blog.mcnj

花、蝶、ペット、旅行など。
韓国文化の紹介。

2泊3日の旅 ⑬ 津和野 太鼓谷稲成神社

2012-11-10 08:16:00 | 写真

日本全国に、お稲荷さんは、万と有りますが、稲成さんは、ここだけだそうです。

他に、稲実さんは、6,7社あるそうですが。

昔から、稲の出来不出来は、人々の生活に、深くかかわってきました。

お稲荷さんは、稲の豊作を叶えてくれる神様として、崇め奉られて来ました。

稲実さんも、この願いが込められているとのことです。

太鼓谷稲成は、稲だけでなく、願い事の成就をお願い出来るそうで、全国に多くの信者が

いて、沢山の鳥居が奉納されているそうです。

Photo

R61

Img059

Img058

R70

R71

R60

R64

境内には、大きな赤松が植えられていました。

R62

幹の下の方にある、こぶを撫でると、体の悪い部分が良くなるとの事で、大勢の人々が、触っていました。

R71_3

境内から、津和野の街が一望できました。

真下にある津和野高校は、一度甲子園に出て有名になったそうです。

案内人は、もう、2度と出る事は無いだろうと言っておりました。

長くなりましたが、2泊3日の旅は、これで終りです。

最後の方は、バタバタしましたが、お暇な時にご覧ください。

バスは、紅葉の始まりかけた中国自動車道をひたすら走って、四日市へ向かいます。

A101

A102

A103

A105

大阪吹田JCで名神、新名神に乗り換えるころは、もう、真っ暗でした。

東名阪道鈴鹿ICで降りて、四日市南集合所へ着いた時は、8時半を回っていました。

これから、まだ、四日市、桑名各駅前までお客さんを運ばねばならないのですが、バスの走れる、1日の走行距離をオーバーしてしまうので、タクシーに分乗して行ってもらいたいとのことで、ここで、運転手、バスガイドと分れて帰路に着きました。

