む姿勢を持ち続けたい。
・川柳という遊びの世界。
・ひとに解ってもらえて、なお且つ感動を与えたり、共鳴してもらえるような川柳、先ず 自分自身が納得するような作品でなければならない。

             テイ子・・・真夜中の衝動

・思いをふたたび反芻して、よく噛み、このボキャブラリーが適切かどうか見極めながら
 とことん推敲を重ねる。
・作句上で大切なことは、感動的な出会いが、どれほどあるかに尽きると思う。
・いかに常識の壁を破るか。常識という尺度は一定ではない。だからこそ、不確かなもの の中にこそ、川柳の真髄が秘められているように思う。
・鋭角に核心を衝く。川柳だけが持つ批判精神は、他の短詩型文学にはない。抒情的なも のを好む精神風土は日本的現象が、その風土にあればこそ、批判のアイディティがある のではないか。
・核心を衝く川柳に、人間に対する優しさと、思いやりをベースに置きたい。人間を詠む 川柳だからこそ・・・。
・吉川英治こと雉子郎は俳句は歳時記があるが、川柳は全宇宙が素材だと提言した。
・不確かなもの、不条理なものへ鋭いくらい一矢を向けようではないか。

             容子・・・ブラインドの向こう側

・子安美知子著「モモを読む」より・・・(中略)自分を無にする、空(から)にすると
 言っても、その意識がめざめていなければなりません。日常性から離脱した時間は、や がて日常性にもどったときの新しい力になるためのものなのであって、非日常性の中に
 自己を消え去らせるためのものではありません。没批判ということばを用いたからとい って、それは日々の生活の中で何事にも無批判な人間になれ、というのとは、むしろ正 反対のことで、さまざまなことから人間のなかに生じる変容、そこから新しいよりどこ ろを確立して、以前とはちがった新しい批判力が生まれるでしょう。
・客観的で繊細な観察と、それに相応しいことばを使った表現が作品を完成させる。

                            続く・・・。
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現代川柳『泥』三号・・・ミミズの考察。

2007年10月18日 | 川柳
・・・続き。

            ②どのような作品に感動共感するか

          さとし・・・心の扉を激しくノックしてくる

・いかなる作品も、創作者の心情には関係なく、人々の一方的な受け止め方の中で、歓迎されたり、拒否されたり  している。その時代の風潮に左右されている存在価値であると言っても、あながち間違いではない。
・訴える力を作者ひとりひとりの素肌として作品に生かされているからであろう。
・作品の価値に伝統も革新もない、あるのは、いかに読者の心を動かしたかにかかる。
・素晴らしい川柳だと評価を受ける作品は、先ず第一に人間性に裏打ちされている。
・素材が独創的で、表現が新鮮で感動の伝わりがある。
・風刺性、人間性、独創的、斬新性,なお且つ普遍性が条件。

           容子・・・凛としたオーラ(細川不凍作品紹介)
・彼は早い時期から一貫したテーマを保持していて、寂寥的な、孤高的なと思える一種の極限性を秘めた高い精神から作品を発表してきたように思える。
・読者は不凍作品しか存在しないオーラを感じる。それは、ゆったりと漂いながら、読  者を包み込むのだが、やすやすとは同化させない威厳のようなものがある。

           テイ子・・・優しくて強い川柳の鬼
          (定金冬二・前田芙巳代・大木俊秀紹介)

・定金冬二・・(私の川柳は、もとより自身のためのものであるが、いま一つ世の富者たちへの抗戦の剣でもある。作句とは、両手の爪から血を流しながら大地を掘る。)
含蓄と純粋さ、自己凝視は自分を刺すように峻烈である。人のためなら涙も惜しまぬ人情家との風説もある。
・前田芙巳代・・作品全編を貫く、愛、憎、怨を全身で表出できる稀有な作家である。
 裸身を晒すからこそ、読者の感動を呼ぶ。
・大木俊秀・・選者の心得、百点の句を65点で披講してはならぬ。川柳を骨の髄まで愛 して選を。
                          続く・・・。
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現代川柳『泥』第三号・・ミミズの考察

