名古屋の白ウサギ・1964年生

自称・宗教家・・宗教家とは職業ではなく「私の生き方」です。
職業・会社員、投資家  趣味・偽善事業

祟りの仏像

2022-05-06 | 宗教


私の住む家から、自転車で10分位の場所に、
●●寺というお寺があります。

この寺は、真宗大谷派(東本願寺)に属する寺で、
このお寺の納骨堂に私の先祖の遺骨が納められています。
私も、今生を終えたら、この寺の納骨堂にはいります。



数年前まで、この、お寺の御堂の階段の昇り口の脇に、
高さ20センチ位の大きさの、木彫りの弥勒菩薩の
仏像が放置されていました。

どういう訳か・・・
この仏像は、祭られている訳でもなく、
無造作に置かれているといった状態でした。

この仏像は何だろう?
いつも不思議に思っていました。

仏像の形態から推測するに、
この仏像はホンモノの仏像ではなく、
奈良か京都の観光地の土産物屋で、
レプリカとして売られている、
飾り物の仏像のようでした。



そんなある日のこと、私の母親がこの寺を参詣したとき、
御堂の前で、住職とバッタリ出くわました。



私の母親が、住職に尋ねた・・・
「 この仏像は、どうしてこんなところに置いてあるのですか? 」

住職答えて曰く・・・

「 実は、この仏像・・・檀家のある方から引き取って欲しいと
頼まれた‘ 呪いの仏像 ‘なんです。
その方は、
複雑な事情があって、この仏像を貰い受けたのですが、
この仏像を手にしてからは、
悪いことや、怪奇現象、不吉な事の連続。
『 そんなの偶然か、気のせいですよ』と
答えたのですが、
その方は、脅えていて、
あくまで引取って欲しいと言って一歩も譲りませんでした。
『 ならば、その辺に置いておおいて・・・』と
言ったら、
ここに置いてゆかれたのです。」



「 そんな因縁のある仏像をこんな雨ざらしの
場所に放置して良いのですか?」

と母が、問うと、
住職答えて・・・

「 祟りなどありませんよ、私はそんなお話は、
信じていません、恐くも何でもないないですよ 」

とニコヤカにお答えになったとのこと・・・



  

この仏像がもし、ホントウに呪いの仏像なら、
住職は、この仏像を受け入れたあとも、
霊障で病気になったり、
不慮の事故に遭ったりする事もあり得るはずだ。



この仏像は、数年間、相変わらず軒下に放置されていましたが、
住職の身に、
何の変わった事もなく、平穏無事に生活し、
長寿を全うして、数年前に大往生されました。

住職が他界されたあと、
いつしか、この仏像は軒下から無くなっていました。



これは、私の推測ですが・・
たぶん、家庭ごみとして、普通に捨てたのだろうと思います。



祟りとか、因縁とか、霊障とか・・・
そういった不可解な事が「 現象 」として存在していることは
事実であると思います。



だだ、「 現象 」は、
それに対応する人の信念や、信心で姿を変える。

ある人には、祟りが「 現象 」として現われるが、
ある人には、それがまったく無い・・・
という事も多くある。



南無阿弥陀仏とは、
「 阿弥陀佛に身を委ねます 」という意味。

同時に、「 私の生命は、阿弥陀佛と一体です 」
という意味み含む。



この住職の心の中には、
「 阿弥陀如来 」
に対する絶対的な信仰と、
信念・しか存在していなかったのだと思う。



それは、ある意味、「 覚悟 」ではなかろうか。
阿弥陀如来と云うも、天照大神と云うも、
呼称や、信仰形態の違いあれど、
根本的な意味に於いては、同じである。



そういった心境の人には、
祟りや、霊障など寄り付く事は出来ない。

こういう覚悟を持った人の発する魂の波長は、
祟りとか、怨念とかの荒い波長を受け取る事が出来ないので、
受信したり、それに、干渉することはない。



恥ずかしながら・・・
私は、自称・宗教家ですが・・
そんな ‘ いわく付きの仏像 ‘ を気安く
受け入れることなど恐くて出来なません。

これ、即ち、まだまだ青いという事です・・・



まだまだ精進せねば・・・
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 貧乏にならない為の鉄則 | トップ | A Day in the Life (George M... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

宗教」カテゴリの最新記事