つれづれ写真ノート

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東京散歩 続き(すみだ北斎美術館 )

2016年12月31日 | 風景・建物

クリスマスなどで中断していましたが、東京散歩の続きです。

11月22 日に開館したばかりの「すみだ北斎美術館」(東京・墨田区)を見てきました。

 

斬新な建物

すみだ北斎美術館

子どもたちが遊ぶ公園に隣接した、すごく斬新な建物。これが浮世絵師・北斎の美術館?

鉄筋コンクリート造(一部鉄骨造)、地上4階、地下1階。外壁はアルミパネルで、町の風景や空の色が映りこむ仕掛け。設計したのは世界的に有名な女性建築家・妹島和世さん。

 

「どこから入るのかな~」と迷いますが、4 か所あるスリットのどこからでも、気軽に入れるように作られています(フロアガイド参照)。

 

4 階ラウンジ。右側は、開館記念の企画展、左側は常設展が開かれていました。

まずはエレベーターで4 階まで上がり、展示を見ながら下へ降りていくシステム。3―1階は下りる階段がなくエレベーターのみという、ちょっと不便な一面も。

 

企画展 

 

最初に、 企画展「北斎の帰還-幻の絵巻と名品コレクション-」を鑑賞(11/22~1/15 。  写真は展覧会チラシ)。

江戸時代後期、本所割下水(ほんじょわりげすい=現在の墨田区北斎通り)付近で生まれたとされる葛飾北斎(1760-1849)。

その作品が故郷に帰ってきたことを記念する展覧会です。

 

なかでも、約100年余り行方が分からなかった幻の絵巻「隅田川両岸景色図巻」が目玉。

長さ7 メートルに及ぶ絵巻には、当時の両国橋から新吉原までの隅田川の名所が描かれ、水面に映る橋や船の影には西洋画の技法が取り入れられているといわれます。

 

極細の筆で描き込まれ、非常に細密な描写です。北斎って、こんなに繊細だった?

墨田川の風景のあと、絵巻の最後には新吉原の風俗が。世間受けするためにはこういう華やかな絵も必要だったでしょう。チラシの図柄に使われています。

 

残念ながら、企画展の中は撮影不可だったので、絵巻を写真で紹介することができません。

InternetMuseum のユーチューブ動画を見つけましたので、こちらでご覧ください。

 

「隅田川両岸景色図巻」のほかには、墨田区が美術館開館にそなえてコレクションしてきた一連の名品が見もの。

有名な 「富嶽三十六景」の「神奈川沖浪裏」「山下白雨」「凱風快晴」など、よく知られた代表作が並んでいました。

 

その中で、有名な作品ではないのですが、個人的に「いいねェ、欲しいなァ~」と思ったのは「ほととぎす聞く遊君図」という肉筆画(写真)。

 

 

以下は、同美術館の作品解説のページからの引用です。(没後160 年以上経つ北斎の作品に著作権はなく、いわゆるパブリックドメイン=公有。また、美術館サイトからの“引用”なら許容されるのではと考え掲載しています)

 

『 「ほととぎす聞く遊君図」   紙本1幅 享和末~文化初年(1803-05)頃   横兵庫(よこひょうご)という豪華な髪型に結った花魁(おいらん)が、ゆったりと蒲団(ふとん)に寄りかかり、ほととぎすを眺める様子を描いています。花魁の着物の墨彩や空の雲の淡彩は、刷毛によって描かれており、北斎の迷いのない筆遣(ふでづかい)が感じられます。楚々とした宗理(そうり)風の美人であること、賛(さん)の蜀山人(しょくさんじん=大田南畝)の署名から享和末から文化初年頃の制作と考えられています。「君ハゆきわが身ハのこる三蒲団 四ツ手をおふてなく郭公(ほととぎす)」という叙情豊かな賛と絵がよく調和しています。』(すみだ北斎美術館 作品解説

 

 (注) 
  * 遊君=遊女
  * 宗理風=「宗理」という雅号を用いていた、北斎35 ~45 歳ごろの作風
  * 賛=絵とともに書かれた文章
  * 蜀山人=江戸中、後期の文人・狂歌師・戯作者

