皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

蓮田市閏戸 久伊豆神社

2024-06-04 20:56:49 | 神社と歴史

閏戸は蓮田台地の中央に位置し、西は綾瀬川隔てて伊奈町、東は元荒川を隔てて白岡町に接する。閏戸とは「潤う土」から転じたと考えられ、古来水に恵まれた地域であったとこが伺える。元禄十一年(1698)閏戸は上・中・下に分かれ上では愛宕社、中にてこの久伊豆社、下では伊夜彦社を祀るようになっている。

風土記稿中閏戸村の稿によれば「久伊豆神社二社 村内の鎮守也、中古騎西町に立つ久伊豆社を勧請せしと云う」と載るように境内にはかつて二社の久伊豆社が祀られたことになっている。一社は「西宮」と称し見沼用水を背に鎮座し、「東の宮」は現在の国道122号線を挟んで向き合うように鎮座していたという。現在のお社は西宮が残ったもので、往時は真言宗福正寺が隣接して別当であったとされる。

現在その別当福正寺はなく、蓮田北小学校となっている。明治七年上・中・下の閏戸村は合併し同九年この久伊豆社が村社となっている。

春祭りには災害除けと豊作を祈願し獅子回しが執り行われるという。(現在は不詳です)騎西町の玉敷神社から獅子頭を借りて神前にて奉納、その後村内の氏子宅を回ったという。

閏戸村は『郡村誌』によれば「農業を主とし、産物は米、大豆、甘藷、大豆、ほかに製茶を営む」とあるように古くからの農業地帯であるが、近年では梨農家が増えている。

農業地帯ゆえに古くから作神信仰が厚く戦前までは榛名講、大山講などの講社が盛んであったという。

小学校と隣接する境内地は静寂で、夕刻の学童保育の声が盛んに聞こえ伝わる。昭和の学校教育の様子がそのまま残った印象で、こうした風景が今後も地域と一体となって残ることを願わずにはいられない。

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鳥居~神域への門~

2024-03-12 23:18:44 | 神社と歴史

地図記号で神社を表すのは「鳥居」とされています。基本的に鳥居のない神社はありません。(浦和の調神社など例外もあります)
鳥居は神聖な場所である神域への門であるとされ、神域と俗界を分ける結界に当たるものと考えられます。
鳥居の起源は「通り入る」がなまったものとか、古事記の記述によるものとされています。「天の岩戸神話」によれば天照大御神が素戔嗚尊の乱暴により天岩屋戸にお隠れになった際、八百万の神々が鳥を木にとまらせて、鳴かせることにより、岩屋戸からお出ましを願ったことによるものです。
鳥居が複数設けられている場合、最も大きい鳥居が神域全体の門として参道の入口にあり「一の鳥居」と呼ばれます。
本殿に近づくごと二の鳥居、三の鳥居と数えていきます。
鳥居の構造や材質も様々で、神社によって形態が異なりますが、代表的なものは「明神鳥居」と「神明鳥居」の二種類です。

明神鳥居は横柱(笠木)にそりがあり島木と呼ばれる下の横柱が重なっているのが特徴です。また「貫(ぬき)」と呼ばれる下の横柱が縦の柱から飛び出していることが多いことも目につきます。仏教の影響を受けた装飾豊かな形態です。

一方「神明鳥居」は構造がより質素で最上部の「笠木」が真っすぐで「貫」も縦の柱の内側に収まります。
神明鳥居は古代の信仰形態を反映していると考えられえ、質素で伊勢神宮の鳥居の形態もこの形になるようです。
木造の鳥居の多くは魔除けの朱色を塗ることが多く、神域を守る意味合いが強いようです。

