皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

古河市 富士山浅間神社

2023-11-20 21:28:23 | 麻久良我乃許我の里

古河市総合公園には小高い塚があって、その上に浅間神社が建っています。古河のパワースポットとなど名所地にしようとする活動も行われているようです。

境内の由緒書きがありますので読んでみました。

室町時代末期に角行という人が世の中の乱れに苦しみ、富士山に登り天下泰平五穀豊穣の祈願をしたところ天下が治まったことから富士信仰が起こります。東講の大先達である南沢正兵衛という人が江戸にこの富士信仰を広く布教しました。
鴻巣の冨士塚は模造の富士山で文政四年ごろ(1831)の構造と考えられています。鴻巣村の小森谷家広く浄財を募り富士浅間神社を勧請します。東講は富士山信仰の集団、いわゆる富士講の一つ。富士山信仰は室町時代末期ごろに起こり江戸時代中期には非常に盛んになった。それに伴い江戸をはじめとして富士講があちこちで結成され、江戸近郊の冨士塚は50有余を数えます。しかしながら今に伝わる塚は少ない。この冨士塚は高さ6M直径30M塚は一から十合目まであり原型がよく保存されている。原型保存が状態が良好な冨士塚は関東に少ない。
紫峰筑波山も近く、平地ながら山岳信仰が深かったことが伺える下総の南端古河市。
城下町に残る冨士塚は今なお霊験あらたかにそびえているようだ。
(平成29年登拝)

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古河市 鶴峯八幡宮

2022-03-29 16:37:45 | 麻久良我乃許我の里

茨城県古河市は埼玉県と隣接する茨城県最西端の町。中世末期には鎌倉公方が古河の町に遷り、古河公方と名乗るなど、中世関東騒乱の舞台として名高い。鶴峯八幡宮はその古河市でも埼玉県栗橋町から利根川を渡り、旧日光街道のすぐの場所に鎮座する。

社伝によれば、平安末期の治承四年(1180)源頼朝による挙兵にの呼びかけに対し、下河辺と呼ばれる当地に兵を集め、川沿いの小高い山に鎮座する稲荷様に必勝祈願したところ、富士川の合戦に見事勝利。頼朝は武運が拓けたと神徳を感じ翌年養和元年(1181)八月鎌倉鶴岡八幡宮を勧請している。また同じく丸山稲荷も合祀し、『鶴峯八幡宮』と称した。
時代が進んで天福二年(1234)には下総国一之宮香取神宮も勧請され合殿となる。その後古河公方の崇敬を受け、歴代の古河城主からの崇敬を集めている。
また利根川の河川運河より太太神楽が伝わり近郷の鷲宮神社などからも奉納されている。
江戸時代にな栗橋宿が開かれると、その街道の鎮守となる。徳川将軍日光参詣の際には、旅の安全を祈願したという。
勧請以来利根川左岸の流域の湿地帯であったため幾度となく水害にも見舞われ、小高い山に遷座する度、その山々は『八幡山』と崇められている。
明治維新以降廃藩置県の混乱で、一時埼玉や千葉に編入されるなどして社格制度の際には無格社となったこともあるという。
水害や遷座といった混乱を超え、現在でも伝わる神楽は古河神楽として無形文化財に指定されている。
先日の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも征討軍としての平家軍が富士川の戦いで、偶然にも水鳥の飛びたつ音で逃げかえった様子が描かれている。頼朝にとって武田源氏との駆け引きもあった難しい戦を戦わす勝利したという、武運に恵まれた勝利であった。
鎌倉殿(当時は佐どの)にとって御神徳を受けた、坂東の貴重な神社であったことだろう。
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夕暮れの渡良瀬遊水地

2018-05-19 20:54:39 | 麻久良我乃許我の里

 朝家を出る際はかなりの雨が降っていたが、新三国橋を越えて古河につく頃には晴れ渡っていた。茨城に入ると所々キャベツ畑が見られ、露地野菜の生産地だと実感する。日が伸びたおかげで渡良瀬遊水地まで向かうことができた。勤務地からは約10㎞。

渡良瀬遊水地へと流れ込む渡良瀬川は群馬・栃木の県境にある皇海山を源とし、いくつもの渓流を合わせて、桐生足利を下り茨城の古河にて利根川本流へと注いでいる。流路延長107.6kmの利根川水系最大の支流だ。
 一方本流となる利根川は、かつては東京湾に流れていたが、徳川家康が江戸に入り、関東平野の開発が進むと、江戸を洪水から守るために銚子沖に流れるよう付け替えた。(利根川の東遷)これにより渡良瀬川は元和元年(1621)利根川を渡良瀬川に流す新河道が開拓され、その支流となった。利根川の支川となった渡良瀬川下流部一帯には赤麻沼、石川沼、板倉沼などがあり、その中央部を開墾したのが谷中村で、周囲を堤防で囲まれた村だった。
明治23年、同29年の洪水を契機に渡良瀬川下流部における足尾銅山の公害事件が明るみになる。時の帝国議会で取り上げたのが田中正造だ。明治34年には衆議院議員を辞して明治天皇に直訴を試みている。
谷中村は周辺に比べ地盤が低く水害も受けやすかった。各家家には洪水に備えて「水塚」が築かれ、「揚舟」が供えられている

足尾銅山鉱毒事件被害の防止対策と歳て氾濫被害の軽減のため渡良瀬川下流部に遊水地を造る計画が立てられ、明治39年栃木県が買収し、村民は反対する中、谷中村は藤岡町に合併され廃村となっている。

