川柳・ボートっていいね!北海道散歩

川柳・政治・時事・エッセイ

菜の花畑で句を生んでいる・・・容子さんへ

2007年10月09日 | 川柳

 去る十月七日札幌において、川柳生誕250年を記念して「川柳全国大会」が開催されました。

 泉下で、すばらしい句を生んでおられるはずの容子さんへ、とっても嬉しいお知らせがあります。

 それは、五十年に一度しか開催されない「歴史的な大会」の、第二部で池さとし氏が総合一位に輝きました。

 なるべくしてなったと個人的には思ってみても、やはり大会には「運」「不運」の風が容赦なく吹きすさびます。

 そんな、川柳の大きな歴史の川の流れも、風も、氏をやさしく、強く曳き寄せました。

「よかった・・!」「歴史の人になった・・!」という喜びの波が、静かに・・静かにひたひたと私の心に打ち寄せて来ます。それと同時に、「ほっとした・・・」という思いも正直湧いています。

   当のご本人はいつもと変わらず「沈着冷静」に発表を聞いていました。

「決して誇らず」「決しておごらず」「決してよりかからず」は、普段の氏ではありますが・・「決して今日が最高ではなく」「またゼロか・・」などと、思いを深くしておられたのでしょうか・・・。

きっと今ごろ、お祝いの電話に「いやいや・・まぐれでねー」などと対応されているお顔が目に浮かびます。

講演も、授賞式も終わり、道立文学館で開催されている、特別企画展「目で識る(しる)・・川柳250年」へ移動して見学して来ました。

氏が編集された、現北海道川柳作家の魂のぶつかり合いも懐かしい「あんぐる」も「泥」誌も文学館所蔵と記されており、「またまた・・・ほっとした」・・私です。

池氏は休む間もなく、文学館内で開催されるフォーラム「川柳の未来を考える」の第一パネラーとして、責務を果たされておりました。

この「泥」を転載している最中に、こんなうれしいことに遭遇できてほんとうに良かった。

先月、みんなで伊達の容子さんのお寺参りに伺ったので、容子さんが春の風を一足先に連れてきてくれたのでしょうか・・。そんな気がしてなりません。
 
ちなみに、私も自分でも信じがたい総合12位のクリスタルの盾を受賞しました。
今年は、すべての大会についています。支えて下さった皆様にこころをこめてありがとう
の感謝状を・・わたしから・・捧げます。ありがとう。

悲しみからの美しさ、苦しさからの優しさ、厳しさの中からのおおらかさを大切に、川柳300年へ少しでも貢献できる人間になりたいものです。

ところで、菜の花畑で句を作っておられるでしょう・・容子さん!

あなたが「不凍氏に断られても不凍氏の妻になりたい!!」と生前よくおっしゃっていたとテイ子姉上様に窺いました。こんなこと書いていいのかしら?の問いに・・・テイ子姉上さまは「私は、不凍氏を思いっきり抱きしめたいのだから・・!書いてあげて!!」

「不凍」氏に貴女の「いとほしさの風を手向けてください」
    不凍氏の守り神になって下さい。それがテイ子さんと私の願いです。
    

そして、「原流」で前号より不凍氏の句を拝見させていただいております私ですが・・私の意識の中であなたの存在が、私の人生の価値を、川柳への姿勢を「ハッと!めざめさせていただきました。」今すぐお会いして抱きしめたいのは私とて同じです。

不凍氏へ・・・あなたの前では、自分の総てが色あせてみえます。
原流の誌上でお逢いしましょう!

         来号よりあなたの連想吟の雑詠を創ります!!




