雑木林
小春日和 初冬の雑木林に分け入った、傾斜面に積もった落葉は積雪より滑りやすい。
枯枝をストック代わりにして慎重に歩いた。
晩秋から初冬にかけて落葉を踏みながら歩く雑木林は心地よい。
は
公民館に集まってバランスボールを使った体力作りの基礎を習った。
やってみると結構な運動量になる、日常生活の中に取り入れたらバランス感覚が良くなるかもしれないと購入することにした。
三日坊主にならなければ良いが。
雑木林
小春日和 初冬の雑木林に分け入った、傾斜面に積もった落葉は積雪より滑りやすい。
枯枝をストック代わりにして慎重に歩いた。
晩秋から初冬にかけて落葉を踏みながら歩く雑木林は心地よい。
は
公民館に集まってバランスボールを使った体力作りの基礎を習った。
やってみると結構な運動量になる、日常生活の中に取り入れたらバランス感覚が良くなるかもしれないと購入することにした。
三日坊主にならなければ良いが。
針の木岳 蓮華岳
気温は-4℃を指した真冬並みの寒気である。
遠い山がモルゲンロートに染まった。
常念が見える部屋からは、ここが北限、外に出て移動すれば、爺ケ岳 布引 鹿島槍 五龍 唐松 杓子 白馬鑓 白馬と続く。
雪の嶺々は寒風の中で稜線が際立ち、役者の隈どりににて、表情が一段と厳しく冴える。
朝食を食べながら「大根と、葱、野沢菜の収穫をいつにしようか」少ない会話の中でぽつりと言う。
適度な低温晒しは甘みが増すというが、冷凍になったら本も子もない。
しばらくの間 週末毎に続く行事に忙殺されて、気が付くと野菜は雪の下ということになりかねない。
しかし それは雪中野菜といって、最も理想とする野菜保存法であるらしいが、毎朝重装備で大根を掘り出しに行くのも恐ろしい。
荒れ果てた庭の木々が華やかに色付いて落葉を積もらせる。
小さな木立なのに、何と葉数の多いことだろう、掃いても掃いても、限りない。
夏の木陰の涼しさの秘密を見つけた。
町を明るく照らす陽光に惑わされてコートなしで出た、アルプスから吹き下ろす風が冷たい、日陰側の右手をたまらずポケットに入れる。
歩道を縁取るドウダンの植え込みが燃えるように赤く、濠の水面に冬の水鳥が漂うのを見て一層寒くなった。
彦根城
彦根城の天主閣に登った。黄砂の微粒子に阻まれて遠目は効かなかったけれどそれなりの眺望が楽しめた。
美しい城である、それ故に振り返り振り返り見て、戻り道を間違えて、約束した集合場所の反対側に迷い込んでしまった。
文明の利器携帯電話を使って、旅行幹事にバス駐車場で待ち合わせることを伝えほっとした。
自由律新短歌歌人井伊文子さんは、琉球王国の末裔で、彦根藩主であった井伊家に嫁がれたと聞いたことがある。
どうしても松本の城と比べたがるが、5万石とは格が違う。
黄葉に囲まれた鎮守様の茅葺屋根が風雪に晒されて痩せてきた。
カヤ葺き屋根のふき替えは大事業である、集落の会議では銅板を被せて葺き替えから解放されたいという意見もあったけれど
茅葺の鎮守様は、希少で価値が高く、折角の茅葺を金属で覆うのはもったいないと、偉い先生が言ったので今でも茅葺である。
昔はこの集落の家屋はほとんどがが茅葺であったが、現在では茅葺はこの社のみである。
茅葺の民家はすべて、瀟洒な文化住宅に建て替えられた。
我が家は屋根だけを瓦屋根に変えた、したがって柱も壁も間取りも江戸時代そのままである。
だからそこの住人からは江戸時代の匂いがプンプンするらしい。
金色の細い葉が散りかかる落葉松
今年の秋は短く駆け足で過ぎていった。
霜に枯れた秋海棠を抜き取り、吹き寄せられた落葉を片付けた。
日が短くなって、追われるような強迫を背中に感じて、池のフトイを刈り取ったり、桜草の鉢を土に埋めて冬の備えを固め、草刈り機を使って道沿に茂ったバイカイチゲの草むらをなぎ倒した。
作業に計画性が無いから庭が前より一層雑然となって、次週に持ち越しである。
小鳥が運んだと思われるダンコウバイ
黄沙に霞む
季節をわきまえない黄沙が満ち満ちて琵琶湖はどんよりとした夜明けを迎えた。
灰色の太陽が湖面に鈍く反射している。この時期に黄沙とは・・
絶景を期待していた琵琶湖を望む高台の温泉ホテル、その最上階からの眺望は紅葉の始まった山々を覆い隠す土埃である。
1昨日 渡月橋見た嵐山も黄沙に霞んで精彩を欠いて、桂川の河畔にキャンバスを立てる画家の絵に中に澄んだ嵐山の紅葉を見た。
11月11日撮影
常念に連なる山々
乗鞍岳
雪の嶺々から吹き下ろす風は冷たい。
八百屋さんに漬物用の大根、野沢菜が並ぶ。
今日は3年前 京都伏見に遷座したお稲荷様を訪ねる旅に出る。
国有地信州大学構内からから追い出されて実家に帰った白翁稲荷様である。
山辺学校
子供のころ、この建物の前で父が着物姿で映っている卒業記念集合写真を見た記憶がある。
出勤途中山辺学校に立ち寄った。人影はなく落葉の積もった庭に、長野県宝を示す標識が立っていた。
山辺学校は明治18年(1885)教育を重視した村民の努力により建設され、翌年開校された。
松本市内中心地に新築された「ギヤマン校舎」に対し「障子学校」と呼ばれたという。
昭和57年(1982)全面解体復元工事が行われ、資料館として整備され現在に至る。