 

目を引いたのは、蝶のように結った髪形。カッコいいですね。片膝をついてふとんに寄りかかる花魁のポーズも粋でお洒落。

即興的に、さらっと描かれた絵のようですが、それでいて完ぺき。迷いのない天才的な筆さばきが伝わります。

蜀山人の賛があるのも良いし、値打ちもの。

かりに、こんな掛け軸を持っていたら、来客があるたびに見せて自慢できるでしょうね。

 

「ほととぎす聞く遊君図」 のアップ。

使われているのは基本的に墨と朱だけ。表情なんて、ただ筆先でチョンチョンと… 「絵がうまい、というのはこういうこと」と、感嘆せざるを得ません。

 

ところで、我々現代の人間にとっては「賛」の内容が分かりづらいです。

「君ハゆきわが身ハのこる」は、遊女を描いているので言わなくても想像がつきます。では「三蒲団 」とは?  敷きぶとんを三つ重ねにしたもので、高級遊女の贅沢品だそうです。

「三」とくれば「四」とつなぐのが勢い。で、「四ツ手をおふてなく郭公(ほととぎす)」ですが、しばし考えて「四手網か…」と思い当たりました。

江戸時代、隅田川では漁が盛んでした。佃(つくだ)の漁師が四手網で白魚(家康の好物)をとって将軍家に献上していたそうです。その魚を追ってホトトギスが鳴くというなら意味が通ります。

 

白魚が取れるのは早春。隅田川で白魚漁が始まると春が訪れるといわれ、江戸の風物詩。白魚は弱い魚なので、夜中にかがり火をたいて漁をし、夜が明けるとすぐ市場へ出さなければなりません。

また昔から、ホトトギスの鳴き声を聞くのは、明け方の風流とされていました。

    「ほととぎす鳴きつる方をながむれば ただ有明の月ぞ残れる    後徳大寺左大臣 」(百人一首)

 

そうすると、この絵の背景は早春の明け方?

『客が去った後、花魁がひとり三つ重ねの蒲団にもたれている春浅い夜明け。隅田川で、白魚漁を終えた四手網を追いかけ鳴くホトトギスの声が… 』 風流ですねェ~

そう、解釈してみましたが…

間違っているかもしれません。まあ、御愛嬌ということで。

 

常設展

撮影不可の企画展と違って、常設展の中は基本的に撮影OK (一部作品は撮影禁止)。

なので撮影してきました。

 

常設展入り口に、北斎の「須佐之男命厄神退治之図 (すさのおのみこと やくじん たいじのず)」のカラー復元図が架けられていました。

 「須佐之男命厄神退治之図」推定復元図。

 ← クリックで拡大します。

この絵は、弘化2 年(1845)、北斎が86歳の時に描き、墨田区の牛嶋神社に奉納した大きな絵馬(幅約2. 76m × 縦約1. 26m)。須佐之男命(絵の中央、白い装束)がにらみをきかせ、様々な病気を起こす厄神が今後悪さをしないように証文を取っているところです。

 

北斎晩年の傑作ですが、残念なことに関東大震災で焼失してしまいました。

しかし、美術雑誌「國華」などに白黒写真が載っており、この白黒写真をもとに、最初に描かれた彩色を推定・復元するという困難な作業を、学識者、伝統技術職人、凸版印刷などで作るプロジェクトチームがやり遂げ、その模様が11月23日、NHKテレビで放映されました(ロスト北斎 The Lost Hokusai 「幻の巨大絵に挑む男たち」)。

残されていた白黒写真と、復元作業の説明。

 

すみだ北斎美術館に来たのも、NHKの番組を見たのがきっかけ。白黒からカラーへの復元でどんな色彩になったのか、確かめたいと思っていました。

復元図を実際に見てみると、物凄くダイナミック。さすが北斎!

