吹上は北足立郡の最北端に位置し、その地名由来は風で砂が吹きあがることから来たという。荒川に掛かる大芦橋は壮大で秋桜をはじめ四季折々の花を見ることができる。古くからの集落は中山道に沿って続き、江戸時代は中山道の熊谷・鴻巣の両宿の間に立場が置かれ、中山道と日光脇往還が交わることから交通の要所として栄えた。日光脇往還とは江戸時代鴻巣から袋村(吹上)、忍、上新郷(羽生)を通り、利根川を渡り館林、佐野、今市を経て日光街道に合流する街道で、かつては日光裏街道とも呼ばれた。行田の名産足袋は最盛期に吹上まで運ばれ東京方面に売られたという。2005年に鴻巣に編入されている。
『風土記稿』吹上村の項には「山王社、村内上分の鎮守、氷川社、小名遠所の鎮守、稲荷社、下宿の鎮守」とありかつては村内を三分してそれぞれ祀っていたところ、社格から日枝社に合祀され明治期に日枝社から村名である吹上神社と改めている。かつてはその名残から「山王様」と地元の人は呼んでいたという。
夏祭りは天王様と呼ばれ盛大に神輿が巡行する。かつては喧嘩神輿として上下の境で双方の神輿がぶつかり合いを演じたという。
合祀の中心となった日枝神社の御祭神は大山咋命。山の神とされ山王神道として比叡山延暦寺の鎮守日吉大社を総本山とする。天台宗の中で形成された仏家神道と呼ばれる。天台宗は平安時代に最澄が開いた密教の宗派である。日吉大社祀られた神はもともと比叡山の地主神である大宮(大比叡)と二宮(小比叡)の二柱の神とされる。本地垂迹説によれば大宮の本地は釈迦如来、仮の姿(垂迹)は大己貴命、二宮の本地は薬師如来、仮の姿は大山咋命となる。
延暦寺の僧が山王神輿を盾に朝廷に強訴するなど力を奮ったのは室町時代のこと。延暦寺以外にも奈良の興福寺、滋賀の園城寺など僧兵と呼ばれる武力を持った寺の勢力が拡大した頃、台頭したのがかの織田信長。浅井長政と朝倉義景を援護していた比叡山延暦寺を攻撃し焼き討ちにしたのは元亀二年(1571)のこと。延暦寺、日吉大社とも消失し、山王神道も壊滅的な打撃を受けたという。
比叡山焼き討ちによって衰退した山王神道は江戸時代徳川家康に仕えた僧・天海によって復興する。天海は家康の葬儀を巡り時の吉田神道と対抗し、山王一実神道と呼ばれた。それは山王神道の流れを汲みつつ、家康を神として祀る方法を説明したものだった。即ち家康の霊を東照大権現として(垂迹)釈迦如来(本地)と同一視した神仏習合の神道思想であった。
境内地前は旧中山道が通り静かな街並みを留めている。