 









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しなやかな翼・・・佐藤容子

2007年10月06日 | 川柳
      現代川柳『泥』第三号 大会・句会での課題について

 共通のテーマで、各人各様がイメージを膨らませ作句しているときの雰囲気はピリピリとした中にも、大会や句会ならではの楽しさがある。

 そして、それらの作品が披講されるときの期待感は、未知の世界を覗くような好奇心にも似て、課題吟ならではの醍醐味を味わう瞬間でもある。

 それらの一句一句に耳を澄ませていると、ある作品からはミクロの世界へと、またある作品では巨大な宇宙へと、聞き手たちの無限の空間へといざない、一方では現実味を帯びた作者の声や、厳しいまなざしから、リアルな世界に連れ戻されたりと、五感をしなやかに浮遊させながら、作者のイメージと表現の自由なはばたきに感嘆してしまうときでもある。
 そして、ひとつのテーマへ、同等に向き合い句作することは、より豊かに鮮やかに個性の差異を観る愉しさでもあり、雑詠吟の個性とはまた違った個性の発見がある。

 それは課題と取り組む作者の発想力や表現力などに、すでに個のたましいというようなものが、移入されるからなのではないだろうかと思える。

 そう言いながらも、実は課題吟には同想句が集中してしまうという現実が確かにある。

「課題に忠実であれ!そして翔ぼう!」とは思いながら、翔ぶに翔べないことがある。

 その理由のひとつとして、概念的で、一定の城から作句者としての怠慢という指摘があるかも知れないのだが、そうばかりとは言えない。

 ここ数年前から大会や句会でイメージ吟という、従来にない課題方法が各地で、ひとつのブームになってきているのだが、これは、同想句を避けるには良い方法ではないかと思っている。

 始めて、こうした大会を経験したのは、青森の「北の広場」でのことだった。それは、箱の中の見えない物体に触れることと、朗読された一遍の詩からと、鉢に植えられた花を視て、の三題だった。参加者の触覚、聴覚、視覚に委ねられた課題には、同想句が殆どみられず、それにも益して、きらきらした作者の新鮮な個性の響き合いに心地よい刺激を受けたものだ。

 川柳とは個の文学であり、孤を表白するものだから、課題吟は不要なのだと言う意見がある。分からなくはないが、個人の内面世界にばかり終始している作品では窒息してしまう。時には自由につばさを拡げ仮想の世界を飛んでみたい。

 課題吟の連帯感は、大会には不可欠な存在である。あくまでも課題に忠実に、そして自由に。
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意欲をかきたてるもの・・・池さとし

2007年10月06日 | 川柳
        現代川柳『泥』第三号 大会・句会での課題について

・・・続き。

 全国的に見ても、きわめてユニークで魅力的な大会と思われている「北の広場」の大会での「課題」を眺めて見ると、平成13年は「心」「色」「観る」「聴く」「触れる」であり、席題は「水槽の中にめだか数匹」「植物の種の入った細長い楽器」「小さなかごに  炭化した松かさ」を、見たり聴いたり触ったりしての連想吟でその中から次のような作品が誕生した。
 
          聴き役にまわろう春の目鼻立ち   はる香
          観覧車児のおしっこよ虹になれ   州 花
          渡来仏とぼとぼ行けば水けむり   作二郎
          さむいからみんなで名前呼び合うの 裕 子
          僕の戦史です歯形がずれている   一 車

    また14年度は、「波」「気」「狂」「間」「土」「唄」であった。

 北海道大会のここ数年の「課題」を観てみると、平成11年、「移動」拘る」「捏れる」「笛」「馬」「匙」

         寸劇は終わった回転木馬の眼    青葉テイ子

 平成12年、「来た」「海」「道」「昇る」「実る」「響く」「試す」
   
         スイカ完熟 八月の死者呼びにゆく 大橋百合子

 平成13年、「しっとり」「せっかち」「きっかけ」「紙」「血」「鏡」「箱」「トンネル」。

         再生紙わたしの昭和史を包む    佐藤 容子

平成14年、「刻む」「捨てる」「信じる」「利」「礼」「涼」「風」で、

         最果てを人間臭くする風車     干野 秀哉

 作品は、知事賞を獲得した作品で、課題それぞれの特選句を、さらに第二次選考にかけてのものであり、かなりの討論の時間をかけて決定していると聞いている。

 テーマからは、まったく離れて横道に逸れてしまうのだが、最近特に、充分な話し合いのもとで決定されたであろう筈の作品が、後日違う場において、選考委員に真っ向から批判されているとの噂が耳に入ってくる。

