皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

蓮田市黒浜 久伊豆神社

2024-02-19 20:26:41 | 神社と歴史

蓮田市黒浜は元荒川左岸に位置する農業区域でその台地上には椿山遺跡や黒浜遺跡など考古学上重要視される遺跡が数多い。特に黒浜貝塚においては縄文海進と呼ばれる時期に現在の東京湾の入り江となった場所で、その貝塚からは「黒浜式土器」と呼ばれる縄文土器が出土し、人々の当時の生活様式が映し出される貴重な遺跡となっている。<
時代は下り永禄七年(1564)国府台合戦で北条氏に敗れた太田資正の郎党野口多門はこの地に帰農し住居したことも知られ、室町時代後期には相応の村落が成立していたと考えられている。『神社明細帳』によれば享禄年間(1530年頃)騎西の玉敷神社から勧請されたと伝わる。祭神は大己貴命。宝暦二年(1752)神祇官領卜部兼雄から『久伊豆大明神幣帛』を授かり現在の社殿は天明八年に竣工。昭和五十八年に本殿が市の指定文化財となっている。
また社殿を囲む社叢も平成二年に市の保存樹林に指定され大切な鎮守の杜として保存されている
初午やお日待ちなどの年中行事も長らく伝わり、氏子の住環境が変わる中でそうした慣習が薄れつつも多くの記念碑が境内に残り古い歴史を今に伝えている。
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梅ノ木天神

2024-02-19 18:03:18 | 神社と歴史

川口神社の境内に梅ノ木天神がありました。駅から歩いて神社を探していたところ正面鳥居ではなく北東の鬼門口から入ったところ美しい紅白の梅が咲いていました。
目に見えぬ神の心にかよふこそ 
 人の心の誠なりけれ
学問の神菅原道真公を祀る天神様に多くの人々が願いをかけにお参りしています。

頭を垂れて親の恩 社会の恩 
 神明の加護をこの梅に託して 感恩の垂れ梅と命名す 宮司


学ぶということに対して学ぶ環境があることを忘れてはならないと改めて思います。私自身も若いころ学ぶことに対して横柄であったと悔やんでいます。
親があって、学び舎があって、神の導きがあってここそ社会の一員として生きている。
美しい紅白の梅も植えて育てた人があってこそその花を愛でることができる。
感恩の垂れ梅を見ながらそんなことを思っていました。
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2024/02/19

2024-02-19 17:28:29 |  久伊豆大雷神社













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川口総鎮守 川口神社

2024-02-19 17:03:44 | 神社と歴史

埼玉県川口市は人口60万人を超える東京のベットタウンとして大いに栄えている。政令指定都市を除けば全国2位の人口密集都市である。川口の地名は当地の南を流れる入間川(現荒川)に合流する芝川の河口あたることに由来するとされ、鎌倉室町期には「小河口」と称されていたことが『とはずがたり』や『義経記』から知ることができる。当地は日光御成街道の宿場として栄えたが、中世には鎌倉街道中道、古代には東国と陸奥とを結ぶ「奥大道」として古代から重要な街道であった。

当社は明治四十二年川口神社と改称するまで氷川神社と称した。主祭神は素戔嗚尊。天慶年間(九百四十年頃)大宮氷川神社から勧請されたと伝わる。
当社は古くからこの区域の鎮守として崇められてきたが、特に江戸期の奉納品に祖の信仰を垣間見ることができる。
 八代将軍徳川吉宗による享保の改革の一つの政策に見沼田んぼ開発が挙げられる。幕府勘定奉行井澤弥惣兵衛の部下であった杉島貞七郎保英は当地の出身で、享保十八年(1733)見沼大用水の工事安全祈願及びお礼参りに神鏡を奉納している。(現存し現在指定文化財)
川口の町が鋳物で発展してきたことは知られているが、その歴史は室町期まで遡るという。もちろん鋳物に適した粘土や砂が採れたからだ。境内に鎮座する金山神社は鋳物業に関わる人々にとって重要な金属技巧の守護神金山彦命を祀っている。また境内には包丁塚も建てられ、金物道具を供養する風習の伝わる。包丁塚の揮毫は福田赳夫元総理。

川口市は四百年以上続く鋳物の街として発展を遂げてきたが、現在ではキューポラよりも高層マンションの目立つ東京のベットタウンとしての側面が圧倒的だ。しかし鋳物工場の溶解炉には必ず金山様の神棚が祀られ、多くの個人宅には火の神、商売の神として稲荷の祠を祀ることが多いという。
時代と共に町並みは変化してしまうが、こうした町を支えた産業の文化がわずかながらでも残り人の記憶として伝わっていくのだろう。
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蓮田市 川島久伊豆神社

2024-02-17 19:46:10 | 神社と歴史

蓮田市中央部を貫く元荒川。蓮田駅前通りを真っすぐに走り宮前橋が架かる手前に久伊豆神社が鎮座する。久伊豆信仰は武蔵国内の元荒川沿いに限られた地域性のある神社でここ川島はその特徴をよく表している。
昔から比べれば社叢の木々も少なくなったといわれるが、元荒川の水面に移る美しい社叢は神のますところにふさわしい景観を今にも保っている。
『風土記稿』によれば「久伊豆社村の鎮守也地蔵院持ち、末社天神荒神稲荷雷電」と記される。現在その地蔵院の姿はない。
創建以来この地の作神として信仰され、農業の安全や豊作が祈願されてきたという。蓮田に鎮す久伊豆社は全て昔の水運によってその地その地であがめられ、今に伝わるという。
当社は近隣の人々から「盗人宮」と呼ばれてきた歴史があるという。昔川上から追われてきた盗賊が神社の杜に逃げ込んだところ慈悲深い神がこれをかくまったとか、お供えものが片っ端から盗まれた挙句、御神体までもが盗まれてしまったとか様々な言い伝えがあるという。

ところが平成四年ブラジルに住む当地出身の二世が「家族に病人が出るのは先祖が昭和八年に出国した際御神体を無断で持ち出してしまったからだと思うから返したい」と訪日したときに友人に託して立像を返してきたという。この話は当時の毎日新聞にも取り上げられ、御神体帰還祝いとして盛大に祭典を行ったという。

「川島」の地名は周囲を川に囲まれた低地であったことに由来するが、治水技術が向上するまでは多くの水害で悩まされていた。もちろん水の恵みも大いに受けていたのだろうが、安定して暮らすためには多くの犠牲も払ったことだろう。

「水に流す」という考え方は日本人にはあっている。ゆく川の流れは絶えずしてしかも元の水にあらず。すべては無常だということを教えてくれる。しかし流れても人の思いはいつしかまた人を通して返される。そういうことをこの川島久伊豆神社の御神体の歴史は教えてくれるのではないだろうか。
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