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終戦の日

2017-08-15 00:11:23 | 日記

今年も、終戦の日がめぐってきました。

日本人として、この日に、何を考えなければならないか。

2年前の、戦後70年にあたり、幼い記憶を思い出して記録した過去ログですが、振り返ってみたいと思います。

 

 

四日市空襲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/06/29 03:58 UTC 版)

概要

人的被害は、被災者47,153人、死者736人、負傷者1,500人、行方不明者63人。約1時間の絨毯爆撃で全市の35%が焼失、市街地は焦土と化した。
  • 以後、8月8日まで合計9回の空襲を受け、海軍燃料廠をはじめとする工場群は壊滅的被害を受けた。
全空襲による人的被害は、被災者49,198人、死者808人、負傷者1,733人にのぼった。

日程

  • 空襲のあった日は昭和20年6月18日、22日、26日、7月9日、24日、28日、30日、8月2日、8日の計9日間であった。

関連項目

 

 

平和を願う橋三瀧橋
本文  三瀧橋は、御在所ケ岳を源流として伊勢湾へ注ぐ三瀧川に架かる旧東海道四日市沿道の橋である。
 平成六年八月吉日、新しく架け替えられた三瀧橋の渡り初めの日である。中部中学生の吹奏楽が高らかに演奏されるなかを、山高帽に紋付羽織の三夫婦を先頭に生まれ変わった三瀧橋の渡り初めが始まった。私は心をはずませながら皆の笑顔に混じって橋を渡った。戦前の三瀧橋の姿を充分に残しているうれしさに橋の欄干に手を置いてみた。欄干からつたわってくる夏の陽射しが遠い日の思い出を誘うかのように胸の奥から湧き出るのを感じた。
 旧三瀧橋は、大正十三年市内初の鉄構橋で道巾も広く、橋の両端には大きく刻まれた石が積み重ねられ石柱をかたち作ってた。石柱の上にはモダンな外灯が付けられ、橋をいっそう瀟洒(しょうしゃ)な装いにしていた。橋の附近には消防車の車庫や、警察の派出所があった。夏の夜の橋の上は人影が多く、七夕や花火大会の日は人混みで賑わっていた。冬は雪景色の河原にかき舟の明かり(牡蠣(かき)料理店)が川面にうつり情緒豊かな風情であった。春は桜堤を楽しんだ。戦争が闌(たけなわ)になり、橋の袂(たもと)に立って、武運長久を祈り千人針の一針を願って女性の幾人立ったことか。そして戦災の惨めさを充分に体験した橋であった。
 三瀧橋の近くに住んでいた私は、昭和二十年六月十八日の四日市大空襲に出合った。六月十七日午後十一時半頃、一亘解除になった警報が空襲警報に変わったとき、町内の警防団に詰めていた父の大きな声が戸口から聞こえた。
「今夜は危ない、早く逃げなさい。」
と言って出ていった。妹と私はかねて用意の非常袋を持ち、弟二人は各々の自転車に荷物を積んで羽津山の伯母の家に向かった。末弟(小一)妹(小六)と母と私は、前庭の防空壕に入った。まもなく、隣の○○さんが、
「○○○さん、そんな所に入っていてはいけません。早く逃げなさい。」
と、注意してくれた。○○さんは名古屋の空襲で焼け出され里帰りをしていた。私は早速弟と妹に二人で逃げるように言い、母と二人で家を守ろうと思った。家の中をうろうろしているうちに、裏の建福寺を隔てて第一小学校の方に火の手が上がった。私は逃げなければと急いだ。いつまでも家に執着している母を促し、母の手を取って家を後にした。家を出て十軒程きた所で焼夷弾の爆撃に出合った。焼夷弾は母と私のすぐ横に落ちた。幸いにも直撃をのがれたので、母の手を強く引っぱって通り抜け三瀧橋へと走った。橋の手前の髪結屋さんの家が燃えていた。私は橋を渡ろうかと迷ったが渡らず堤へと向かった。堤防は人、人、人で肩を触れ合い、押し合うほどで走ることも通り抜けることも出来なかった。四日市の多くの人が三瀧川をたよって集まっていた。B29の攻撃で照らし出された人々の悲愴な顔を見て、私は焦燥に駆られ母の手をしっかりと握った。
 人の流れに流されて知人の家の前に来たとき、○○さんの母親が乳母車の中に座って両手を合せ念仏を唱えていた。見て見ぬふりをした心残りが今も私の胸底に残っている。何回目かの焼夷弾が三瀧川へ雨のように投下され、シュシュシューと金属音をたてて砂の中に突き刺さる音と同時に上がる人声の異様さに、川の中を這うように川上へと移動していた母と私は抱き合って息をひそめた。
 川靄(もや)を通して見える薄明かりに音なき夜明けを感じた。暁光に浮かぶ三瀧橋、明治橋、近鉄鉄橋の残っているのを見て力強さを感じた。B29の爆音の消え去った東の空を燃やして真紅の太陽が昇ってきた。その時「生きていた」という喜びが一夜の悲しさを吹き飛ばした。太陽に勇気づけられた私は、父や弟妹のことが気になり母を堤に休ませて三瀧橋に向かった。
 明治橋に近づくと人の倒れているのが目に入った。明治橋と三瀧橋との間にはより多くの人が倒れていた。
息絶えている人、助けを求める人の声、なすことを知らない私は手に汗を握って走った。三瀧橋附近には人が重なるようにして倒れていた。三瀧橋は熱くて渡りづらかったが思い切って渡った。橋の上から見る街は焼け野原で、建福寺の墓地のみが寂寞(じゃくまく)と見えた。河原に降りて橋脚を見ると逃げてこられた人々が大勢集まっていた。私は近づいて妹と弟の名前を祈る思いで何べんも大声で呼んだ。すると、橋の下から真黒の顔をした子供が二人泣きながら私の方に向かってきた。私は駆け出して二人の肩を抱きしめて泣いた。三人は言葉もなく涙と埃でくしゃくしゃであった。
 三瀧橋から見るはるかな鈴鹿嶺の峯々は、優美な姿で今も私に語りかけてくれる。三瀧川の流れは、あのいまわしい戦争の犠牲となられた御霊に哀悼の祈りを捧げるかのように晶々と流れている。生まれ変わった三瀧橋は永久の平和を願う橋であるように思った。