日本最大の鳥居は紀州(和歌山県)の熊野本宮大社。世界遺産としても有名です。



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蓮田市黒浜 久伊豆神社

2024-02-19 20:26:41 | 神社と歴史

蓮田市黒浜は元荒川左岸に位置する農業区域でその台地上には椿山遺跡や黒浜遺跡など考古学上重要視される遺跡が数多い。特に黒浜貝塚においては縄文海進と呼ばれる時期に現在の東京湾の入り江となった場所で、その貝塚からは「黒浜式土器」と呼ばれる縄文土器が出土し、人々の当時の生活様式が映し出される貴重な遺跡となっている。<
時代は下り永禄七年(1564)国府台合戦で北条氏に敗れた太田資正の郎党野口多門はこの地に帰農し住居したことも知られ、室町時代後期には相応の村落が成立していたと考えられている。『神社明細帳』によれば享禄年間(1530年頃)騎西の玉敷神社から勧請されたと伝わる。祭神は大己貴命。宝暦二年(1752)神祇官領卜部兼雄から『久伊豆大明神幣帛』を授かり現在の社殿は天明八年に竣工。昭和五十八年に本殿が市の指定文化財となっている。
また社殿を囲む社叢も平成二年に市の保存樹林に指定され大切な鎮守の杜として保存されている
初午やお日待ちなどの年中行事も長らく伝わり、氏子の住環境が変わる中でそうした慣習が薄れつつも多くの記念碑が境内に残り古い歴史を今に伝えている。
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梅ノ木天神

2024-02-19 18:03:18 | 神社と歴史

川口神社の境内に梅ノ木天神がありました。駅から歩いて神社を探していたところ正面鳥居ではなく北東の鬼門口から入ったところ美しい紅白の梅が咲いていました。
目に見えぬ神の心にかよふこそ 
 人の心の誠なりけれ
学問の神菅原道真公を祀る天神様に多くの人々が願いをかけにお参りしています。

頭を垂れて親の恩 社会の恩 
 神明の加護をこの梅に託して 感恩の垂れ梅と命名す 宮司


学ぶということに対して学ぶ環境があることを忘れてはならないと改めて思います。私自身も若いころ学ぶことに対して横柄であったと悔やんでいます。
親があって、学び舎があって、神の導きがあってここそ社会の一員として生きている。
美しい紅白の梅も植えて育てた人があってこそその花を愛でることができる。
感恩の垂れ梅を見ながらそんなことを思っていました。
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川口総鎮守 川口神社

2024-02-19 17:03:44 | 神社と歴史

埼玉県川口市は人口60万人を超える東京のベットタウンとして大いに栄えている。政令指定都市を除けば全国2位の人口密集都市である。川口の地名は当地の南を流れる入間川(現荒川)に合流する芝川の河口あたることに由来するとされ、鎌倉室町期には「小河口」と称されていたことが『とはずがたり』や『義経記』から知ることができる。当地は日光御成街道の宿場として栄えたが、中世には鎌倉街道中道、古代には東国と陸奥とを結ぶ「奥大道」として古代から重要な街道であった。

当社は明治四十二年川口神社と改称するまで氷川神社と称した。主祭神は素戔嗚尊。天慶年間(九百四十年頃)大宮氷川神社から勧請されたと伝わる。
当社は古くからこの区域の鎮守として崇められてきたが、特に江戸期の奉納品に祖の信仰を垣間見ることができる。
 八代将軍徳川吉宗による享保の改革の一つの政策に見沼田んぼ開発が挙げられる。幕府勘定奉行井澤弥惣兵衛の部下であった杉島貞七郎保英は当地の出身で、享保十八年(1733)見沼大用水の工事安全祈願及びお礼参りに神鏡を奉納している。(現存し現在指定文化財)
川口の町が鋳物で発展してきたことは知られているが、その歴史は室町期まで遡るという。もちろん鋳物に適した粘土や砂が採れたからだ。境内に鎮座する金山神社は鋳物業に関わる人々にとって重要な金属技巧の守護神金山彦命を祀っている。また境内には包丁塚も建てられ、金物道具を供養する風習の伝わる。包丁塚の揮毫は福田赳夫元総理。

川口市は四百年以上続く鋳物の街として発展を遂げてきたが、現在ではキューポラよりも高層マンションの目立つ東京のベットタウンとしての側面が圧倒的だ。しかし鋳物工場の溶解炉には必ず金山様の神棚が祀られ、多くの個人宅には火の神、商売の神として稲荷の祠を祀ることが多いという。
時代と共に町並みは変化してしまうが、こうした町を支えた産業の文化がわずかながらでも残り人の記憶として伝わっていくのだろう。
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