皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

神用公用雑記はなぜ安政七年から記されたのか

2022-03-31 21:12:39 |  久伊豆大雷神社

延宝元年(1673)に記された当社の縁起はその後『新編武蔵風土記稿』に転記されるなど江戸期に残る当地区の歴史を伝える大きな役割を果たしたと考えられるが、その後江戸後期になって記された『神用公用雑記』が安政七年(申年)からの記録として残されている。1860年からのことで今から160年前のことである。祭祀のことや、境内地の神木の列記、太政官への届け出など神官としての記録と、年貢の取れ高や負担、村内の役割分担など村の統治にかかわることと併せて、神用公用雑記との誌名の通りの内容だと推察される。

記録は明治初頭まで続き、維新の混乱を過ぎてなお記されていたことがわかっている。

古文書故になかなか読み下すことも叶わず、日々過ぎてしまうが、疑問をもって読み解いてゆくと、少しづつその伝えようとしていたことが見えてくる。安政期といえば高校の歴史教科書で覚えたのは
『日米和親条約』(神奈川条約=安政元年)
『安政の大獄』(安政5年)
『桜田門外の変』(同六年)だろう
黒船来航から、江戸幕府崩壊へとつながる政変が立て続けに起こり、幕末維新へとつながる序章の時。
こうした不安定な幕末へ向かうその時に、なぜ急に神社の記録を残しだしたのか。関東の田舎地方の方が余裕があったのか、幕府の有力親藩としての記録を残したかったのか。そうではなかった。

昭和三十七年背編纂の『行田市史』下巻には江戸期の忍藩の様子が時系列的に記されている。安政期には二つの大きな災害があったことを伝えている。
 安政二年大地震(1855)
 江戸の城下での直下型地震で、江戸の被害は大きく死者四千六百を出し、一万四千の家屋がつぶれたと伝えている。但し忍領下では揺れはしたが大した被害は出ていない。
 安政六年大洪水(1859)
 この年の七月二十五日の大雨は前日から続き、午後四時に久下付近で荒川が決壊している。忍城下でも多くの床上浸水が生じ、数百件が流されるなど甚大な被害が出ている。特に米蔵が水につかり、在米が水浸しになったことが大きかったという。また八月に入っても大雨があり、二度目の洪水となった上に、流行病(コロリ=コレラ)が蔓延している。

こうした領内の惨状を、藩として把握し年貢米の減免、幕府からの借り入れの報告として挙げるため、各村々で陳情書として集めたものと考えられる。この水害に当たり忍藩は幕府から金五千両の借り入れをして凌いだという。
江戸後期の忍藩の様子を知る貴重な資料であり、今後さらに紐解きながら皿尾村の当時の様子を明らかにしていきたいと思う。
平成二十八年に出版された普及版『行田の歴史』には安政の大洪水の記述はなく、『伝兵衛長屋火事』と安政地震のことが併記されているが安政の洪水については触れられていない。歴史書も複数を読み比較することで見えてくるものがあるようだ。
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弥生の終わりに

2022-03-31 16:01:35 | 皿尾城の空の下

今日の皿尾城公園の桜です。いつを以て満開とするかわかりませんが、まだ八分から九分咲きでしょうか。
風が吹いてきましたが、まだ散ってないようです。



何度かブログにも書きましたが、皿尾城公園の桜は50年ほど前の食植樹事業で、当時の自治会青年部の皆さんが植えたと聞いています。私が生まれる少し前のこと。
当時世話してくださった方も、亡くなってしまったかたがほとんどです。




二年前から毎年二本ずつ自分で桜の植樹を始めました。鳥居前の二年桜も逞しくなりました。

休耕田を使った花の育成も始めています。なかなかな追いつかず、現在つくしのさととなっています。

花の里が立派になるまで何年かかるかわかりませんが、何とか世話して行きたいですね。
もう暫く桜の花に囲まれて、浮世離れした皿尾城を愛でる日が続きます。

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居候からシェアハウスへ

2022-03-30 20:41:46 | 心は言葉に包まれて

早いもので明後日には四月の新年度。
学校や仕事を始め新たな生活を始める人も多いことでしょう。コロナ禍も三度目の春となり、住環境も変える(引っ越す)人も多いと聞きます。

