
人間の感覚で捉える 善 悪 とは、
実に曖昧である。
悪業(あくごう)も、 本質的には存在しない。
善業 も、本質的には存在しない。
人間が感じることの出来る
「 この世 」
の尺度で善悪を論じても本質は見えてこない。

もし、仮に他国が日本に上陸して来て、
自分の家に押し入って来たとする。
自分の目の前で子供が
殺されそうな状態となった・・・
なんとかせねばならない・・・
普通の親ならまず子供を守る。
同時に自分の身も守ろうとする。
子供を置いて逃げる訳にはゆかない。
「 攻めてきたら殺られればいいじゃないか、
そういう国もあったのだという事が歴史に残る。
でも、私は外国に逃げる 」
と抜かした、頻繁にテレビに出演する、
豚が泣いた様な顔をした著名人もいるが、
こういう立派な人間?は問題外として、
ここまで追い詰められれば、反撃する以外方法は無い。
即ち、殺すか殺されるかの状態である。
反撃した結果、相手を殺してしまったとする。
これは、「 あの世 」の尺度で見て、
罪なのか? 正当な行為なのか?
善なのか? 悪なのか?
私が思うに・・・
善でも 悪でも ない。
先に述べた「善も悪もない」とは、
こういう意味で言っている事です。
当然、秩序や道理が最優先であり、
決して、何をしても良いという意味ではありません。

でも、当事者は 罪の意識を感じるだろう。
自分と子供の身を守る為に反撃したのだが、
結果的に相手を殺してしまったと言う事実を
生涯背負わなければならない。
「 人を殺した 」という事実と、
「 罪の意識 」という十字架を、
生涯背負って生きてゆかなければならない。
これは、ある意味、
「 自分が自分に科した、天罰 」である。

でも・・・
戦いは嫌だ、争いは嫌だ と言って自分だけ逃げる人間と、
本能的に、自分の子供をかばう人間と比べるなら、
どちらが上等な人間なのであろうか?
どちらが「 自然な行為 」であろうか?

神様の尺度 仏様の尺度 、「 あの世 」の尺度
をもって見極めるしか方法が無い。
ならば、「あの世」の基準をどうやって知ればよいか?
残念ながら、神や仏は人間に直接言葉を語る事はない。
世の中には、神仏の声が聞こえると言う人もいる。
でも、その人が もし仮に 神仏声を聞くことが出来たとしても、
その神仏が 本当の神仏である保証は無い。
ひょっとすると悪霊の声かもしれない。
自分の 潜在意識 の声かもしれない。
神のメッセージを、もし聞き取る事が出来たとしても、
その真贋を見極めることは不可能である。

かつて、オ●ムは 仏教 の名のもとに
残虐な無差別テロを行った。
彼らにしてみれば それは 悪 ではく、
世の為、人のため と大真面目に信じ、
善行 のつもりでやった事である。
彼らは、オカシな教義を根拠に、 無差別テロ を行った。

このことが「 神の意思、仏の意思 」
と信じていたのだろう。

宗教の最大の危険性とは。
神 仏を 持ち出せば どんな事も正当化されてしまう
と言う事ではなかろうか。
それ故、宗教は 諸刃の剣 であると感じる。

特に注意すべき事は、「 宗教団体の危険性 」
どんな人も、宗教団体に入信する時は、
あくまでも自分の判断と、意思によるものであるが、
入信したあとは、熱心になればなるほど、
自分自身の判断、 自分自身の意思、自分自身の価値観
を失ってしまう。
こうなってしまうと、
親方が「 右だ!!! 」と云えば、右を向き、
「 左だ!!! 」と云えば左を向く。
親方が「 左だ!!! 」と言った時、
素直にそれに従わないものは、
「 信仰が足りません 」という事にされる。
従順な、信仰深い人?のなかにも、
その事に多少の疑問をもつ人もいるだろうが、
「 せっかく、今までやってきたのだから・・・
ここで抜け出す訳にはゆかない 」
という意識が働く。

この心理は、マルチ商法に足を突っ込んだ人と同じような
構造であると思える。

宗教家や、信仰者は、無宗教の人間以上に、
自分の行為や考え方に対して、警戒心を持ったうえで、
宗教の危険性を十分認識し、常に自問自答し、
自分自身をを律し続ける義務があると思う。

私は自称・宗教家であり、
神を信じ 仏を信じ、目に見えないモノの存在を信じる。
それ故、無神論者・無宗教者・唯物論者、以上に、
宗教に対する 疑念 を持ち、
警戒し続ける義務があると思っている。