皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

11回忌

2020-05-30 00:08:00 | 生活


父の11回忌を迎えました。
10年過ぎると昔のことのように感じます。それだけ父亡きあと夢中で生きてきたのでしょうか。
 10年以上経った今でも、父の世代の人から、ありし日の父の話を聞きます。財は無くとも徳のある人だったと思います。苦労は絶えませんでしたが。
 

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杣殿分水堰(そまどのぶんすいせき)

2020-05-23 22:20:55 | 郷土散策

 行田市持田から熊谷市に抜ける旧道は、忍川に沿って西へと走る道であるが、剣神社を過ぎ菅谷の八幡様を過ぎると昔ながらの田園風景が広がる。小敷田村から上之村に入る手前には、忍川の流れの起点となる杣殿分水堰が建っている。

 

杣殿とは埼玉郡上之村の小字名で明治36年(1903)に県税の補助を受け成田村が建設したものだという。

分水堰のある持田は行田市の西端に位置し熊谷市上之、戸出と隣接するが、建設当時の忍川はここで南北に分岐していたという。

『新編埼玉県史』によれば元荒川流域は水量が元来少なく、そのため用水が不足する一方、星川、忍川などの支流は水位が低かったため支流の屈曲が甚だしく、支流の連結する見沼代用水は水位が高く、水量も多かったため行田市内における湛水地が多くみられたという。二大河川(荒川、利根川)に挟まれた忍の行田の治水の歴史をよく物語っている。

 

現在も稼働するこの分水堰であるが堰の南側の水路は既にほとんど使われることなくその堤防跡だけが残っている。

そもそも現在では行田市内を東西に横断するように流れる忍川本流であるが、かつては市街の南側を流れて佐間地区に抜け見沼代用水へと合流していたという。大正から昭和初期にかけて県営元荒川筋用排水改良事業により、小敷田村から市街北側までの新水路が開削され現在の流れになったという。

平成となってから護岸工事が進み近年遊歩道も整備され散歩する市民も増えた忍川本流であるが、その起点となっているのは明治期に建設されたここ杣殿分水堰である。

 

 

 

 

 

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2020-05-23 00:37:09 | 心は言葉に包まれて

初めてみたその笑顔に 心を奪われて

張り裂けそうな胸を抱え あなたへと走った

あの夏のサイレントナイト

心に吹くすきま風が わたしを苦しめた

でも今なら 少しくらい力になれるかな

いつでも 凛と生きる姿に 近づきたい 昨日よりも

私を変えたあなたに あげたい言葉は 「ありがとう」

口にするのは恥ずかしいから この歌で届けよう

 凛とは厳しくまっすぐな佇まい その様子のこと

 なんとなく 背筋が伸び まっすぐ遠くを見つめるイメージが湧く

 夏の終わりの歌だと思うが、初夏のまっすぐに伸びた緑の麦もその姿に凛としたものを感じてしまう。

移り変わる空の色を何度も見届けて

目を閉じれば思い出すよ はしゃいだ散歩道を

いつでも困らせてばかりの 私だけど このままずっと

流れる星を見つけたら 「永遠に」と祈りを捧げたい

あなたの愛情なくしては きっと生きられないよ

私を変えたあなたに あげたい言葉は「ありがとう」

口にするには恥ずかしいけど

この歌で届けよう

この歌で届けよう

 過去と他人は変えられない 変えられるのは自分と未来だけ

 心に残った言葉だけれど、「凛」の歌の中には 

私を変えたあなたに あげたい言葉は「ありがとう」とある

他人は変えられないけれど、すぐそばにいる人の凛とした生き方で自分は変わることができた。裏を返せば、人は凛とした生き方によって、誰かを変えることができるのではないかと思う。少なくとも、変えるきっかけは生まれると思う。

人を裁く、或いは起訴する立場の人が、その晩節に人から咎めらるのはなぜなのだろう。どうして最後まで凛として生き抜くことがきなかったのだろう。

人として朽ちるまで 凛として生き抜きたいものだ。

 

 

 

 

