物が溢れている、今の時代とは違って、日本が貧しかった時代です。
今でこそ、アフリカや、北朝鮮の様な、発展途上国の国民が、TVに映し出されると、バカにし
て嘲笑えますが、あの頃は、もっと貧しい日本でした。
上の学校へ行ける者は、成績が良いだけでは無く、親の経済力も、大きな要因でした。
中学校の50名弱のクラスで、進学校と言われる高校へ行けたのは、3~4名でした。
そこから、さらに上の教育を受けられたのは、半分程度でした。
あれから、50有余年。
毎年、同窓の中で、物故者が出るのは当たり前になって、かっての後輩から、案内状が届き
ました。
元気な内に、寮生が一緒に集まろうと言う話でした。半年前のことです。
後輩達が、頑張って、用意周到な同窓会を用意してくれました。
4年間、寮で世話になった寮生の同窓会です。
集まったのは、71名。
古くは、昭和25年卒寮生。
21年入寮ですから、戦後建てられた直後の、1期生かも知れません。
85歳くらいでしょうか。
お元気なものです。
資材の乏しい時代でしたから、辛うじて焼け残った、連隊の旧舎を移築して建てたものです。
50年振りに訪れて見たら、グランドが残されているだけで、寮の跡は、鉄道会社のスーパーになっていました。
寮は、グランドの脇に移されて、鉄筋コンクリートの建物に代わっていました。寮名も別の
名前になっておりました。
我々が、卒寮した、4年後の事だったそうです。
新しい寮には、我々が御世話になった寮母さんの、娘さんがお勤めとの事でしたが、お母さんは、十数年前に亡くなられたとのことでした。
↑年一度の学祭の仮装行列。
暇な寮生の努力で、上位入賞の常連でした。
↑後で出て来る写真の中で見つけられるでしょうか。
新入生歓迎コンパ。
突然夜中に起こされました。
パンツになってグランドに出ろと言われて、外に出ると、ストームを焚いて、寮歌斉唱です。
ひとしきり蛮声を張り上げた後、部屋で胴上げの歓迎です。
何で、部屋の天井が壊れているのかと不思議でしたが、この時、分りました。
軽いものが、天井まで、放り上られるのです。
↑年に一度の寮祭。
部屋ごとに、演目を決めて、全員参加です。
昼間、町内の住宅地へ、チンドン屋の様な格好で宣伝をして回ります。
市内のストリップ小屋のアルバイトで、知り合った芸人の友情出演などもあり、結構評判が良かったです。
女形の濃艶な踊りとか、蛇使いの芸なども有って、好評を博していました。
歓談しながら、順番にステージに上がって、寮歌を歌って昔を偲びました。
50~60年前の青春でした。
2次会は、思い思いに、それぞれ出かけていました。
我がグループは、飲ん平は、mcnjだけで、コヒーショップで、昔を語り合っただけでした。