 そんなことから推測すると、第二次選考会では、十二分な討論がなされていないために起きる現象なのではなどと思ったりしてしまう。

      本論に戻ろう。
 
平成15年の課題は「占める」「返る」「住む」「音」「夢」「路」である。

 作者は、課題と言えども、ひとつの題に誘発されて、自由なイメージを思い描くことになる。それこそ、創作吟とまったくおなじように、自分自身の魂を投入しながらの創作活動である。
 
 作者のイメージが、大空にはばたく鳥のように自在に百態を演じる風のように伸びやかに、そんなきっかけを与えてくれるような課題であるならば、そこから産み出される作品は、創作吟と同一化がはかられたと考えられるような作品に結びつくこと、おのずから明白である。
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意欲をかき立てるもの・・・池さとし

2007年10月05日 | 川柳
     現代川柳『泥』第三号  大会・句会での課題について

 大会案内を目にするとき、やはり一番気になるのは、選者と課題であろう。

 発表された課題を見ることで、主催する人たちの川柳観がどのようなものか、およそ見当がついてしまう。

 課題に繊細なくらいの神経を使っているところは、ほかのあらゆる部分にも、神経が行き届いているものである。

 課題は、川柳人がいい作品を創りだすための、ひとつの手がかりになるものと考えたい。

 もちろん、全員が納得するような課題など有ろう筈はないのだが、やはり参加する川柳人の心を、前向きにしてくれる題、それをひとつのきっかけにしてイメージの広がるもの、意欲をかきたててくれるような題が提出されると、創作意欲を刺激してくれる。

 課題が、その場かぎりの課題で消えてしまうのではなく、創作吟としても、一人立ちのできる作品となるような手助けをしてくれるもの、きっかけを与えてくれるものを、少なくとも良識のある川柳人は、強く望んでいるはずである。
 
 課題吟と創作吟の同一化、これは非常に大きなテーマであり、障害も山積している。

 ひとつの例をあげれるならば、課題吟の宿命とでもいっていい、時間的な制約の中での創作と言うのがある。

 時間が多ければ、よい川柳が確実に生まれるというものではないが、課題吟はどうしても着想と表現力に、比重がかかりがちである。

 つまりは、テクニックの勝負ということになる。その作者の持つ人間性が、どうしても稀薄になりかねない。

 課題吟に稀薄になりがちな人間性を、いくらでも膨らませたり、投影出来うるような課題の提出を心がけている川柳人や関係者がいる大会。そこには必然的に参加者の顔ぶれも前向きである。

 川柳という、文芸性に裏打ちされた作品には、常に人格が顔を覗かせている。作家の人間性が作品の大部分を凌駕する創作吟に、出来る限り接近するためにも、主催する側の、課題に対する考え方の、質的な姿勢の在り方は、今後も常に問われ続ける必要がある。

 たとえその大会の趣旨が、フェスティバル的な要素に比重が大きくかかっているとして
も、参加する川柳人が少しでもよい作品を生み出すための土壌づくりは、欠かすことの出来ない必修の案件のひとつである。

 課題吟の大会、句会などに占める位置は、選者の資質と共に、川柳が滅びないかぎり、非常な重要な役割を担い続けるに違いない。

創作吟と課題吟の同化を目指しながらの、川柳人の苦吟は、果てることなく続くことであろう。
                              続く・・・・。
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ブラインドの向こう側・・・佐藤容子

2007年10月03日 | 川柳
現代川柳『泥』第三号 川柳をつくる時どんなことにエネルギーを注いでいるか

 明け方のほんのりと青白かった雪は、昼の日差しの中で純白に輝き、やがて夕日に染められオレンジ色へと彩を変えていく・・・。

       見慣れている景色が、新鮮に感じられることがある。

 日常の何気ない自然風景や、他人の行動や言葉に、はっとすることがある。そして、この一瞬を体験を作品にしたいと気持ちは膨らんでくる。

 しかし、これだけでは余りにも主観的ではないだろうか、もっと客観的に、具体的に表現しなければという思いと、さらに、どのような言葉が適切なのだろうかと試行錯誤が始まる。