茨城、栃木、群馬、埼玉と4県にまたがり国内最大の遊水地として今日その役割を果たしながら、訪れる人々の憩いの場となっているが、その整備における歴史には多くの悲劇や苦難があったことを忘れてはならないと思う。
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関東の奇祭「提灯竿もみまつり」

2017-12-05 22:34:50 | 麻久良我乃許我の里

 師走に入って日々せわしなく、時間ばかり過ぎてしまいます。年末年始に向けやるべきことは山積みですが、焦ってはかどることはなく毎日の積み重ねが大切だと改めて感じています。
 古河の神社や歴史博物館に足を運び、その街並みや文化にふれてきた数か月でありましたが、市内でも最もにぎわう祭りである「提灯竿もみまつり」を見ることができました。祭の起源は旧古河藩領となる栃木県野木町の野木神社に伝わる神事「七郷めぐり」に由来するそうです。

 「七郷めぐり」は現在の小山市に編入する七つの地区にある野木神社の末社を十一月二十七日から「おいで」から一日ずつご神体の神鉾を奉じて順番に訪ねる神事です。裸になった各地区の若者が篠竹に提灯をかざして次の末社に向かう際、地区境にて双方の進路をめぐってもみ合いをしていたと伝わります。十二月三日から四日にかけ、「おかえり」と呼ばれる七郷めぐりから帰った一行を日光街道で多くの人がまちうけ、寒さしのぎに竿をとってもみ合ったことから現在のような形になったそうです。

雀神社から渡良瀬遊水地を眺めた時には、万葉集に謳われた水上交通の要所としての景色が目に焼き付きましたが、古河の町は一方で江戸期の日光街道の重要な宿場の一つでもありました。
矢来と呼ばれる櫓のような中で竹をもみ合います。
地区対抗で高い竹竿の先についた提灯の消し合いの試合は迫力があり、間近で見ると竿の太さもかなりありました。竹を接いでいるのか一本の大竹かわかりませんが、ともかくかなりの高さで、勝負が長引くと竿の先で提灯が燃えてしまうこともありました。

矢来から少し離れた場所では太鼓囃子が披露されています。叩き手は皆さん若い人ばかりでした。
職場の人に聞くと寒い時期でなかなか実際には見に行かないということでしたが、屋台も軒を連ね、たくさんの人で賑わっていました。神事に起源をもつこうした祭が盛大に続いていることを実際に目にすることができまた少し古河の町に溶け込めたような気がしていました。

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古河公方の歴史①平将門の乱から御家人下河辺氏に至るまで

2017-11-23 19:36:44 | 麻久良我乃許我の里

北川辺から新三国橋を越えると右手に緑に囲まれた大きな森が見えてきます。古河公方公園と呼ばれる総合公園です。春になると桃祭りも行はれ、四季折々の自然を楽しむことがせきます。

鎌倉公方足利成氏が古河にいたときの別館で鴻巣御所と呼ばれた古河公方館跡が史跡として残っています。歴史好きではありますが、なかなか記憶も薄れ日本史の教科書に室町時代に関東にいた将軍家ゆかりの人物だったと思いますが、細かいことは知りませんでした。古河の歴史を知るうえで、重要と思い歴史博物館で古河の歴史につての文献を買って少しづつ読んでみました。

 遡ること平安時代。藤原氏を中心に京都で貴族政治が行われていたころ。地方の国司の中には任国を私領化し、富を蓄え始めるものも出てきました。また地方の豪族の中には中央貴族や寺社と結んで荘園を開き税を納めないものも出てきます。天智天皇以来推し進めてきた中央による律令国家のほころびが顕在化したころです。
 豪族は勢力を伸ばすため武装し、朝廷や貴族は地方の武士を『侍』として宮中警備や地方の治安維持にあてたりします。桓武平氏の高望王は上総の国司として関東に下り、一族は土着し地域の支配者となります。平将門もその一人です。将門は土地の支配をめぐって国司と対立し反乱を起こします。天慶二年(939)平将門の乱です。将門は常陸、下野、上野の国府を攻め落とし自ら関東の国司を任命し『新皇』と称して関東を支配しようとしました。この欄は中央朝廷を驚かせ、武士の力を認識させる事件となりました。
 高校の教科書にはこんな風に記述があります。ではその後どうなったか。将門の乱を鎮圧したのは藤原秀郷です。
 秀郷は将門を討ちながらその後の史料には出てこない人物です。将門討伐の際には高齢であったとされます。しかしその子孫は関東に勢力を伸ばし中でも小山氏は下野の南部を支配し力をつけていきました。(現在の栃木県小山市)
 平安時代末期の古河は小山氏の一門である下河辺氏が開拓した荘園の一部でした。下河辺荘は古河周辺から東京の手前江戸川付近まで広がる広大な土地であったと考えられています。
 平家追討に活躍した下河辺行平は頼朝の信頼も厚く、鎌倉幕府の御家人として活躍します。また弓の名人として、二代将軍頼家の弓の師でもあります。
下川辺では馬の産地としての役割を担っていましたが、その調達に難儀し、行平は将軍頼朝の難儀を救ったさいの褒美として馬の調達の免除を願い出たとされる逸話も残っているそうです。源氏三代に仕えた下河辺氏でしたがその後の動向は史料に見ることはできません。
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