皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

誠とは

2022-10-17 17:53:08 | いろはにほへと

身を修め 心正しき人をこそ
 まことの人と いふべかりけれ
国学院大學 おみくじ(十三)より

「神道とは誠である」という。その「まこと」の道とは、具体的には清浄・正直であると教えている自分の心身を律するのに常に正直であり、正義を失わないようにする人を「まことの人」と言うのである。
出典は島根県出身の野田菅麿が明治二十三年に発布された教育勅語の徳目のひとつひとつを和歌に詠じた「謹詠教育百首」のなかの一首。

キリスト教が「愛」、仏教は「慈」と表される宗教と言うが、神道を表す一文字があるとするならば
「誠」となるだろう。
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女郎花盛りの色を見るからに

2022-05-17 20:17:42 | いろはにほへと

女郎花(おみなえし) さかりの色を見るからに 露のわきける 身こそ知らるれ

(朝露がついて美しく染まった)女郎花の今を盛りの花の色を見たばかりに
露が分け隔てをして
(つかずに美しく染めてくれない)我が身が思い知られます。

源氏物語の作者紫式部。再来年の大河ドラマは光源氏に決まりましたね。

紫式部が朝、部屋から外を眺めていたところ、藤原道長が女郎花(おみなえし)を手に現れます。寝起き顔であった紫式部は、今が盛りと咲く女郎花にちなんで盛りが過ぎた我が身を嘆く歌を詠んだそうです。女郎花(おみなえし)とは秋の七草のひとつで山野に自生し、黄色の小花を数多く咲かせます。

そんな式部に返した道長の歌が

白露は わきてもおかじ 女郎花 心からにや 色の染むらむ

白露は分け隔てをしているわけではあるまい
女郎花は自分の心がけによって美しい色に染まるのだろう


「源氏物語」は主人公光源氏を中心に貴族の人生と恋愛を描いた物語。54巻からなる3部構成で世界最古級の長編小説といいます。源氏物語以前にも「竹取物語」などの物語はありました。現在と違い通信手段はありませんので、源氏物語は所謂口コミで広がり、ついには左大臣藤原道長の耳にも入ります。紫式部は当時の学者で詩人であった藤原為時の娘にあたり、早くに母を亡くしたことから、父の手により幼い頃から漢詩を覚え高い教養を身につけたそうです。また式部は26才の時には当時の夫である藤原宣孝を亡くしています。
主人を亡くし、途方にくれながら気晴らしの気持ちも込めて書き綴った物語。
「源氏物語」
この物語によって式部の人生は大きく変わり、時の中宮(天皇の后)彰子に仕えます。彰子に仕えるよう呼び寄せたのは他ならぬ道長であったそうです。ただし帝(一条天皇)は先の后である中宮定子を思い続けていました。中宮彰子の父であり時の左大臣藤原道長は帝の御子(男子)を生むよう願います。そんな帝と道長の板挟みになりつつ、思い通りにならない人生を「源氏物語」に投影させているそうです。

一条天皇が思いを寄せ続けた前の中宮定子。その定子にお仕えしたのは「枕草子」の作者清少納言でありました。

ひとつひとつの物語、和歌、随筆。すべて平安の貴族社会のきらびやかな歴史のなかで繋がっているのです。




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瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の

2022-04-16 21:20:58 | いろはにほへと

菅原道真、平将門とともに日本三大怨霊とされる崇徳天皇。保元の乱で敗れ配流された隠岐(香川県)で亡くなった後、天変地異を起こす怨霊として平安末期から恐れられてきた。
 『鎌倉殿の十三人』で重要な役どころとなっている後白河法皇は崇徳天皇の弟。兄弟で争い敗れた戦いが保元の乱。隠岐に流された崇徳院は舌を噛み切った血で『願わくは大魔王となりて天下を脳乱せん』という誓いを経に書きつけて壮絶な最期を遂げている。その崇徳院の歌が小倉百人一首に収められている。

瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の
  われても末に あはんとぞ思ふ


流れが速いので岩に堰き止められる川が二つに割れてもやがては一つになるように、今はあなたと別れてもいつか再び必ず逢って結ばれようと思う
崇徳院にとって思い人と再び会いたいという恋慕の歌としてではなく、戦いに敗れ流されてもなお、世の中に対して執念を燃やす歌ともとれるという。
この歌の結びは『あわんとぞ思ふ』という八音の字余り。五七五七七の流れる音調からはみ出すことで、重々しい感情が込められるそうだ。
悲運の天皇崇徳院。京都白峰神宮に祀られていて、鎌倉時代の肖像画も国の重要文化財として残っているそうだ。写本も残っていて今春公開予定という。
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花さそふ 嵐の庭の 雪ならで

2022-03-30 18:28:01 | いろはにほへと

花さそふ 嵐の庭の 雪ならで
  ふりゆくものは わが身なりけり 
   入道前太政大臣
(訳)桜の花をさそって散らす、激しい風が吹く庭。そこに降るのは雪ではなく、古びてゆく私自身のことなのだ。

入道前太政大臣は官職名であって、入道とは出家のことを指し実の名は西園寺公経。この人が京都東山に建てた邸をのちの足利義満が譲り受け別荘としたのが金閣寺です。小倉百人一首の撰者藤原定家の従弟に当たります。
源頼朝の姪を妻にしたことか承久の乱では鎌倉方に味方し、その後太政大臣まで上り詰めます。
権力も財力も手にしながら、老いゆくわが身の行く末を愁いた歌と伝わります。
富の象徴のような桜の花吹雪に打たれながら、自らの老いを誰よりも憂いたことでしょう。
桜に纏わる表現はたくさんあるそうです。はかなく散るは『花吹雪』水面に映るは『花鏡』川に流るるは『花筏』
美しく咲くころに空が曇れば『花曇り』
花もわが身も儚いからこそ美しく、凛とした生きざまでありたいと思います。

     
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世の中は 常にもがもな 渚こぐ

2022-03-30 16:18:22 | いろはにほへと

世の中は 常にもがもな 渚こぐ
  あまの小舟の 綱手かなしも    鎌倉右大臣
源実朝は鎌倉4幕府第三代将軍。頼朝の次男に当たる。二代将軍頼家が追放され僅か十二歳で将軍に担がれている。比企氏と北条との確執から兄頼家は伊豆へと追われ、忙殺されての後だった。和歌を好み文人として名高い。和歌三十首を藤原定家に評されている。
訳)世の中はずっと変わらないでいてほしい。渚を漕いでゆく漁師の小舟が陸から引き綱でひかれてゆく様は、しみじみといとおしい。


政治の実権を握ることなく僅か27歳で生涯を終えた実朝は自らの運命を察しこの歌を詠んだともいわれています。毎日の貧しい漁師の暮らしはつつましくまた世の中から見れば小さなことかも知れません。自らにはそうした静かな暮らしが来ることはないと悟っていたそうです。
ゆえにこうしたありふれた日常の光景をいとおしく思えてならなかったのでしょう。

建保七年(1219年)鶴岡八幡宮で実朝を討ったのは兄頼家の遺児公暁でした。
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