   
 

 

 

 

 

 

 

【裏】

殉難碑撰文
 昭和十六年十二月八日に勃発した太平洋戦爭
は、ポツダム宣言受諾によって、同二十年八月
十五日遂に我が国の敗戦に終った。
 この間、アメリカ空軍重爆撃機B29による
日本本土への空襲は日ましに激化し 戦禍はとど
まるところを知らなかつた。海軍燃料廠をはじ
め多くの工場群を擁した四日市市も、前後六回
にわたる苛烈な爆撃により壊滅的被害を受けた。
 わけても最初の爆撃を受けた六月十八日の
災禍は悽愴の一語に尽きる。即ち午前零時四十五
分頃から約一時間にわたり、B29三十五機の、
三万発におよぶ油脂焼夷弾等の絨毯爆撃により
市街地は灼熱のるつぼと化し、退路を断たれた
多くの市民は、阿鼻叫喚の巷を彷徨した。炎の
犠牲となるもの、壕に閉され窒息死するもの、
身をかえりみず消火に一命を賭するもの、あわ
せて八百余名にのぼった。恐怖の一夜が明ける
と、一望焦土と化した焼跡に、ただ呆然とたた
ずむもの、未だ硝煙のくすぶる中を、肉親を求
めて右往左往するもの、まさに戦爭のうんだ
悲劇である。
 終戦後三十五年を経た今日、各方面の浄財に
よって、ここに新しく四日市空襲殉難碑を建立
しその霊の安らかなることを願い、後世悲惨な
る戦爭の絶滅を期し、世界永久の平和を祈念す
るものである。

四日市空襲被災記録

被爆年月日昭和二十年六月十八日、同二十二日、同二十六日
七月九日、同二十四日、同二十八日
戦災死者八百余名
重軽傷者一、七三三人
被災人口四九、一九八人
被災戸数一〇、四七八戸

昭和五十五年六月
四日市空襲殉難碑建立委員会

 

 

平和を願う少女の像

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

戦後70年の記憶

①あの頃の兵隊さん

②赤紙

③海行かば

④迷彩

⑤神風

⑥食糧難

⑦灯火管制

⑧欲しがりません 勝つまでは

 ⑨大本営発表

 ⑩竹槍と風船爆弾

⑪朝鮮人

⑫行進

⑬君が代

⑭教科書

⑮供出

⑯玉音放送

⑰威嚇飛行

⑱刀狩

⑲日本脳炎

⑳教科書の修正

 ㉑日本国憲法

 ㉒人間天皇

㉓戦争放棄

 ㉔運動会

 ㉕虱

 ㉖黄色いダイヤ

 ㉗金鵄勲章

 ㉘火炎ビン闘争

㉙マッカーサー

 ㉚帰って来た兵隊さん

番外編

 ①昭和天皇と沖縄

 ②無言館 戦没画学生達の記録

③四日市空襲