2007年10月17日 | 川柳
 この、『泥』三号の奏でる意義は重い。正直言ってこの『泥』誌の山に立ち向かう装備も技術も無いこの私・・であります。

 だが・・しかしです。挑戦の楽しさはプレッシャーが大きければやりがいもあり、やり遂げた後に飲むビールは美味しいと相場が決まっています。決まっている相場なら・・歩まねば!・・進まねば!ところで・・・ビールは飲めない私ですので、川柳人がいつも好んで飲み干す無冠の杯でもかざそうか。

 いざ!登らねば・・・。

             川柳あ・ら・か・る・と

①今を生きる自分になぜ川柳か・・。(語録を拾ってみます。)

             容子・・・ことばの海から

「ことばは人そのもの。人生そのものがことばである。」と言った人がいる。
 突き詰めていくと、自分を探すことであり、また、他者を知ることではないだろうか。

◎私にとって、川柳とは、「ことば」を通じて「自分」を発見することであり、「こと  ば」を通じて「人間」を見詰めることなのである。
 無限の可能性の秘められた川柳の世界でことばを削り、ことばを膨らませ、まさしく
 わたしを削り、わたしを膨らませながら、わたしを磨く小さくて、大きな宇宙なので  はないかと思っている。

            さとし・・・カタルシス

 その時々の、運と気まぐれに支配されながらの生きざま、そして死にざまに及ぶまでの「息継ぎに」、自分にとって川柳は、格好のステージとなっている。
◎すべての行動が、結局川柳に還元されているような気がする。やはりカタルシス。

            テイ子・・・沈黙の中でひらめくもの

◎「慰籍する文芸」川柳がある。全神経を傾斜して吐露した川柳とかかわってきたからこ そ、私は精神の均衡を保って、生きてこられたのだ、と、しみじみおもう。

                          続く・・・。
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水を聴く・・水に聞く、泥によせて。

2007年10月16日 | 川柳

 川柳は仕事をリタイアしてから、じっくり本腰を入れて勉強しようと、呑気に構えていました。

 だから、川柳での句会の勝敗も負けて元々・・そのうちに・・という極楽トンボで課題提出もいつもぎりぎりの劣等生・・けれど同人というのに属しているらしい。

 川柳を始めて6ヶ月後、全国函館誌上大会課題「無」「生き抜いて無常の花を摘んでいる」
を投句しました。それが、五客に入選しました。この題では函館で1位ということらしかったのです。

 その入選が、嬉しいとか嬉しくないとかいう感情が湧き立つ前に、句会も知らない・・大会もどんなものか知らない・・すごいね!と言われても・・なにがすごいかも良く分からない・・五客って何?という状態でした。・・でも・・いい句だな!

 この句はいつも、そう思っていたことを五七五にしただけで、句を作ったという感情はありません。もう11年前のことです。

 そして、句会に参加するようになってから、まぐれのような、突発性発疹のような天・地・人をいただくこともあり、そのうち同人に推薦され・・なっていました。

 ところが、恩のある川柳人から昨年の9月頃、「あなたは・・同人と言う意味がわかりますか?」と質問された。

A氏は普段は朗らかでこんなことを聞かれるのは初めてだった。「えー・・良く解っていないです・・」と正直に答えた。

「僕はね・・実はあと2年しか生きられないのですよ・・抗がん剤がもうそれしか効かないのですよ・・川柳を勉強してくださいね・・同人の意味を解ってくださいね。」「そんなあ・・今は医学が発達していますからそんなことはないでしょう・・?」と告げたら「今の医学で2年しか持たないのです。」「・・・・」。

 寝耳に水で、心の中では「まずい・・勉強しなくちゃ!・・」の意識変革モードに入らざる負えませんでした。

 池さとし氏の出会いは、7年?位前だったでしょうか?池氏との出会いで、川柳が私の思い描いていた、趣味的な川柳の世界ではないことに、7年かかってやっと、気づかせていただきました。ふつーなら・・もっと早く気づくのでしょうが・・ナントモハヤ?・・かたじけない!・・鈍感力が素晴らしい川柳界の豚児とは・・・私のことで、今考えるとずいぶんな川柳に対する向上心の意識の低さ・・です。あーあ。

 池氏は、禅の人のイメージで、いつも静かに水を湛えて決して他者に対して不快な言葉を使わない方で、鳴くまで待とうホトトギスの心の方です。

 それが、青葉テイ子氏との出会いで、一変したのです。

 私の川柳の導火線に火が点いたのです。句会でご一緒させていただいたテイ子氏の句のレベルの高さに唖然としたのと同時に、「私も上手な句が創りたい!!」と心が発火したのです。