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加須市 下三俣 諏訪神社

2020-05-22 23:31:36 | 神社と歴史

 古来、利根川は羽生市の川俣より南に流れ、加須市に入って川幅を広げた。三俣の地名は「鬼島」「中島」「明智島」の三つの洲がその流れを分けていた場所であったからだという。市内を流れる合の川(旧利根川)は近現代の整備により穏やかな流れを見せるが、かつては乱流であったのであろう、市内の神社の多くががその社殿を高く積んでいるのは、川の氾濫から守るためであったと思われる。

 

 縁起によれば、天平十年(739)当地を行脚していた僧教蔵上人が三俣の船人より、鬼島に怪物が蔓延り、衆人を悩ますという話を聞きつけ、一人で島に渡り七日七夜念仏を唱えたという。すると夜中に一人の女が現れて教蔵上人に十念を乞い、上人が十念を授けるとたちまち百丈の白竜に姿を変え、消えてなくなったという。

 そこで白竜の首のあったところに龍蔵寺を建て雌の銀杏を植えた。また白竜の尾の止まったところには下諏訪社(弁財天)を勧請し、雄の銀杏を植えたという。

時代は下って正徳四年(1715)大岡土佐守政春が信州諏訪から改めて諏訪社を勧請し、下社に神像を奉納した。明治になって村社となり別当を兼ねていた高徳寺は廃寺となったという。

会の川の流れが幾度となく氾濫した当地においては治水に時間と経費をかけその守として「お諏訪様」を祀り土地の開拓に当たったという。中でも旗本であった大岡家は武神としても諏訪神社を深く崇敬した。

 化政期まで三俣村であったが幕末に上三俣、下三俣の二村に分かれた。

鎮座地が市街地に近く、昭和になって人口の増加と共に氏神としての信仰の高まりから、祭事の広がりを見せ、増える氏子のために壮健な神輿が奉納されている。

また平成に入ると市街地にふさわしい立派な社務所も建設され、三俣、諏訪の中心地として境内地、社殿とも整備されている。

 

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不動岡高校発祥の地

2020-05-22 22:01:02 | 史跡をめぐり

埼玉県立不動岡高校は県内で最も長い歴史を誇る高校として知られているが、その発祥の地を記念して小さな公園が整備されている。高校の前の道を総願寺不動尊前を通り、500mほど離れた通り沿いに目立つことなく佇んでいる。

昭和十一年創立五十周年を記念して建てられた創建の碑にはその由来が刻まれている。

また、加須市指定史跡となったのは昭和六十年一月。創立百年を迎えた年のことだった。

記念碑の撰文は國學院大學学長を務めた河野省三氏。

明治十一年(1878)三月北埼玉郡不動岡村に小学校教員養成所として第十三番中学講習校を設置

         僅か弐年にして廃止。地方の有志甚だこれを惜しむ

明治十三年(1880)四月 私立會川中学校を創設

明治十七年(1884)七月 不動岡羽生中学校と改称

明治十八年(1885)北埼玉郡立中学校と改称(成田中学を合併)

         校舎敷地設備等整う

明治十九年(1886)中学校令の改正により廃校となる

         識者ら地方教育の前途を憂慮し、互いに励みて、県下唯一の中学校建立す

明治十九年    私立埼玉英和学校 を開校

明治二十七年(1894)私立埼玉和英学校 と改称 

         文部省の認定を受ける

明治三十年(1897)私立埼玉中学校 と改称

         県下より学び来るもの多くその効果広く深くあり

明治三十七年(1904)日露戦争

          戦後国内育英事業に深刻なる打撃 地方の私学はその経営困難を極める

大正十四年(1925) 有志奔走の末土地一万坪及び金三万円を添えて県に寄付し

          四月 県立不動岡中学校 設立

          多年の宿望と幾多の辛苦に報いられ校舎を現敷地に移す

昭和十一年(1936) 有志 発祥の地記念碑を建立

 多くの若者がこの地で学び、希望を抱いて巣立っていったことだろう。その創立の理念は「質実剛健」。真面目で飾り気がなく逞しい事。その言葉の由来は明治政府による「戊申詔書」のあるという。国家発展のために明治天皇が発した詔書で「国民は仕事に励み質素を重んじ、勤勉でなければならない」という内容であったという。

 個性と自由という風潮が豊かさの下に広がった現代であるが、高等教育の目的は本来自らを律し、公に尽くすものにあったのだろう。建学の苦難の歴史がそれを物語っている。

 

 

 

 

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