皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

渋谷の丘に吹く風

2022-08-30 22:11:02 | 心は言葉に包まれて

自分がこの先続くであろう長く苦しい人生をなんの義務があって最後まで生き続けなければならないかわからず深く悩む人は多い。
今現在なぜ生きるのか。苦しくないのか。
 すでに達観に至る人にとっては一切の苦はないでしょう。しかし多くの人にとって苦とは常に背中合わせ。その生をなぜいきるか。
生きると決めたあとの人が人生をより長く、より便利にするものが医学であり理工学であるそうです。文学とはその手前で必死に息を詰めて考えている孤独者に囁きかける学問のこと。

文学も哲学も「生きる 」という自分のおかれた状態「生から死までの限りある線分」とはいったい何か自分なりの「言葉」を与えるための知なのです。「生きる」を考える営みこそもっとも激しい生き方であると言います。
生を燃焼させず、目の前にある世界と格闘もせずただ老いて死ぬことを待てますか。私にはできない。
だから日々の仕事の中で疑問を持ち、書物を読み、SNSの空間で言葉を拾い、こうして今叫んでいる。
どんな世界でもいい。自分の限りある時間を大事に過ごし、他者に向けて発信すること。それこそが生きることの根底ではないでしょうか。
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自動車産業の未来

2022-08-25 22:39:00 | 物と人の流れ

薄紅色のかわいい君のね
果てない夢がちゃんと
終わりますように:君と好きな人が
百年続きますように
(ハナミズキより)
人生百年時代と呼ばれるようになったのはいつからだろう。つい先日明治維新150年といっていたように感じる。
モータリーゼーションとは自動車が普及し生活必需品とする現象で、日本においては1946年東京オリンピックの直後から進んだと考えられている。高速道路の拡張、オイルショック以降の石油価格の低下などが後押しした。

1960年代から70年代にかけての三種の神器はカラーテレビ、自動車、クーラーだったそうだ。

田中角栄による日本列島改造論で新幹線の整備と高速道路の拡張がより進んだともされる。それに合わせてメーカー側もTOYOTA、NISSAN、HONDA、SUZUKI、など日本を代表する会社となっていった。

2000年以降、景気の後退にに加え、環境問題(排気ガス)もあって車に頼らない生活が提唱されていったが、過疎化の進む地方など生活の足となって現在でも車のない社会は考えられない(受け入れられない)とことも多い(私自身もそうだ)
ところが昨今の社会状況から、車がすぐに変えない時代が来ている。社会的に新車の納期が大幅に長期化しているそうだ。
コロナウィルスによる影響に加え、慢性的な半導体不足、ウクライナ侵攻など海外の情勢不安など多くの要因がかさなっていることをメーカーのチラシで知らせている。一ヶ月二ヶ月ではなく、一年待ちというのも出ているそうだ。

日本は自動車生産国で国の主要産業。社会科の教科書の記述が過去のものになるようだ。生活必需品を安定供給できない状態。新車の納期がかかるぶん中古車市場も需要が高騰し、価格も上昇しているそうだ。
百年安定して続く産業はどれだけあるのだろう。飛躍的にインターネットが普及し毎日スマートフォンとにらめっこする社会となった。
電源の問題も含め今の世の中の仕組みが百年続くとはどうも思えない。
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処暑 初候 綿柎開

2022-08-25 22:16:27 | 生活

「柎(はなしべ)」とは花の萼のことで、綿を包む萼が開き始める頃。
綿のは花は七月から九月にかけて立葵に似た淡く黄色いきれいな花を咲かせます。その五十日ほど後に実が熟し萼が弾けて白いふわふわした綿毛に守られた種子が飛び出します。この綿糸を紡ぐと木綿の糸や布になるのです。種子からは綿実油が採れ食用油としても利用されます。
なんと六千年前ごろからメキシコで綿花の栽培が行われていたとも言われてえいます。

精霊蜻蛉とも言われる薄羽黄蜻蛉。祖先の魂を乗せてくるとの伝承からこう呼ばれるようになったそうです。
昔を懐かしむように何度も同じ場所を飛び交う姿に精霊を感じる人が多かったのでしょう。
気がつけば稲穂も頭を垂れるところも見受けられ、虫の鳴き声もセミから鈴虫へと引き継がれているようです。
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はしゃいだ夏の終わりに

2022-08-23 23:33:02 | 心は言葉に包まれて

長かった夏休みもようやく終わりが見えていました。行動制限のない夏休みは三年ぶりということで、お盆前には茨城の海へと出掛けささやかながらも夏の旅行となりました。中学高校ともなれば部活や友達同士の遊びに夢中になりますので、こうした家族での旅行は中々貴重な機会です。

海ではしゃぐのは子供も大人も同じです。子供連れが多くみられましたが、大学のサークルや大人二人連れ、年配のご夫婦らしき姿も見られました。
「はしゃぐ」とはもともと「はしやぐ」と言い、「燥ぐ」と書き即ち  「乾燥する」という意味でした。

気分が沈むことを「湿る、湿っぽい」ということからその反対のいみの「乾燥する」が「はしゃぐ」「浮かれる」といういみになったそうです(諸説あり)

湿ったり、乾いたり。喜んだり、悲しんだり。
喜怒哀楽とはよくいったもので、命あるかぎり様々な感情と共に過ごしていくのでしょう。
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第十四節気 処暑

2022-08-23 22:59:59 | 生活

昼の残暑は厳しいものですが、お盆前と比べれば暑さの峠は越えたようで朝晩はやや過ごしやすく感じます。
「処」とは止まるという意味がありようやく秋の気配を感じる頃のようです。

農作物も収穫期を迎え、同時に台風の季節となることから、各地で豊作を祈願し嵐避けを願う「風祭」が行われます。

立春から数えて二百十日、二百二十日は雑節として暦に載る台風の特異日。また農家の三大厄日として知られます。
風の神様をまつる風神社。当社にも摂社としてお祀りされています。御祭神はシナツヒコノミコト(志那都比古命)イザナギ・イザナミの神から産まれた風の神様です。
古来自然に吹く風は神様の吹く息と考えられていたそうです。
目に見えぬ風にさえも神が宿る国。古代の人々の感性を受け継いでいきたいと願います。
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