これから、明日まで出かけて来ます。

何処へ行ったかは、後日のお楽しみに。


2泊3日の旅 ⑫ 「山陰の小京都」津和野

2012-11-09 08:09:00 | 写真

津和野は、江戸時代、津和野藩の城下町として栄えました。

石州瓦の赤い屋根の並ぶ街並み、白い壁、花菖蒲が色彩りを添える掘割、そこに泳ぐ錦鯉。

郷愁に満ちた、まるで、箱庭の様に美しい街並みは、津和野が小京都と呼ばれる所以です。

D01

D02

D06

D08

D09

D10

D11

↑庭池には、鯉が泳いでいました。

まだ小さいので、カラスに襲われない様に、網を張ってあります。

D12

D04

いたるところにある掘割。

花菖蒲が咲くころは、綺麗だそうです。

D05

皆眺めています。

D20

D21

D22

D23

津和野には、錦鯉の愛好家が大勢いて、一軒で、数十匹の鯉を買っているそうです。

各家の池に引く水のために、掘割が設けられており、いつの間にか、愛好家が放した鯉が、

掘割に溢れてしまいました。

津和野にいる鯉は、町の人口の10倍以上になるそうです。

D01_2

町外れの津和野川に泳ぐ鯉。

遠くですから、大きく見えませんが、体長1m20cm以上あるとのことで、推定、120歳だそうです。

このクラスの鯉になると、還暦程度では、まだまだ、若造の部類と言うことでした。


2泊3日の旅 ⑪ 石州瓦、石州和紙など

2012-11-08 12:10:54 | 写真

萩を出発して、バスは、山をいくつも越えながら、県道11号を走り始めました。

R01

R02

R03

R04

山口県、島根県地方をバスで旅行された方は、お気づきのことと思いますが、沿道には、こんな景色が、良く見られます。

赤い瓦をのせた家々。

他の色の瓦で葺いた家は、ほとんど見当たりません。

この瓦は、旧石見の国(石州)地方の、良質な粘土を用いて、高温で焼いた丈夫な瓦で、同じ

島根県の出雲地方で採れる、鉄分を多く含んだ(来待石)を釉薬として使って、赤色に仕上げています。

山陰地方の、過酷な冬にも耐えられる、丈夫な瓦だそうです。

三州、淡路と並んで、三大瓦と言われています。

帰りの中国道からも、島根、鳥取、広島、岡山辺りまで、ずっとこの色を見る事が出来ました。

石見地方の名物として、石州瓦焼きと言う、焼き肉料理がありますね。

同じ石見の国の地場産業として、石州和紙があります。

R40

R43

R41

R42

R44

A46

R45

R47

R101

↑石見夜神楽に出て来る、大蛇。

R100

↑石州和紙を用いた、伝統工芸品です。

R50

R52

R51

津和野と言えば、なんと言っても、鯉と森鴎外ですね。

鴎外は、石見国津和野藩御典医、森家に生まれましたが、10歳の時に、父と共に上京し、

その後は、津和野へ戻る事はありませんでした。

津和野の人々は、郷里の最大の偉人として、彼の生家を記念館として、保存しています。

庭には、大きな槇の樹がありました。

鴎外が生まれた時、森家では、記念に、槇の木を植えたと言う記録が残っており、今年は、鴎外生誕、150年との事で、この槇は、樹齢150年と言われております。(写真は、有りません。消去してしまったようです。)

R200

↑ツワブキ。鴎外記念館の庭に咲いていました。

案内人が、手折って、一枝渡してくれました。

増えすぎて、困っているそうです。

A01

↑戴いて持ちかえりました。

挿しておいたら、蕾が、全部咲いて来ました。

つくといいのですが。


2泊3日の旅 ⑩ 萩観光ホテル、笠山、明神池

2012-11-08 09:20:15 | 写真

松陰神社参拝の後、萩市笠山にある、宿泊地、萩観光ホテルへと向かいました。

Hoteru1

Photo

ホテルは、笠山のはずれの岬の中腹にあります。

この右手奥にある笠山は、標高112m,日本一小さい火山だそうで、頂上には、直径30mの、東洋一小さい噴火口が残っているとのことです。

大昔は、独立した島でしたが、砂州が発達して、本土と結ばれました。

砂州の中に取り残された海水が、明神池となって、今も残っています。

瓦礫の隙間を海水が行き来して、潮の満干があるそうです。

S01

S02

S03

↑ホテルの窓から見た景色。

夕食は、フグ御膳との事で期待していたのですが、トラフグではなくて、地元の小さなフグでがっかりしました。

写真は有りません。

温泉は、火山島ですから、いい、湯でした。

翌朝も良い天気になりました。

下まで下りて、散歩です。

S07_3

↑明神池

S04_2

↑厳島神社。

萩藩2代藩主網広のとき、安芸厳島神社を模して建立されました。

S05_2

S06_2

満潮になると、沢山の魚が、入って来るそうです。

そう言えば、昨夕、ここを通った時に、沢山のトンビが群れていました。

魚を狙っていたのでしょう。

この子達も、魚には、不自由していないようです。

S31

S30

S08

S09

綺麗な池、明神池でした。

バスは、ホテルを後にして、最後の観光地、津和野へと向かいます。


2泊3日の旅 ⑨ 萩、吉田松陰

2012-11-08 09:19:33 | 写真

秋吉台を後にして、バスは国道262号を、萩市に向かって進みます。

萩市の入り口に、松陰記念館(道の駅)がありました。

W00

W01

W02

W04

W03

W05

↑松陰と、幕末の英雄たちの若かりし頃。

バスは、松陰記念館を出て、萩市内へ入りました。

W10

↑松陰神社。

松陰を祭神とする神社。

松陰刑死の後、松下村塾傍に、小祠を設けたが、伊藤博文らの努力により、社格を得て、

現在の社殿は、昭和30年に造られたものです。

W11

松陰は、萩藩士杉百合之助の次男として、この地に生まれましたが、6歳の時に、叔父の

吉田大助の死により、その後を継ぎました。

日本各地を旅しながら、見聞を広めましたが、藩命に2度そむいて、その度に、野山獄に謹慎を命じられます。

やがて、禁を解かれて、実家の杉家の戻されると、松下村塾を造り、若者の指導にあたりました。

明治維新を遂行した、多くの逸材達を、ここで育てます。

W12

Photo

松陰は、朝廷に無断で日米友好通商条約を結んだ幕府を批判したため、井伊直弼の安政の大獄で、処刑されます。

松陰30歳の時でした。

W13

W14

松下村塾の謂われ。

当時、この地域は、松本村と呼ばれていました。

この事から、本を下に代えて、松下村塾と名付けられました。