 それは、読者を意識した緊張感でもある。

 投句するということは、他者に作品を曝さなければならないということであり、当然ひとりよがりにならない自覚と、それと平行して自身の個性を失わないという配慮が要求されていると思っている。

 その上で、句材をどう具体化するのか、どう表現するのかということになるのだが、わたしのレンズは、ピンボケ、ブレと言ったアクシデントを度々引き起こし、表現したいことが読者には伝わらない場合がでてくる。

 その原因として、客観性が麻痺していなかったろうか、あるいは言葉に対しての依存過多がなかったろうかなどとあれこれと考えを廻らせてみる。
 
 では、より客観的な視点や、より的確な言葉を見つけるにはどうしたらよいのだろうか・・・・。

・・・(中略)自分を無にする、空(から)にするといっても、その自己への意識がめざめていなければなりません。日常性から離脱した時間は、やがて日常性にもどったときの新しい力になるためのものなのであって、非日常のなかに自己を消え去らせるものなのであって、非日常性のなかに自己を消え去らせる為のものでは在りません。没批判という言葉を用いたからといって、さまざまなことから人間のなかに生じる変容、そこから新しいよりどころを確立して、以前とはちがった新しい批判力が生まれるでしょう。・・(後略)  (子安美智子著「モモを読む」より)

 右記の一節は、今までにも多くの先達からうかがっていることなのだが、いつもこの壁にぶつかり、ここを抜けられないでいる。

 客観的で繊細な観察と、それに相応しいことばを使った表現が作品を完成させていくといわれているが、観察にしても、どうしても観念の範疇で右往左往しているもどかしさがある。

 いつまでも、そうした観念の殻を抜けられないでいる私の硬さにエネルギーを注いでいるのではないだろうかと、笑えないわたしである。
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真夜中の衝動・・・青葉テイ子

2007年10月02日 | 川柳
現代川柳『泥』第三号 川柳をつくる時どんなことにエネルギーを注いでいるか

 元来怠け者で、あっけらかんと生きている私に、作句上のエネルギーなどは、特にない。

 体の中を表白して自然に生まれる川柳は、感動がベースになって一句が成り立つが、労せずして出来上がったものは、殆どひとりよがりのもので、一人歩きするには到っていない。

 そのため推敲が余儀なくされる。思いをふたたび反芻して、良く噛み、このボキャブラリーが適切か、どうか見きわめながら、とことん推敲を重ねる。

 作句上で大切なことは、感動的な出合いが、どれほどあるかに尽きると思う。

 日常生活の中で、起こり得るさまざまな現象の中で、感情の起伏の激しい私は、人が見過ごしてしまいそうなことに感動することが多い。活字中毒症とも言える私は、就寝前のひととき、その日の気分次第で書架から本を抜き取り、読みふける。

 小説のヒロインの生き方に、涙したり怒ったり、作家の表現方法に心惹かれたり、感動の原点は、本から触発されることが多い。

 川柳・・・この得体の知れぬもの、私の信条とするものは、内面の露呈を恐れず、ほんものを・・・と考えているが・・・はてさて、どれほど本物に近づけるのか。

 真夜中の衝動がふいに訪れて来る時がある。川柳の本が引き金になって、とっぷり川柳
漬けになったとき、不揃いの川柳たちは無尽蔵に生まれる。

 このひとときは、狂の時間とでも名付けようか。

 そして、今一つの提言は、

①いかに常識の壁を破るか。常識という尺度は一定でない。だからこそ、不確かなものの 中にこそ、川柳の真髄が秘められているように思う。

②鋭角に核心を衝く。川柳だけがもつ批判精神は、他の短詩型文学にはない。抒情的なも のを好む精神風土は日本的現象が、その風土があればこそ、批判のアイディンティテ ィがあるのではないか。

 核心を衝く川柳に、人間に対する優しさと、思いやりをベースに置きたい。人間を詠む川柳だからこそ・・・。 

 川柳とは、言葉による抑制の効いたパフォーマンスである。無機質な言葉から放たれる言霊たちへ、いのちを吹き込む作業の、なんと楽しく難しいことだろう。

 1921年、天下の文豪、吉川英二こと雉子郎は、俳句は歳時記があるが、川柳は全宇宙が素材だと提言した。

 混沌とした世相、政治、不確かなものばかりだからこそ、川柳人よ、無限に近い可能性が秘められている川柳、言葉から放たれる言霊たちに触発されながら、自らの思いとクロスさせながら、不確かなもの、不条理なものへ鋭い一矢を向けようではないか。