住む場所が決まるということは大事で、生活の基盤があるということです。戦後の日本の住宅政策は残念ながら失敗で、明らかに人口に対する住宅の軒数が明らかに多い。住宅を建て続けることで、投資を促し経済を回してきた。人口減少がはっきりして空き家が増え、過剰供給となっても都心部を中心に新規着工数が増えている。そのほうが経済効果もあり、またそこに住もうとする人がいるから。もちろん平和な時代にあって、仕事や経済性を重視して、住む環境を選べるということは幸せなことです。否定できないところでしょう。三十年後の全国の姿はどうなっているのかを考えなければ。
一方少なからず、本人の住居ではなく他人の家に世話になることを『居候』といいます。
近世の文書には肩書として『○○方居候』などと記していたそうです。
『居』はそのまま『居る』。『候』は謙譲語の『ございます』をあらわし自らを置いてもらうことを指したそうです。
戦後まで家族制度」からあふれてしまった者を社会的に認知する肩書の意味があったそうです。
明治期以降は『厄介者』という意味で用いられるようになりました。
私が学生のころ(1990年代)には大学の先輩で実際に居候の方もいました。今では『シャアハウス』といったところでしょうか。
家はなくとも志高く。そんな気質から、みんなでなんでも分け合う時代へ。何事も考え方次第でしょうか。

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花さそふ 嵐の庭の 雪ならで

2022-03-30 18:28:01 | いろはにほへと

花さそふ 嵐の庭の 雪ならで
  ふりゆくものは わが身なりけり 
   入道前太政大臣
(訳)桜の花をさそって散らす、激しい風が吹く庭。そこに降るのは雪ではなく、古びてゆく私自身のことなのだ。

入道前太政大臣は官職名であって、入道とは出家のことを指し実の名は西園寺公経。この人が京都東山に建てた邸をのちの足利義満が譲り受け別荘としたのが金閣寺です。小倉百人一首の撰者藤原定家の従弟に当たります。
源頼朝の姪を妻にしたことか承久の乱では鎌倉方に味方し、その後太政大臣まで上り詰めます。
権力も財力も手にしながら、老いゆくわが身の行く末を愁いた歌と伝わります。
富の象徴のような桜の花吹雪に打たれながら、自らの老いを誰よりも憂いたことでしょう。
桜に纏わる表現はたくさんあるそうです。はかなく散るは『花吹雪』水面に映るは『花鏡』川に流るるは『花筏』
美しく咲くころに空が曇れば『花曇り』
花もわが身も儚いからこそ美しく、凛とした生きざまでありたいと思います。

     
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世の中は 常にもがもな 渚こぐ

2022-03-30 16:18:22 | いろはにほへと

世の中は 常にもがもな 渚こぐ
  あまの小舟の 綱手かなしも    鎌倉右大臣
源実朝は鎌倉4幕府第三代将軍。頼朝の次男に当たる。二代将軍頼家が追放され僅か十二歳で将軍に担がれている。比企氏と北条との確執から兄頼家は伊豆へと追われ、忙殺されての後だった。和歌を好み文人として名高い。和歌三十首を藤原定家に評されている。
訳)世の中はずっと変わらないでいてほしい。渚を漕いでゆく漁師の小舟が陸から引き綱でひかれてゆく様は、しみじみといとおしい。


政治の実権を握ることなく僅か27歳で生涯を終えた実朝は自らの運命を察しこの歌を詠んだともいわれています。毎日の貧しい漁師の暮らしはつつましくまた世の中から見れば小さなことかも知れません。自らにはそうした静かな暮らしが来ることはないと悟っていたそうです。
ゆえにこうしたありふれた日常の光景をいとおしく思えてならなかったのでしょう。

建保七年(1219年)鶴岡八幡宮で実朝を討ったのは兄頼家の遺児公暁でした。
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