皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

秋の田の 刈り穂の庵の 苫をあらみ

2018-09-29 22:18:04 | いろはにほへと

秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ 我が衣手は 露にぬれつつ    天智天皇

高校一年の冬休みの宿題は百人一首の暗記だった。なぜか今でも記憶に残っている。当時は意味も分からず興味もわかずちっとも頭に入ってこなかった。散々だった休み明けの試験。

秋の田の番をする仮小屋で寝ずの番をしていると茅葺の屋根が粗末なせいで私の袖は夜露でしきりに濡れてしまうことだ

百人一首の第一首は、黄金色に実った田んぼの景色から始まっている。日中刈るのを待つばかりの稲の匂い漂う田んぼも日が暮れると冷気が降り夜露に濡れる。一晩中見張りの番をする茅葺の小屋での心情を詠んだとされる。

 四季や恋の歌が綴られた百人一首の中で、農民の生活感を詠んだのはこの句だけだとされている。中大兄皇子として大化の改新を遂げ古代国家の礎を築いた天智天皇。稲作は斎庭の神勅。百人一首の選定者藤原定家日本の繁栄と和歌の原点がここにあると考え百首の最初に置いたといわれている。

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月夜に歩く道

2018-09-28 22:45:34 | 日記

 

十五夜から四日過ぎるが、まだ満月に近い大きな月が空に昇っている。小四の息子が学校の宿題として星と月の観察をしている。雲も出ていて月も明るいとなかなか星は見えにくい。月の動きを時間を追ってどう動くか調べている。中学に上がった長女も同じように自分の立った場所から月の見える場所に石を置き、一時間後にどう動いたか観察していた。月の動きが分かるだけでとてもうれしそうだ。

大人になって夜空を見上げることは珍しい。星座について子供に教えられることもないほど忘れてしまった。それでも同じ空を見上げるだけで幼いころの自分がそこにいるような感覚だった。

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吹上神社と旧中山道

2018-09-27 22:22:32 | 神社と歴史

 

吹上は北足立郡の最北端に位置し、その地名由来は風で砂が吹きあがることから来たという。荒川に掛かる大芦橋は壮大で秋桜をはじめ四季折々の花を見ることができる。古くからの集落は中山道に沿って続き、江戸時代は中山道の熊谷・鴻巣の両宿の間に立場が置かれ、中山道と日光脇往還が交わることから交通の要所として栄えた。日光脇往還とは江戸時代鴻巣から袋村(吹上)、忍、上新郷(羽生)を通り、利根川を渡り館林、佐野、今市を経て日光街道に合流する街道で、かつては日光裏街道とも呼ばれた。行田の名産足袋は最盛期に吹上まで運ばれ東京方面に売られたという。2005年に鴻巣に編入されている。

『風土記稿』吹上村の項には「山王社、村内上分の鎮守、氷川社、小名遠所の鎮守、稲荷社、下宿の鎮守」とありかつては村内を三分してそれぞれ祀っていたところ、社格から日枝社に合祀され明治期に日枝社から村名である吹上神社と改めている。かつてはその名残から「山王様」と地元の人は呼んでいたという。

夏祭りは天王様と呼ばれ盛大に神輿が巡行する。かつては喧嘩神輿として上下の境で双方の神輿がぶつかり合いを演じたという。

合祀の中心となった日枝神社の御祭神は大山咋命。山の神とされ山王神道として比叡山延暦寺の鎮守日吉大社を総本山とする。天台宗の中で形成された仏家神道と呼ばれる。天台宗は平安時代に最澄が開いた密教の宗派である。日吉大社祀られた神はもともと比叡山の地主神である大宮(大比叡)と二宮(小比叡)の二柱の神とされる。本地垂迹説によれば大宮の本地は釈迦如来、仮の姿(垂迹)は大己貴命、二宮の本地は薬師如来、仮の姿は大山咋命となる。

