名古屋の白ウサギ・1964年生

自称・宗教家・・宗教家とは職業ではなく「私の生き方」です。
職業・会社員、投資家  趣味・偽善事業

目には見えないモノを見る

2016-03-08 | 宗教


美貌・・容姿・・財産・・現金・・強靭な肉体
・・豪華な家・・車・・貴金属・・・
特権・・地位・・肩書き・・・名誉・・・

無いより、あったほうがよいに決まってる。

豊かな事は尊いことであり、
これらを否定したら、個人主義の上に立脚した、
文明は成り立たない。

ただし・・・
価値観と人間の意識が、
この次元で止まってしまう事で、これらの要素が毒となる。

富 ・・ 快楽 ・・ 豊かさ・・繁栄・・
これら、全ては、
「 目に見えるもの 」
即ち、実感としての現実である。

この、「 目に見えるもの 」を信じ、
これのみを妄信的に追い求める者は、
やがて、これらの ‘ 富 ‘の奴隷となり、
本来の自分を失ってしまう。

一番の不幸とは、自分を見失う事である。

絶好調なときも、ひと時は
あるかもしれないが、自分を見失うと、
最終的には、孤独・失望・未練・
落胆・不和・虚無感の暗闇に引きずり込まれる。

そういう不幸な人はたくさんいる。

宗教の真の目的とは、
「 目には見えないモノを見る 」事にある。

「 目に見えないモノを見る 」とは、
霊を見たり、神や仏の姿を映像として見るという意味ではない。

もし、神仏や霊を映像として見たなら、
それは、幻覚であり、自分の内部で起きている、
「 脳内現象 」であり、「 真実 」ではない。

先に述べた、「 見る 」とは、
「 観る 」 = 「 静観する 」という意味である。

「 静観 」とは、
事物の奥に隠された本質的なものを見極める
という意味。
「 静かに見る 」のではない、
目で見るのではなく、「 心で観る 」


たとえ、目の前が、辛酸な、惨憺たる状況であろうとも・・
栄華を極めた状態であろうとも・・・

その背後にある、「 見えないもの 」を見ることが出来ない人間は、
この世に生まれてきた最大の意義と、権利を放棄した事になる。

目に見えないものを観たとき、
自分にとって、、最高にして、最大の幸福を観る。

他者との比較ではない、「 自分が全て 」なのだ。

「目に見えるもの」 のみが全てと考えるなら、
全ての人間が平等ではない、
「 全てが不平等 」である。

生まれつき虚弱なひともいれば、強靭な人もいる。

生まれつき裕福な環境で育った人もいれば、
貧乏な環境で育ったひともいる。

五体満足で生まれた人もいれば、
障害を持って生まれた人もいる。


誰かが言うでしょう・・・

おれは善良に、真面目に生きている、
悪に憧れている訳でもない・・
なのに、なぜ!!不平等なんだ!!!
神も仏もあったものか

その気持ち、痛いほど分かります・・
だからこそ・・・
「 目に見えないもの 」が存在するのです。


誰かが言うでしょう・・・
この、ウサギオヤジ!!!屁理屈ばかり
言いやがって!!!詭弁をいうな

ご最もでございます・・
だから、宗教はバカにされるかもしれません・・
「目に見える世界」では確かに詭弁です
しかしながら・・
理論的な判断だけではどうにもならないのが、
‘ この世 ‘ なのです・・・
そこから一歩踏み出さない事には、
世のなか真っ暗闇で、人生が「 徒労 」となってしまう。

目に見える世界は不平等だが、
それは、その奥にある、
「 絶対的なものを観る為の道具として、現われる仮の姿 」
見えないもの とは

自分の内に宿る神
自分の生命の根源である‘神‘ 
自分の内に宿る生命の偉大さ
自分を見守る、親の心・先祖の想い

全ての人間は、神の分霊・仏の化身
全ての人間は根底で繋がっていて、一体である
生きてるだけで丸儲け

これを知らせる為に、釈迦が現われた。
これを知らせる為に、キリストは現われた。
コメント
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