          日常と非日常を往きつ戻りつしながら・・・・。
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新鮮なまなざしで・・・池さとし

2007年10月01日 | 川柳
 現代川柳『泥』第三号 川柳をつくる時どんなことにエネルギーを注いでいるか

 あたりまえのことを当たりまえの十七音字に、これではなかなか自分自身にも納得のできる川柳にならない。

 もちろん、文学作品などという大げさな看板を掲げるつもりは、さらさらないが、さりとて、はてどこかで見かけたことがありそうだでは、川柳と関わっている意味が稀薄になってしまう。

 今生きてることの証を、惰性ではなく新鮮なまなざしで、作品にする事が出来たらこれほどの喜びはないであろう。

 もちろん、大会や句会での抜けた抜けないの拘りも、確かにひとつの通過点としては、誰でもが経験するのであろう。

 しかし、このハードルを越えた現在ほど、川柳を創ることの楽しさに浸っていることはない。

 ひとつの作品を、完成させるために、今、一番エネルギーを注いでいること、非常に難しいことなのだが、常にひとつの発見があればいいなと思い、心がけている。

 心がけてはいるが、そんな簡単なものではない。

 食後のウォーキング時は、目に入ってくる物に出来るだけ神経を集中し、何か新しいことを見つけ出すようにと意識しながらのひとときになる。

 収穫は、いつも零なのだが、思わぬ時にひょっいと顔を出して役に立つことがある。

 作品の中にいつも新鮮なまなざしをが、自分の今の偽りのない心境である。

 又、いつも心がけていることは、表現はやさしく想いは深くで、これはいつまでも変わらない、終始一貫しての自分のテーマでもある。

 よく、(さとしの川柳は難しくてよく分らない。)といわれることがあるが、そんなときの自分の川柳は、多分素材を完全に咀嚼出来ていない、未消化のままで発表してしまったからに違いないという反省をしている。

 想いだけが先走っていまい、表現がともなっていない自己満足型の川柳から、脱出しなければその都度心するようにしている。

 つい最近読んだ本の中、「青空の指きり」に教えられることが沢山あり、非常に大きな
刺激を受けた。

 恩田皓充という1996年生まれの中学二年の少年が書いた、童話、詩、俳句が羨ましいくらいの伸びやかさで、眩しいばかりの光を放っている。

            我が影にたてがみ潜む春の碁
     はこべの野すてられた靴船出する
                花ふぶき光が涙こぼしてる
     花菖蒲こぼれる夢のかけらかな
                カエルの目地球儀二つはまりけり
     街を切る冬三日月のナイフかな
                春雷や湖の天井髪ゆらす

 これらの作品に見られるような、颯爽としたきらめきを、僕はいつも川柳作品に取り組む姿勢を持ち続けたいと思っている。

 作品の一句一句に、どんなに小さくてもいい、どんなにささやかでもいい、発見や煌きを感じさせるようにしたい。

 川柳という遊びの世界。作品は川柳雑誌、大会、句会を通してひとり歩きを始める。

 発表する以上は、ただ発表しただけで読み手には解らなくても言いと言うことになると、ではなぜ発表するのか、発表する必要がないのではという疑問も出てくる。

 もちろん、解らないまでも感じる作品に遭遇することはある。絵画や音楽の世界と同じである。

 ひとりひとりの価値観、ひとりひとりの世界感によって、価値観は百人百様であることは言うまでもない。

 ひとさまの価値観に、泥靴で踏み込もうとは思わない。あくまでも、ひとはひと我は我である。

 ひとに解ってもらえて、尚かつ感動を与えたり、共鳴してもらえるような川柳、その為には先ず何よりも自分自身が納得するような、作品でなければならない。

    そんなことをいつも心がけながら、ささやかな発見を目指している。

      観念や概念、そして惰性に流されないようにするためにも。
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