皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

ハートの印は何を意味する

2019-10-28 23:10:13 | 神社と歴史

神社建築をよく見ると至る所で見つけることができるハートのマーク(印)。縁結びの様に見えるその形には別の意味があるといいます。

参拝の際にその音で身を清めるとされる鈴は、切り口の端がハート型になっているのがわかります。これは猪目と言って猪の目を表しているそうです。この猪の目をが使われている部分を「懸魚」と呼びます。

神社建築の屋根下に見える部分です。猪は火伏の神の使い(神使)とされ火事から守ると考えられているのです。猪の目の形がハートに似ていることから使われるようになったそうですが、猪は動物の中で一番最初に火事に気付くとも信じられています。「いの一番」と言葉の由来になっているのです。なぜ猪は火除けの使いなのか。

 中国の陰陽五行説では、五行とは十干十二支で成り立ち、十二支である子、丑、寅、卯、辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥で表されます。東西南北を干支で表す一方、火、水、木、金、土の五行のうち子と亥が水を意味し、反対に巳と午は火を表します。

水属性の猪は「火に克(勝)」ということから火除けとして用いられるようになりましたが、魔除けの由来は、猪が祟り神として恐れられていたことに由来します。『古事記』神話ににも日本武尊や雄略天皇の部で伝えられる話があります。

 日本武尊が東征の後、伊吹山で白い大猪に遭遇します。伊吹山の神である猪の神罰により大けがを負った日本武尊はその怪我がもとで亡くなってしまいます。

 雄略天皇は葛城山で大きな猪の神に遭遇し、鏑矢を射て殺そうとしましたが、逆に襲われ瀕死の目に合われます。

日本では災いの神を祟り神として恐れ、その神を祀ることで災難から逃れようとしたのです。

 木造建築の社殿は火事に弱く、その火事から守る神として神話の伝承が今日も猪目模様として施されているのです。

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戦艦「三笠」④~皇国ノ興廃コノ一戦二アリ 日本海海戦

2019-10-27 22:40:42 | 史跡をめぐり

 明治三十八年(1905)5月27日午後1時39分、連合艦隊主力は南西方13kmに2列縦隊のバルチック艦隊を視認します。東郷平八郎司令長官は敵の左側列先頭から撃破しようと艦隊を西進させつつ、1時55分

「皇国興廃在此一戦各員一層奮励努力」(皇国の興廃この一戦に有り 各員一層奮励努力せよ)のZ旗信号を掲げます。後に難事に当たり最後まで全力を尽くし成功を期する旗印として慣用されるようになりました。

日産自動車の旗艦スポーツ車「フェアレディーZ」もこの旗に由来するといいます。開発にあたり当時のアメリカ日産社長がスタッフに奮励努力を促す意味でZ旗を贈ったという逸話が残っています。

午後2時2分進路を南西に転じて左舷反航の態勢をとり南下近接を開始します。「三笠」艦橋の東郷司令官は、皇太子殿下から拝領の名刀「一文字吉房」を左手に急速に近づく敵艦隊を見つめ、敵の先頭を圧迫する転舵の好機を待ち、2時5分敵との距離8kmにおいて左大回頭、「東郷ターン」の命を下すのです。

ロシアのロジェストウェンスキー中将は、反航するかに見えた日本艦隊主力が眼前にて突如大変針を開始したのを見て、その弱点に乗じて砲撃を開始します。先頭に立つ旗艦「三笠」には多数の砲撃が集中し、林立する水柱に囲まれました。

 「三笠」は砲撃に耐えて進み、2時10分ロシア艦隊との距離が6.4kmになったところで一斉射撃を以て猛反撃に転じ、壮絶な主力決戦となりました。戦闘開始1時間後、ロシア戦艦「オスラービア」は連合艦隊の集中砲火を浴び、出火し沈没寸前の状況に陥ります。ロジェストウエンスキー中将乗艦の「スワーロフ」さえも大火災となり戦列を離脱。その他のロシア艦隊が次々と被弾し勝敗が決します。

 戦艦4隻、巡洋艦8隻を基幹とする連合艦隊96隻は、ロシア側の戦艦8隻、巡洋艦6隻基幹とする艦艇29隻からなるバルチック艦隊を対馬沖にむかえ討ち、5月27日28日の日本海海戦においてそのうち19隻を撃沈、7隻を拿捕し主力の艦隊を全滅させます。ロシア側の戦死者は4,545人捕虜は6,106人にのぼり、他方日本側の戦死者は116名であったといいます。