 今、この『泥』誌を転載しておりますが・・ただの一度も入力がおっくうだと思ったことはありません。

 一文字ずつキーボードを叩いていると、本を読むという感覚から全く違った次元の感覚が、御三人の言葉を通じて異字元の世界へと自分の感性が誘われるのです。

 例えば、言葉が私の体内に水のように注ぎ込んでくる感触。キーボードがピアノをゆっくり弾いているような音律の感覚。

 容子さんの文章を打っているときは、自分が容子さんなのか・・容子さんが自分なのかわからない感覚に何度も襲われました。

 そして、創刊号はボロボロの涙。2号はひたひたの涙。三号はしとしとの涙が襲ってきます。この感覚を言葉に出きるほどの技量は無い私ですが、彼女の魂は空間に位置する。
そんな風に思えてきます。

 池さとし氏・青葉テイ子氏・佐藤容子氏の言語は、脳細胞から発せられるのは常識としても、私の体内感覚は・・人間の体の3分の2が水分と言うことですが、彼らの言葉は全脳から体内水分を経由して言葉が出力しているような気がしてなりません。

 言葉が水から聴こえてくるのです・・だから・・瑞々しいということなのかも知れません。
 川柳で、酷使した言葉のレシピが彼らの中ですっかり浄化されているということなのかも知れません。そして今、これからも・・私はこの水に聞きながら・問いながら下手な川柳を作っていく人生なのでしょう・・。『泥』誌のおかげで、またまた川柳が大好きになりました。

 先日、30歳のK君が・・3年くらいのスピードで急に川柳が上手になったので、びっくりした私は「どうして?」って聞いたら、「このブログを見たりしてまっす!」とは、 ちょいと!嬉しいね!

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散隔情誼

2007年10月15日 | 川柳
             現代川柳『泥』第三号

 ◎「書くことは、恥をかくことである。」という言葉に頷きながら、「恥をかくことは前進につながる」ことと信じ肝に命じたとき、ペンが少しずつ軽くなってくるような気がした。書きながら、消しながら、漠然としていた「何か」が浄化され、おぼろげながらも輪郭が見えてきた手応えと、温かくて厳しい眼差しに支えられているという実感は嬉しい。誌を創るプロセスに充実感がある。
 個性的な香りの漂う川柳誌が次々と誕生している。個々の匂いを楽しみたい。「泥」は泥臭く・・・。(容子)

 ◎平成15年の幕開けを待っていたかのように、新しい風が吹いた。青森から「双眸」、岡山から「バックストローク」の創刊である。両誌共通の際立った特色のひとつに、選者評のスペースが十二分に確保されていることがある。選者の作品に対する真摯な姿勢が続くかぎり、そこからいい作家が育つであろう。

 待望久しい曲線立歩氏の句集「目ん玉」が、上梓された。労を惜しまない辻晩穂氏のひたむきさに拍手したい。定金冬二句集を出した倉本朝世氏にも同じく。(さとし)

 ◎啓蟄・・・(陽暦の三月五日前後、冬ごもりの虫)
外界を脾睨しながら、そろりそろりと這い出す虫にも似て、『泥』もいよいよ折り返し点にきた。今号、四つの題とがっぷり組んだ、川柳、ア・ラ・カ・ル・ト。

心の奥にもやもやしている得体の知れないものを、素手で引っ張りだすのは、文の上手、下手とは関係なしに一種の快感が・・・。それも、温かくて厳しい読者の目があればこそ。そのエールに押されながら、這い出した虫。シャワー全開にしてなにかを待つ・・・春。(テイ子)
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蜃気楼・・・青葉テイ子

2007年10月14日 | 川柳
       現代川柳『泥』第三号 竹嶋史著「あい 愛 あい」鑑賞

 樹氷がきりりと哭き、氷点下の毎日が続いた北の国。如月の寒波を縫うように届いた。
「あい 愛 あい」第四句集がどさり。

     わが道を行く。これからは誰からも制約を受けることなく、
     自由に自分の信念を貫く覚悟である。

 著書 竹島史氏のはじめの言葉である。
 この、いさぎよさがなんとも快い。
 人は皆、自由に生きたいと誰もが念じるが、自由の中の不自由さは、いかんともし難  い。
 この句集人の息遣いを感じさせるあたたかさだ。

