加須市志多見は加須市の南西部に位置し、会の川右岸の自然堤防に形成された「志多見砂丘」があり、近年隣接する羽生市に大型商業施設が入り、交通量も多くなっている。志多見とはこの地が低湿地で水に浸っていたことから「浸し水」(ひたしみず)と呼ばれたことが転じて地名となったと考えられている。神社社殿は小高い土塁の上に鎮座しているが、これ自体が自然堤防の名残と考えられる。
社伝によれば天正四年の創始と伝え、その年会の川に社殿が流れ着いた漂着伝承が残されている。
天正四年(1576)は長篠の合戦があった年で、今年の大河ドラマ「麒麟が来る」の時代。稀代の風雲児信長と、明智光秀が共に歩みを進めた時代。風土記稿によれば志多見村鎮守真言宗富士山明蔵院持ちとある。
日枝神社と改称したのは明治期になってからで、それまでは山王社と称していた。ご祭神は大山咋命。山王信仰は天台宗からくる山岳信仰で比叡山延暦寺ができてからは、大山咋命、大物主神を主祭神とする。明治期になって日枝神社となったところが多く、行田市内でも小針の日枝神社も同様の歴史を経ている。
明治二年浅間神社を合祀、明治四十年に前志多見から愛宕神社を勧請し、本殿向かって左に並べている。古くから志多見村鎮守とされ、昭和五十六年の改築の際には本殿から多数の石猿が発見されている。氏子区域は別所・十文字・前志多見・中原・新田・上原・北耕地・武蔵野と八つの耕地からなる。年中行事として元旦祭・春日待ち・夏まつり・秋日待ちと続くが、加須市内に多く見られる獅子回しの行事はない。これは山王様がお獅子を嫌ったいう禁忌の名残である。
境内地左側は広場があり、昔の殿様の馬場の跡と伝わる。その殿様とは知恵伊豆と呼ばれた松平信綱のことで忍・川越藩主を務め幕府の老中の重責を担った松平信綱が馬を乗り回した場所として伝わる。
信綱の父大河内金兵衛久綱は代官として羽生領に努め信綱が幼いころ病にかかり、志多見の名主のところで療養したという。回復したのち馬の稽古をこの地で行い、地元で語り継がれたという。
創建に関する漂着伝説について羽生市の郷土史家高鳥邦仁先生は著書「古利根川奇譚」の中で羽生城との歴史を織り交ぜながらその時代背景と木戸氏の命運を記している。(続)