 このように日本海海戦は日本側の圧倒的勝利に終わり、その戦果は海戦史上例を見ないほどの大きさでロシア側は戦意を失い、日露戦争は終結に向かい、結果アメリカの仲介でポーツマス講和条約が締結されまます。

 その歴史的意義は産業革命後競ってアフリカ、アジア地域に進出し、強大な軍事力を持って地域の国々を支配し国土財産を収奪しながら植民地化していった欧米列強の支配から抜け出す希望の光を、アジア、アフリカ地域の国々に与えたことだとされます。

 インドの独立運動家、後の初代首相ネルーは日本の勝利に対し、血が逆流するほどの歓喜を覚え、インド独立のために命を捧げる決意をしたと自伝に残しているそうです。

 ロシアに抑圧されていたフィンランドでは日本海海戦における日本の勝利に感謝し、「東郷ビール」が製造され、同じくトルコでは日本の勝利に国民が熱狂し、生まれてきた男子に「トーゴー」の名をつけることがあったといいます。

 

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防人歌に見える埼玉郡の住人

2019-10-26 22:42:28 | いろはにほへと

 市内藤原町にある八幡山古墳は「関東の石舞台」と呼ばれる、巨大な石室が露出した円墳であるが、その古墳の前には万葉集に収められた防人歌の石碑が建てられている。

『万葉集』巻二〇に天平勝宝七年(755)の交替期の諸国の防人たちが出発前に提出した歌の内うち、武蔵国各郡の防人とその妻の歌を武蔵国防人部領使の三等官、安曇宿禰三国(あずみのすくねみくに)が国に選出した十二首が収載されている。

 この中で埼玉郡上丁(かみつよぼろ)藤原部等母麿(ふじわらべのともまろ)とその妻、物部刀自売(もののべのとじめ)の歌が十二首の最後に上がっている。

 足柄の御坂(みさか)に立して袖振らば 家なる妹はさやかに見もかも

 色深く背なが衣は染めましを 御坂たばらばまさやかに見む

「足柄山に立って袖を振ったのならば、家にいる妻にははっきり見えるだろうか」

「色濃く夫の衣を染めるべきであった。そうすれば足柄山の坂に立つ姿がはっきりとみえるだろうに」

夫婦ともに「足柄山」を読んでいるのはそこが坂東の境界と認識されていたからで、それより先に行ってしまうともう二度と会うことはできないという別離の悲しみが良く歌い込まれた秀歌であるという。

夫である藤原部等母麿。藤原部というのは、いわゆる御名代部と称し、その名が永久に伝わることを図っているという。例えば日本武尊のために武部が置かれ、雄略天皇は皇后の御名代として大草香部を置いたという。藤原部は允恭天皇が衣通郎姫のために設けられた御名代であるという。それではこの藤原部等母麿が埼玉郡のどこに住んでいたかは難しいところであったが、県は太田村若小玉の地を推定し、昭和19年に史蹟にしてしている。藤原氏を祀る春日神社もほど近く、小崎にも近かったからだという。現在でも地名が藤原となっている通り、姓も「藤」の付くものが多いという。(藤江、斎藤、遠藤など)しかもこの地より南西方向を見ると美しく冠雪を纏う富士の山も目にすることができる。また八幡山古墳の被葬者は当時相当有力な豪族であったともいう。(聖徳太子の舎人=直属の従者、物部連兄麻呂の説)

万葉集に収められた武蔵国防人の歌十二首の最後にこの一組の唱和が納められているのは、二人の歌がそれだけ秀逸であったからだとも言われている。富士の向こうには足柄の御坂も連想されるのであったのだろう。

 

 

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新川村の大うなぎ

2019-10-25 23:02:49 | 昔々の物語

 100年ほど前に荒川の水運で栄えた久下新川村。現在その姿はなく、今は荒川堤の中に一部耕地が広がるばかりではありますが、当時の様子を伝える逸話が今も残っています。

 新川地区は今もそうですが、昔も堤外にあり毎年のように洪水に悩まされていました。

 ある年かつてなかったような大水が新川村をおそいます。村人たちは高台へ逃れて何とか命拾いしましたが、自分たちが丹精込めて耕した田畑やついさっきまで暮らしていた家々は今にも大水に吞まれようとしているところをただ茫然と眺めることしかできませんでした。

