世の中
金だけではありません
信用は金では買えません。
失った信用は金で買い戻すことはできません。
人望も金では買えません。
愛情は金では買えません。
生命は金では買えません。
健康は金では買えません。
家庭の平穏は金では買えません。
このようなことは、
一部の特殊な人間は例外として、
誰でも分かっていいことであり、
他人から教えられて知る事でもありません。
「この世」は
金で解決できないことの方が多いです。
人間として
生きてゆくうえで、
重要なものほど金では解決できない。
ここから先が肝心です。
即ち「たかが金」です
その「たかが金」に頬弄して、振り回されることは、
「たかが金に負けた」
と云う意味でもある。
「たかが金」の怖さを知ることも、
「たかが金」
の奴隷とならないため条件でもある。
それ故に・・
生きてゆくうえで、
金の扱い方・接し方
が重要な課題となる
ある程度の金さえがあれば
その、「たかが金」
に振り回されなくて済む。
窮地に追い込まれ、
神経をすり減らさなくて済む・・・
人様を頼りにしたり、
家族を犠牲にしたりすることも避けられる。
若い時は誰しも金がない。
これは当然な事であり致し方ない。
歳を取っても・・
金に追い回されて生きている人も存在する。
特別な事情ある場合は別ですが、
そうでない限り、
此処からは自己責任です。
自己責任ではありますが・・
なんとも「非効率な生き方」
である。
「たかが金」
で解決できることくらい、
「たかが金」
で解決できるだけの金を持つ。
これこそが、文明社会の荒波のなかで
強く、優しく、
生きて為の知恵であり、
誠実さでもあると思う。
知恵と、誠意は、
「余裕」を生む。
余裕こそが、
「目に見えない価値の有るもの」
「目には見えない大切なもの」
を守る為の「後ろ盾」
念仏唱えても金は湧いてこない。
神頼みしても金は集まっては来ない。
なぜなら・・
「たかが金」だからである。
神様は「たかが金」なんぞに関与しない。
それは、
この世に生きる者に課せられた試練であり、
課題であるからだ。
神様は民事不介入
神様は、善人にも、悪人にも、
すべての人に公平にチャンスを与えている。
チャンスは万人に対して
ランダムに与えられる。
与えられたチャンスを
活かすか??
殺すか???
その選択の自由こそが、人間に与えられた特権である。
人間には運命選択の自由が与えられている。
笑って誤魔化さず・・
呪文と化した言葉で誤魔化さず・・
前向きな意味での危機感を持つ・・
危機管理を怠る
無責任な精神論者の言葉に
惑わされはいけない。
プラス思考の仮面を被った
右脳教の言葉を真に受けてはいけない。
「試験勉強はほとんどしていないけど、
自分は善行を重ね、徳を積ん出来たので、
合格ずるはずだ。」
このような発想が通用するのだろうか??
「この世」
で生きて行くうえで、
金銭・健康・家族問題・仕事運・対人関係・
あらゆ個別の要素に対して、
「全てを包括して」、
「全てを相殺する因果法則」
など存在しない。
個別の事案に対して、
地道な努力を積み重ねた者には
それ相応の結果が必ず現れる。
これこそが、本当の
「因果報応」である。
現状を分析・・
自問自答・・
責任感・・・
先見性・・・・
持続力・・
このような
「地道な積み重ね」が
芽を出す日が必ず来るはずだ。
「たかが金」の奴隷となるか?
「たかが金」を支配することができるか?
この二つの違いが明暗を分ける。
一度の人生、金に振り回され、
金に翻弄することに
美徳などあり得ない。
世の中には、清く・・貧しく・・
誇らしげに自慢する御方も存在する。
それは運命選択の自由である。
・・二宮金次郎は言った・・・
道徳なき経済は犯罪であり
経済なき道徳は寝言である
たかが金の奴隷とならないように
知恵を使うべし。
・・ウサギ講心得・・
ガメツク儲けて綺麗に使う。
お金は世のため、自分の為。
一日一偽善!!!
今此処、天国極楽浄土・・
精進・精進また精進
修練・修練また修練
やって出来ない事も有る、
やらずに出来る訳がない
やって・やって・・やり通せ
大判小判がザックザク・・
ココ掘れワン!! ワン!!
勝たねばならぬ・・・