 第三句集同様、六人の川柳エキスパートによる選がずらりと並び、それぞれの作品鑑賞は読み応えのあるものだ。一貫しているこの形態は、氏の拘りのひとつなのであろうか。

 回想句は、美しい妻恋いのうた、そして、反骨の文字がちらちら見え隠れしている中で、気弱な面が、ちらりと見えるのは、私の思い過ごしか、深読みか。

 数多い海外旅行の見聞なのか、実体験なのか。そのいずれかで、あの雰囲気を身につけたのであろうか。

 私の勝手なイメージが、イメージを生み、粋なこの句集をのめりこむように一気読みしてしまった。

 緑内障、白内障とか、炎え尽きるまで・・・とのご本人の弁だが、毎年句集を編むという大変さを思うと、あまり無理をしないで、と進言したくなる。反骨精神がある限り続くだろうが、静かに炎える蜃気楼がある限り。

             無菌室に入れたい奴が一人いる
             パントマイム無口の貌が訴える
             猫のつめだけ光っている不況
             マドンナとふたりで遊ぶ海がある
             蟻地獄魔女がワタシを話さない

執筆者のご紹介

     須田尚美(すだなおみ) 1930年 足利市生まれ  羽生市在住
 
日本川柳ペンクラブ常任理事。
川柳人協会会員。埼玉川柳協会幹事、川柳マガジン選者などで活躍中。
句集『蛍火』を刊行する。

     細川不凍(ほそかわふとう)1948年生まれ    当別町在住

昭和45年句集「青い実」同61年句評集「北の相貌(上)」
同62年「雪の褥」を刊行。川柳Z賞(川柳の芥川賞と呼ばれる)など多数受賞。道産子、新思潮に所属。
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孤高なる生命の輝き・・・池さとし

2007年10月13日 | 川柳
      現代川柳『泥』第三号 曲線立歩「めん玉」鑑賞

 ・・続き。

       列車の先頭は坊主であるか
               ひざまづくふるびた膝の精一ぱい
       嘘は嗚呼染色体の花一面
               いのちが割れても数個は星
       十字架を のぼる泥人形の 笛の音

 句集「めん玉」に展開されている、スリリングでダイナミックな想像世界から、「川柳は文学である」と主張してやまない、曲線立歩というひとりの人間のあくなき闘いを感受してしまう筈である。

 詩的なまでのとも思える言の葉の駆使、縦横無尽な思考操作から産み出される命の宿る言霊には、ことばを磨く文学的な営為な存在を認めなければなるまい。

           火の縄の灰反り返り立ち上がる

 言葉の絶景などと言う表現が存在するならば、詩は時として、その有用性を実証して見せる。川柳もまた、そのカテゴリーに位置する。

 この作品もまた、「老人蒟蒻」と、同様、日常と非日常の裂け目に佇む不思議な、しかも、類稀なる凝視に眼を意識せざるを得ない。

 「火の縄」は、あくまでも火の縄であるのか。おそらくはそれと同時に、やがての自分自身をだぶらせているとして鑑賞するのが正確なのであろう。

 「火の縄」に限らず、万物は生きている。この世に存在する全てのものは生命体であるとの立場で、カオスとコスモスの絶え間の無い円環運動を繰り返す中から、深層意識の言語風景が生まれ出て来る。

 縄が燃える、このきわめてありふれた日常も、あたかも生きているが如く、身を反らして立ち上がる光景は、人間であるかぎり、誰もが必ず真実として受けとめなければならない、やがての非日常の世界へと重なる。

先の掲出の
            いのちが割れても数個は星
 
 については、1994年オホーツク、第260号に触れさせて貰ったので、強く印象に残っている作品の中の一句である。

 この時、いただいた立歩氏からの便りで、書くということの充実感に浸ることができた。書くことに目覚めた。

(さとし兄の作品論があるので、曲線立歩はわからぬ作品で片づけられていた筈なのに、生き生きと呼吸をしている作家にさせられたのである。

          一人の老人が嬉しそうに泣いている  立歩

 最も仲良しだった向山乃影子が逝き、僕を大切にしてくれた過納愛山が逝き、銀河鉄道の客車は賑やかになる。深謝。)

 あれから、もうすでに九年の歳月が流れた。

今、こうして再び曲線立歩氏の作品に触れることのできた喜びは、ことのほか大きい。「めん玉」ばんざい!
 