NHKでは『まさに北斎版の「ゲルニカ」とも言える大作』と表現。

 

そして、カラフルだな… という印象。

(撮影した画像はライトの影響でもっと赤味が強く出ていましたが、凸版印刷のページ 掲載の画像に合わせて補正しています。)

 

推定復元作業のビデオを見る来館者。

 

マニアックな話なので聞き流してもらっていいのですが、NHKのビデオや凸版印刷のページによると、復元作業は最初に「美術雑誌・國華の白黒写真が、当時のどんな技術で撮影・印刷されたのか」というところから始まったそうです。

その結果、『明治時代の高い技術で撮影され、高精細かつ保存性の高いコロタイプ印刷で残されていた』ことが判明(凸版印刷のページ より)。

コロタイプ印刷というのは、版面のゼラチンのしわを利用して濃淡を表現する印刷方法で、今主流の網点印刷とは全く違います。網点印刷よりも連続した階調によるなめらかで深みのある質感が特徴。

しかも、より諧調を出すために撮影の際、緑フィルターを使っていたようです。

 

これには、「今のデジタルカメラや印刷の方がずっと進んでいるだろう」と思っていた自分の考えが覆されて、ちょっとショックでした。

明治時代、すでに高度な白黒撮影・印刷技術があったんですね。

 

これらの分析結果をもとに、カラーを白黒で撮影したときどういう濃淡になるか、ぼう大な色見本を作製。北斎が同時期に描いた肉筆画などを参考に、絵具の重ね方・線の描き方など表現技法と合わせて、もとの色彩を推定・復元していったそうです。

 

このあと、常設展示室の中を見ていきました。北斎の作風が時代順に解説されています。

常設展示室。作品は基本的に高精細な原寸大レプリカで、撮影OK。

 

北斎の習作時代の作品。「釣竿を持つ子と亀を持つ子」天明年間(1781-89)頃。

このころは勝川春章に入門し、勝川春朗という雅号でした。

 

これも習作時代の「湯治場八景 しゆぜんじの ばんせふ」天明年間(1781-89)。

 

作品解説。タッチパネル式です。

 

北斎が勝川派を去り「宗理」の画号を用いていたころの作品。「あづま与五郎 残雪 / 伊達与作せきの小万 夕照」享和年間(1801-04)頃。

 

よく知られている「北斎漫画」。液晶タッチパネルに指を滑らせることで、まるでページをめくるように鑑賞できます。

門人が増えたため、北斎が絵手本の制作に情熱を注いでいたころの作品(1812 - 1829年)。年齢的には53歳から70歳ごろ。

 

 「北斎漫画」。どの絵もうまくて面白い。時間がたつのを忘れます。

 

 「北斎漫画」。富士の宝永山噴火の図。噴石で家がバラバラに。こういうドキュメンタリー的なものも描いていたんですね。

 

錦絵の製作過程を紹介するコーナー。

原画を描く絵師以外に、木版を彫る人、色刷りを刷る人がいてこその浮世絵。

 

面白かったのがこれ。

北斎は68 歳のとき、中風になったけれど自家製の薬で治してしまったそうです。

 

薬の作り方を記した本。

細かく刻んだ柚子と極上の酒を煮詰め、水あめ状にしたもの。

「人生50年」の江戸時代に、90歳まで生きた北斎先生の秘薬ですよ、試してみます?

 

「北斎アトリエ」の再現模型。

一生の間に93 回も転居を繰り返し、身なりも構わず、画業以外のことには全く無頓着だったという北斎。その84 歳のころの様子を書き留めた門人の絵をもとに、再現された製作風景。

紙くずが散らばる中、炬燵に半分入りながら絵を描く北斎と、それを見守る娘の阿栄(おえい)。

「画狂人」の面目躍如ですね。

 

筆を持った手が時々動きます。すごくリアル。

 

いろいろあったようですが、墨田区も面白い美術館を作りましたね~

 

お土産に買った画集と、北斎の代表作「富嶽三十六景  神奈川沖浪裏」の絵ハガキ。

 

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撮影カメラ・レンズ

   キヤノンEOS 6D

        EF16-35mm f/4L IS USM



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