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花、蝶、ペット、旅行など。
韓国文化の紹介。

2泊3日の旅 ⑪ 石州瓦、石州和紙など

2012-11-08 12:10:54 | 写真

萩を出発して、バスは、山をいくつも越えながら、県道11号を走り始めました。

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山口県、島根県地方をバスで旅行された方は、お気づきのことと思いますが、沿道には、こんな景色が、良く見られます。

赤い瓦をのせた家々。

他の色の瓦で葺いた家は、ほとんど見当たりません。

この瓦は、旧石見の国(石州)地方の、良質な粘土を用いて、高温で焼いた丈夫な瓦で、同じ

島根県の出雲地方で採れる、鉄分を多く含んだ(来待石)を釉薬として使って、赤色に仕上げています。

山陰地方の、過酷な冬にも耐えられる、丈夫な瓦だそうです。

三州、淡路と並んで、三大瓦と言われています。

帰りの中国道からも、島根、鳥取、広島、岡山辺りまで、ずっとこの色を見る事が出来ました。

石見地方の名物として、石州瓦焼きと言う、焼き肉料理がありますね。

同じ石見の国の地場産業として、石州和紙があります。

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↑石見夜神楽に出て来る、大蛇。

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↑石州和紙を用いた、伝統工芸品です。

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津和野と言えば、なんと言っても、鯉と森鴎外ですね。

鴎外は、石見国津和野藩御典医、森家に生まれましたが、10歳の時に、父と共に上京し、

その後は、津和野へ戻る事はありませんでした。

津和野の人々は、郷里の最大の偉人として、彼の生家を記念館として、保存しています。

庭には、大きな槇の樹がありました。

鴎外が生まれた時、森家では、記念に、槇の木を植えたと言う記録が残っており、今年は、鴎外生誕、150年との事で、この槇は、樹齢150年と言われております。(写真は、有りません。消去してしまったようです。)

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↑ツワブキ。鴎外記念館の庭に咲いていました。

案内人が、手折って、一枝渡してくれました。

増えすぎて、困っているそうです。

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↑戴いて持ちかえりました。

挿しておいたら、蕾が、全部咲いて来ました。

つくといいのですが。


2泊3日の旅 ⑩ 萩観光ホテル、笠山、明神池

2012-11-08 09:20:15 | 写真

松陰神社参拝の後、萩市笠山にある、宿泊地、萩観光ホテルへと向かいました。

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ホテルは、笠山のはずれの岬の中腹にあります。

この右手奥にある笠山は、標高112m,日本一小さい火山だそうで、頂上には、直径30mの、東洋一小さい噴火口が残っているとのことです。

大昔は、独立した島でしたが、砂州が発達して、本土と結ばれました。

砂州の中に取り残された海水が、明神池となって、今も残っています。

瓦礫の隙間を海水が行き来して、潮の満干があるそうです。

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↑ホテルの窓から見た景色。

夕食は、フグ御膳との事で期待していたのですが、トラフグではなくて、地元の小さなフグでがっかりしました。

写真は有りません。

温泉は、火山島ですから、いい、湯でした。

翌朝も良い天気になりました。

下まで下りて、散歩です。

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↑明神池

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↑厳島神社。

萩藩2代藩主網広のとき、安芸厳島神社を模して建立されました。

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満潮になると、沢山の魚が、入って来るそうです。

そう言えば、昨夕、ここを通った時に、沢山のトンビが群れていました。

魚を狙っていたのでしょう。

この子達も、魚には、不自由していないようです。

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綺麗な池、明神池でした。

バスは、ホテルを後にして、最後の観光地、津和野へと向かいます。


2泊3日の旅 ⑨ 萩、吉田松陰

2012-11-08 09:19:33 | 写真

秋吉台を後にして、バスは国道262号を、萩市に向かって進みます。

萩市の入り口に、松陰記念館(道の駅)がありました。

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↑松陰と、幕末の英雄たちの若かりし頃。

バスは、松陰記念館を出て、萩市内へ入りました。

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↑松陰神社。

松陰を祭神とする神社。

松陰刑死の後、松下村塾傍に、小祠を設けたが、伊藤博文らの努力により、社格を得て、

現在の社殿は、昭和30年に造られたものです。

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松陰は、萩藩士杉百合之助の次男として、この地に生まれましたが、6歳の時に、叔父の

吉田大助の死により、その後を継ぎました。

日本各地を旅しながら、見聞を広めましたが、藩命に2度そむいて、その度に、野山獄に謹慎を命じられます。

やがて、禁を解かれて、実家の杉家の戻されると、松下村塾を造り、若者の指導にあたりました。

明治維新を遂行した、多くの逸材達を、ここで育てます。

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松陰は、朝廷に無断で日米友好通商条約を結んだ幕府を批判したため、井伊直弼の安政の大獄で、処刑されます。

松陰30歳の時でした。

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松下村塾の謂われ。

当時、この地域は、松本村と呼ばれていました。

この事から、本を下に代えて、松下村塾と名付けられました。