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孤高なる生命の輝き・・・池さとし

2007年10月12日 | 川柳
     現代川柳『泥』第三号 曲線立歩句集「めん玉」鑑賞

 きょくせんリっぽ(1910-)斜里町に生まれる。川柳氷原社に参加。NHK札幌放送局文芸川柳の選者を三年間、HBC放送「日本の綴り」の選者を七年間担当するなど、数多くの選者経歴がある。

 終始一貫「川柳は文学である。」と、主張し続けている、北海道川柳界の大御所、曲線立歩氏の句集「めん玉」の誕生である。
     
           老人蒟蒻 太陽 突き当たる

 「老人蒟蒻」という一個の物体への転化、そこに、外からの凄まじいばかりの凝視と、葛藤する内奥の喩の二面性を、投影させている。

 「老人蒟蒻」としての設定には、当然のように老いの意識が見え隠れする。それでいながらこの作品には、絶望感とか虚無感を感じさせない力強さがある。

 それは、必然的余命へとつながる。さらには、いのちの透明さまで行きつくことになる。

 これが、「太陽と突き当たる」という言語処理に結びつき、不思議なひとつの世界を構成した。

 否、不思議な世界と言う表現は、妥当性を欠くかも知れない。

 作者の凝視している、「太陽と突き当たる」には、人間だれしもが実感する、余命イコールかけがえのない透明ないのちの象徴を、光として結実させたのである。

             日常の彼岸がそれである。

 つまり、日常と非日常という、二つの異空間を見据えて、時間と空間を凝縮して見せたのである。

 明の「生きる」と、暗の「死ぬ」の裂け目に、足を踏み入れて、ひとりの人間として漂っている、老いを意識した自己との内面対決を試みた作品と言えよう。


 ひとつは、光の表の部分にあたる希望や挑戦などのプラス思考がそれであり、もうひとつは、全く逆にあたるマイナス思考である。

 「老人蒟蒻」と言い、「太陽に突き当たる」と言い切る強靭さは、まさしく孤高である。

 生命体の輝きを内在する作品の重厚性を、まざまざと見せつけられた思いがする。
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祭りの場・・・青葉テイ子

2007年10月11日 | 川柳
      現代川柳『泥』第三号 大会・句会での課題について

 川柳は孤独な文学である。

 誰に教わるものでもなく、巷に溢れる川柳誌の中から川柳を読み、感じ、そして柳論を読んで考えて、川柳のなんたるかを、自ら会得するものである。

 その積み重ねが、いわゆる研鑚であろう。それぞれの吟社に指導的立場の人がいれば、暗黙のうちに得るものがあるに違いないが、それにしても、感性の錆付いた人間、何ものにも感動しない、という人間も少なくない。

 作句上一番大切とされる感動がなければ、川柳人としての資質を問われることにもなろう。

 加齢と共に鈍化してゆく脳細胞を叩いて、感性をゆさぶらなければ、と思うこの頃である。しかし、どんな優秀な指導者がいたとしても、学ぶべき努力の無い人間はいかんせん「猫に小判」に等しい。そうならぬためにも、小さなことにも感動し、感性を磨かなければならない。

 毎月、行われる例句会も、どこかマンネリ化して魅力に乏しい。因は課題にないだろうか。イメージの広がりを誘うもの、ありふれた題でないものがいいが、どうも毎月、イージーに過ぎているような気がしてならない。

