自然となかよしおじさんの “ごった煮記”

風を聴き 水に触れ 土を匂う

科学の祭典『縄文人になって火を起こそう』

2013-08-05 | 日記

8月4日(日)。『青少年のための科学の祭典 2013』 にブース出展。ブース名は『縄文人になって火を起こそう』です。

発火法の中でも,縄文人ですからもっとも初歩的な発火法“キリモミ式”です。これをメインにして,おまけとして“マイギリ式”を準備しておきました。

店員はわたし,アシスタントとして中学3年生三人,小学4年生一人,合計五人でした。中学生はわたしの現職時代,5年生でよく校長室に来て火起こしをした少年たちです。気心の知れた子どもたちなので,協力依頼をしました。それに対して,とても気持ちよく応じてくれたのです。

4年生の少年K君は,一週間前に知り合いになって「できれば店員さんとして協力してほしいが……」と依頼していたもので,遠くからやって来てくれました。ありがたい,ありがたい。この間の事情は7月29日付け記事に掲載済みです。

四人は午前10時から午後4時まで,ずっと汗だくだくで頑張りました。今回のようなかたちで,キリモミ式に集中して出展できる機会は今後まずないだろうと思います。中学生たちのからだは,見事にキリモミ式発火法の要領を体得していました。協力する呼吸がぴったりでした。それをK君は肌でつかみとったことでしょう。

店は開店から大賑わい。親子での挑戦もありました。

「こういうふうにやるんだよ」と丁寧に説明して,息を合わせて挑戦する姿がたくさん生まれました。 

午後,あいにく雨が降ってきました。それでもテントの中に入って,一所懸命に挑戦していました。 

終わってみればわたしの手のひらには,マメができていました。それが潰れてヒリヒリ。通常の作業ではないので,皮膚が作業に付いていきません。子らの手にもマメができました。とにかく頑張ったのです。

それで,来店者のほとんどの子に満足してもらえたと思います。大成功でした。わたしの立場で科学するたのしさを,少し伝えられたのではないでしょうか。協力者の四人の子どもたちとすてきなふれ合いができたのもいい思い出になりました。感謝。 

 


オオフタオビドロバチの巣作り(2)

2013-08-05 | ハチ

やはり巣作りでした。

朝見ると,前日の夕刻と同じ姿勢で休んでいました。明るくなって,活動を再会しました。昼前,見ていると餌の幼虫を何度か捕獲してきました。図鑑には「ハマキガ,メイガ類の幼虫を狩ります」と書かれています。どちらも害虫ですから,オオフタオビドロバチは人間にとっては意味ある益虫だということになります。

ハチのいない間に幼虫のからだを少し出してみました。思ったとおり,ハチはそれを再び入れて,捕まえてきたばかりの幼虫を持って入りました。

しかし,穴の深行きが節までほんの3cmしかないので,どうしても獲物の尾先が見える状態です。狭い穴に無理に押し込めたといった感じです。

午後,これで大丈夫と思ったようで,泥を運んできて穴を塞ぎ始めました。餌を見つけるのとは比べものにならない程簡単らしく,泥のある場所と巣とを頻繁に往復しました。

そのうちに,入口はじつに丈夫に丹念に塞がれました。見た目はとてもきれいに仕上がりました。見ている限りでは,巣作りを始めてから完成までは一日と少しでできたのではないと思われました。

 


キアゲハ,ハナウドに産卵(孵化後 ~その16~)

2013-08-05 | キアゲハ

ハナウドで採集したアゲハの幼虫一個体が,大きくなりました。そこに,パセリの葉と茎を置いていると,それも食べて,もっともっと大きくなりました。茎だけになったパセリもあります。この茎の先にずっとつかまったままで,頭部をさらに上に伸ばし,数日そのままの姿勢でいまし蛹化を迎えたのでしょうか。

しかし,からだを固定する動きに移る様子がありません。おかしな幼虫だなあと思い,せっかくなので口周辺を撮っておきました。黒い顎がくっきり見えました。そのときは動きが確認できました。それでも,からだ全体が動き気配はまるでありません。

さらに数日後の朝。茎の途中で,Uの字に大きく折れ曲がって,排泄物か体液かを出した格好でいました。「これは致命的だ!」と直感。よく見ると,腹脚が引っ掛かったために動けないような姿勢だとわかりました。

とにかく写真だけは保存しておこうと思い,撮った後,葉の上に置いてやりました。からだはもう動けない状態に見えました。わたしはそのまましごとに出かけましたが,ずっと気になったままでした。

結局,この個体はこのままいのちが絶えました。 

この件があって,死を迎えるとき,まさか考えられない事態に遭遇することもありうるのだと知りました。自然ではなにが起こるかわかりません。そのなかで生き延びるのはたいへんなことなのでしょう。いくら小さないのちであれ,わたしたちはそれを見守り,記録し,生の重みを学ぶほかありません。