 その時です。とてつもなく大きなうなぎが下流から川をさかのぼって来るではありませんか。その姿を見て村人たちは「これは神様のお叱りに違いない」と思って土下座して拝んでいると、やがてうなぎはゆうゆうと泳いで上流の方へ消えていったといいます。

 すると驚いたことに、水がいっせいに上流のほうへと向きを変え、大うなぎが泳いでいく方向へ逆流し始めたのです。おかげで村は大水から救われました。

 そればかりではありません。それからしばらくたってまたまた村が大水にみまわれた時、今度は更に急だったため、かなりの村人が激流に呑まれ流されそうになったところ、またしてもあの大うなぎが現れて、溺れかかった人々を背中に乗せて、次々に高台に助け上げてくれたのです。

 このように二度までも大うなぎに助けられた新川村の人々はうなぎを神として祀り、二度と食べなかったということです。

 『熊谷市史』「ふるさとの話」より

うなぎにまつわる逸話や伝承も全国各地に見られます。埼玉の鰻といえば浦和が有名ですが、北埼玉の行田、熊谷にも多くの鰻の老舗名店があります。余談ではありますが、私自身結婚する際、地元の鰻の名店の御座敷にて結納をしたことを懐かしく思います。

 ニュージーランドの先住民マオリ族もうなぎを神聖な生き物として崇拝の対象にしているといいます。

うなぎは古くから日本人の食文化として親しまれてきた一方生態については謎の多い生き物とされています。身近な御馳走として食べられた歴史の陰で、神秘的な生き物としても語り継がれているようです。

 

 

 

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河童の妙薬

2019-10-24 22:52:41 | 昔々の物語

 昔熊谷宿のある商家に、旦那さんに先立たれたばかりの女将さんが居りました。

 毎日毎日それはそれは悲しんでばかりおりましたところ、ある晩厠に入り小用を足しておると何やら尻を触られるのでした。

「おかしいな」と思っていると次の日も、また次の日も同じようなことが起こります。

 怒った女将さんはある晩短刀で尻を触ってくる腕を切り落としてやりました。すると大きな悲鳴と共に女将さんの手に残ったものは黒い毛むくじゃらの右腕でありました。

 翌日女将さんの店には黒い不思議な老人がやってきます。女将さんに会いたいと申し出たので会ってみると、その老人は右腕を隠しておりました。しかも「昨晩女将が珍しいものを手に入れたそうだから、ぜひそれを私に譲ってほしい」というではありませんか。

 いかがわしく自分の身に触ってきたのは目の前の老人だと思い当たった女将さんは、今後は二度とあんな悪戯はしないと約束させて、切り落とした右腕を返してやりました。

 すると不思議なことにその老人は持ってきた薬を塗って腕をくっつけると、その腕は何ともなかったように元通りに動くではありませんか。

 それから老人は自分が河童であることを名乗ると、お詫びのしるしとして、その薬の作り方を教えていきました。それが「河童の妙薬」として有名になり飛ぶように売れるようになったといいます。

 おかげでひとり身の女将さんはお金に困ることなく、幸せに暮らしたということです。

『熊谷市史』「ふるさとぼはなし」より

河童の妙薬と呼ばれる逸話は日本各地に残っているといいます。多くの伝承のあらすじは河童が人間や馬に悪戯をし、その人に捕まって懲らしめられ、お詫びの印に薬を渡すというものです。熊谷市史に出てくるように懲らしめられる際、腕を切り落とされ、その手を返してもらう際に手を繋ぐ良い薬を渡すといった例が見られます。薬の種類は骨接ぎ、打ち身、熱湯に効く薬があるといい、その背景に水の妖怪である河童が相撲が好きで怪我が多く、また金属を嫌うことから刃物の切り傷に効果があると考えられます。

 こうした薬は古くは家伝薬として実際売られ、使われていたそうです。明治に入って漢方医学から西洋医学に移行し、製薬業が成り立つとこうした家伝薬は姿を消します。

茨城県小美玉市にはこうした伝承に因んだ「手接神社」もあるといいます。

非常に興味深い逸話だと思います。

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