 仲良しごっこ、お楽しみごっこでは、新人の育成には程遠いことだろう。川柳の啓蒙も魅力あってこそを、肝に銘じていきたい。

何か名案はないものか。

 いま川柳界は、各種大会が華ざかりである。
 大会は祭りの場、秀句と出合う場、そして選者が試される場である。

 北海道大会も、数年前から合点制がなくなって、一句一姿がすっくと立つようになったのは、大きな進展であろうか。しかし、そろそろマンネリの様相も呈してきた。

風土性がなく、独自の個性も乏しく、彩りが少ない。

 優秀なプランナーはいないものか。川柳界に旋風を巻き起こすような新しい風がほしい。

 川柳人の中には、比較的課題否定論者が多い。

 雑詠は、思いを表白する。課題は、作るべくして作るいわゆる作られたもの、という意識なのだろうか。

 しかし、寄りかかるものがあれば、初心者でずぶの素人でも、五七五の口語体はたちまち出来るのは、題の効用だとも思う。

 昨年、どこかの大会で「百歳」の課題がでた。これは耳からきいたことなので、大会名も作者名も失念したが、

           特選句  百歳の性欲ただいま微調整
 
 高齢化社会の中にあって、この百歳の心意気には肝をつぶした。この心意気がある限り、このパフォーマンスがある限り、まだまだ加齢なんのそのである。

 課題もまた愉しからずや・・・である。
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母の手の鳴るほうへ魚形のおまえ

2007年10月10日 | 川柳
       沖で待つ父のなきがら吾のぬけがら    細川不凍

 現代川柳「新思潮」のNO82で片山哲郎氏は、この細川不凍氏の作品について「この九月に全身を縦に切り割く大手術をした細川不凍氏であり、介護の手が無ければ生き延びられぬ、ぬけがらのような吾がここにあるという。壮絶な現代川柳の生命である。」と評している。

 川柳という作品の核にあるものは、感覚的知覚に対して、純粋に内面的な精神活動をする表皮的意識の表白ではなく、生き延び永らえるという生命の壮絶な闘いの存在、詩魂の表白が叫びとなって活写されなければならないと思う。
                        (笑葉・・水脈4月号抜粋)

      病みゆるむ桜前線ひきよせて      細川不凍
      仕置場のさくらが凛と咲くのです     細川不凍

 日々病と闘う不凍氏。激痛と戦いながらも生きようとする、計り知れない精神力を持ち合わせた人である。

 少しではあるが激痛から開放されたときは、精神的にもゆとりがでてくるのであろう。
ソメイヨシノのあの見事な開花前線をひきよせる不凍氏のオーラに、明るい兆しが見えてくる。

 不凍氏は病魔という、いつ断罪されてもおかしくない仕置場に立たされている。しかしそこには病魔に屈しない「さくら」が慄然として開花しようとしている。

 りりしく咲く「さくら」こそ、まさに不凍氏そのものなのだ。
真実の表白は虚を超えて衝迫する。       (笑葉 原流7月号より鑑賞)

     新子逝く菜の花畑に子を産んで    細川不凍
     ひまわりの首の折れ目の青春忌    細川不凍
     八月の廃港 幽霊船が着く      細川不凍(原流・・9月号)

 容子氏の「凛としたオーラ」の細川不凍作品鑑賞に、しばらく時間が止まった感の私である。
         雪を褥にまぼろしの妻抱きぬ  不凍

 大会前にして、この句と容子氏の渾身の文筆力と自分自身の内面と照らし合わせ

 私も、画面が真っ白になる句が作りたくて、雪と葛藤することがある。
でも、この句のまぼろしは、まぼろしではなく実在するはずだと勝手に思っている私がいる。

    氏の中に存在しないものに、心打たれるはずも無いはずだと思う。

    真っ白な画面は、やがてシャガールの絵のような画面を想定させる。

  笑顔の美しい明るい女性が見えてくる、真っ白な褥(布団は)は冷たくなんか無い!

   雪は、人を選ばずに・・差別しないで風のご機嫌次第で勝手に降って来る。

雪はふたりの温かい羽毛布団に変わる・・・雪はあったかい・・不凍氏のこころの奥底に褥を見たのですか・・・。容子さん。

そんなこんなを考えて「ぬ」止めの句は大きな画面を静かに閉じる効果も発見しました

    今まで、中央に作品を発表し続けていた不凍氏だと窺っています。

      これからは、原流で魚にでもなって一緒に泳ぎましょうネ!

     原流は容子さんも在籍していた結社です。魚の句が上手でしたね。

          石室の扉を叩く郵便夫        容子
          小春日の産卵ひそと光る刻      容子
          あやとりの川に魚きて消えていく   容子(2005・11月号)
          母の手の鳴る方へ魚形のおまえ    不凍
 
          酸欠の街を流れる深海魚       私

         川柳っていいね!句は生きている!!
 


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