延暦寺の僧が山王神輿を盾に朝廷に強訴するなど力を奮ったのは室町時代のこと。延暦寺以外にも奈良の興福寺、滋賀の園城寺など僧兵と呼ばれる武力を持った寺の勢力が拡大した頃、台頭したのがかの織田信長。浅井長政と朝倉義景を援護していた比叡山延暦寺を攻撃し焼き討ちにしたのは元亀二年(1571)のこと。延暦寺、日吉大社とも消失し、山王神道も壊滅的な打撃を受けたという。

比叡山焼き討ちによって衰退した山王神道は江戸時代徳川家康に仕えた僧・天海によって復興する。天海は家康の葬儀を巡り時の吉田神道と対抗し、山王一実神道と呼ばれた。それは山王神道の流れを汲みつつ、家康を神として祀る方法を説明したものだった。即ち家康の霊を東照大権現として(垂迹)釈迦如来(本地)と同一視した神仏習合の神道思想であった。

境内地前は旧中山道が通り静かな街並みを留めている。

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忍馬車鉄道夢物語

2018-09-26 23:02:56 | 行田史跡物語

明治維新となり数年が年が過ぎたころから、ここ北埼玉においても近代化に伴い商品輸送の向上を目指し広域的な鉄道計画が構想された。その多くが新政府に却下され、上野ー熊谷間に汽車が走ったのは明治十六年のこと(1883年)。行田の足袋の生産は年々伸び明治18年には50万、同25年には150万足と伸びていくなで、吹上まで運ぶ5キロの道は長かったという。そこで局地的な交通手段として明治三十二年(1900年)忍馬車鉄道(株)が認可され、長野村から忍町を通り吹上停車場までの経路が翌年開通した。しかし当初の計画よりも工事が大幅に遅れ、結局資金不足により小沼橋手前を最終地点として長野村までの軌道延長工事は打ち切られてしまったという。

忍馬車鉄道は行田ー吹上間を約50分で乗客と一般貨物を運んだという。明治35年の年間客数は約103,000人。1日当たり285人となる。営業的にはほとんど赤字で、その理由は乗客の伸び悩みよりもむしろ開業当初からの足袋業者の貨物輸送が少なかったからだという。自前で運ぶか日本鉄道(国鉄)と提携した業者に依頼するほうが多かったらしい。その後も馬の養育費がかさみ、大正十二年(1924)には北武鉄道(秩父線)が開業し、馬車鉄道は廃止される。

この間約30年。時代遅れとなった馬車鉄道は自動車輸送へと引き継がれ、社名も行田自動車(株)と改められた。

小沼橋から長野口御門前を南に曲がり国道125号に抜ける道の片隅にその発着所があったという。一方時代と共に伸びた足袋もその後ナイロン製靴下の普及により、その生産が急激に下り坂に入るのは馬車道鉄道廃止後約30年、昭和29年のこととなる。

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死馬の骨を買うと・・・

2018-09-25 23:16:35 | 心は言葉に包まれて

中国の古典より。燕の昭王というものが、隣国との戦に備えて優秀な臣下を探していました。側近の臣下は昭王に語り掛けます。

遥か昔中国の王が秀でた馬を探していまた。地方に素晴らしい馬がいると聞きつけ使いの者に大金を持たせて買うように命じます。しかし使いの者はつく頃にはその馬はすでに死んでいたそうです。使者はその死んだ馬の骨を預かった大金の半分を使って買って帰ったそうです。

 死んだ馬の骨を持ち買ったことに大いに怒った王に対し、使いの者は言いました。

『死んだ馬に大金を払うなら、生きた駿馬にはもっと大金を払うに違いないと人々は思うでしょうきっとたくさんの人が良い馬を売りに来ますと』

昭王の臣下はこの話しの後に言いました。

『優秀な人を求めるなら、私を優遇してみてください。私以上に賢いものが自然とあつまります』と。

感心した昭王は子の臣下を抜擢したといいます。

人を育てるのは今も昔も難しいことです。

 

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