皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

秋の横須賀研修旅行~忍藩とペリー来航ゆかりの地

2019-09-29 22:23:59 | 生涯学習

去る9月25日水曜日、行田市民大学同窓会研修バスツアーに参加することができました。現在行田市民大学は開校11期となり、9期生卒業の私も今年から同窓会の一員で、企画研修委員会に属しています。毎年秋に研修旅行を実施しており、今年は「忍藩とペリー来航ゆかりの地 横須賀へ」というテーマで企画されました。大型バス1台の募集で、参加者50名。昨年まではバス2台で行っていたそうですが、今年は1台での企画ということで、先着順での参加となりました。残念ながら、私のグループの方も御一人先着に漏れてしまい、グループ全員での参加はかないませんでした。

行田総合公園を7時に出発し、目的地横須賀に入ったのは11時です。平日の首都高速は午前中かなり混雑します。

大黒PAで最終休憩して、最初の目的地ペリー記念館に到着します。

江戸時代の日本は歴史の教科書にあるように鎖国体制にありました。ところが18世紀半ば以降、数々の異国船が日本近海に現れ、江戸幕府は対応を迫られることになります。こうした状況下で、徳川家康の血筋を受け継ぐ忍藩主松平下総守家は、天保13年(1842)に房総半島の沿岸警備を命じられます。譜代大名としての立場から、こうした幕府の危機に最前線で対応していたことが分かります。

泰平の 眠りをさますじょうきせん たった四はいで 夜も眠れず

当時の驚きを表した句も見られます。

ペリー提督はこのすぐ前の砂浜から上陸したと伝えられ、1901年(明治34年)其の足跡を称える記念碑が建てられています。「北米合衆国水師提督伯理上陸記念碑」の文字は初代総理大臣伊藤博文の揮毫によるものです。立派な記念碑ですが、第二次世界大戦中においては、敵国米国を記念するものとして、壊された歴史があるそうです。

第二の目的地は記念艦「三笠」の見学です。

日露戦争はロシアの極東進出によって国家の存亡の危機に直面した大戦で、東郷平八郎司令長官が率いる連合艦隊が、対馬沖においてバルチック艦隊ろ迎え討ち、勝利したといいます。「三笠」当時最新鋭の戦艦で、戦後紆余曲折を経て、現在の横須賀の地に記念艦として保存されています。英国「ヴィクトリー号」、米国「コンスティテューション号」と共に世界三大記念艦として広く知られるところです。

旅の終わりに蛯名SAにより、都心を通らず、圏央道を使って東松山から行田までたどり着きます。

日帰りのバス旅行ですが、多くのことを学び同窓会の皆さんと楽しい一日となりました。企画した広報委員の皆さんは、事前の下見や諸連絡と、大変な準備をされていたようで、本当に感謝しています。

 

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ちはやふる 第二回ぎょうだ郷土かるた大会

2019-09-28 22:53:47 | 日記

 第二回ぎょうだ郷土かるた大会が行田市総合体育館(グリーンアリーナ)で開催されました。昨年から始まった大会で、今年で二回目。市内の小学校から20チームほどが参加していました。締め切り直前で申し込み、小学校で唯一の参加チームとなり、また参加予定の子供の一人がお休みしたため、急遽私も選手として参加することになりました。後援は行田市青少年育成会です。土曜日の総合体育館は行事も目白押しで、朝から少年野球、幼稚園の運動会などたくさんの人が集まっていましたが、こうした文化的イベントも行われています。昨年は2階の会議室で行われましたが、今年は柔道場を用意していただき、畳の上でかるた取りができます。普段畳で過ごすことも少なくなった子供達には貴重な経験です。

今日の大会は3人一組の団体戦です。多くのチームが出られるよう、三人のうち一人でも小学生が入ればよいことになっていて、大人も参加できます。3人ずつ向かい合ってすわり、1.5Mの幅に並べていきます。中央の主将がじゃんけんをして勝った方がよく切り半分にして中央に置きます。じゃんけんに負けた方が先に選び、勝った方が後からとります。

 とった札は自陣に上段に12枚、下段に11枚並べます。並べているときから5分間を記憶の時間として札の位置を覚えていきます。

ぎょうだ郷土かるたは全部で46札。市内各地の文化財や史跡、郷土料理など郷土に関する様々な句がうたわれています。また行田市民憲章もよまれています。

記憶の時間が終わると競技に入ります。「読み手」が「から札」を2度詠むことになっています。「から札」には「日本一旅の行田の名は高し」の札が使われます。競技かるたの共通のルールなのでしょうか。このから札を聞いて気持ちを落ち着かせるようです。また読み手の声の特長を知ることができます。

競技中の姿勢は基本的に正座となります。手は膝の上に置き、前傾姿勢は45度までと指導されます。取る際は「はい」と発音し、先に札に触った方がとることになります。またお手付き(間違い)は取った札を相手に一枚渡さなければなりません。

各ブロック4チームによる総当たり戦で、勝敗と得点を争います。特にとった枚数と共に、「役札」をそろえると得点が伸びることになります。ふるさと札の「う」「け」「ほ」がそろえば10点。シンボル札「く」「す」「せ」がそろえば10点です。役札はそろわなければ一点で、同店の場合、「から札」の「に」を取った方が勝ちとなります。

結果は2勝1敗のブロック2位でした。またBグループの1位のチームが総得点で優勝しましたので、優勝チームに善戦したという意味では、良く戦ったと言えます。

礼節を重んじるよう、競技の前後で正座をして「礼」をします。また競技中の不満は言い争いをせずに審判を通じて意見を述べるように指導されます。特に競技が白熱すると、どちらが先に札に触ったかで言い争いも起こります。ビデオ判定はありませんので、審判の判断が重要です。

競技であっても礼節を重んじ、審判の判断に従います。こうした価値観を養うことも大事なことです。

11月には彩の国かるたの行田地区予選もありますので、是非参加してみたいと思います。

勝ち負けよりも礼儀を重んじる、学年や学校の違う相手を尊重する。ワールドカップで盛り上がるラグビーの精神に共通するものがあったように思った9月の終わりの1日でした。

 

 

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武士の世の始まり 平氏、栄える~平忠盛伝②

2019-09-23 21:59:25 | 昔々の物語

殿上人となった忠盛を討とうとする話はやがて忠盛本人の耳に入る。

「さてさて厄介なことになったものかな」忠盛は眉をひそめた。

「わしが文官ならば、宴会に行かなければ済む。しかしながら武家に生まれながら、闇討ちの噂に怯えて行かぬと知れれば、とんだ臆病者とあざけられるであろう。かといってまともに相手をすれば大騒動になりかねぬ」

宴会の日忠盛は少し長めの短刀を無造作に腰に挿して出かけて行った。

「今宵わしを襲って痛めつけようとする輩がいると聞く。そ奴が襲ってきたらばこれで相手をいたそう」そういって銀色に光る短刀をこめかみにあて、切れ味を確かめるようにさらりとこめかみの毛をかき撫でたという。待ち伏せていた闇討ちの首謀者はそのさまを見て逆に恐怖におののいたという。

やがて紫宸殿(内裏の正殿)の宴会が始まるとその席でも忠盛は短刀を抜きしきりに鬢の毛をさらりと撫でている。銀色の刀身が灯火にぎらりとかがやき、居並んだ公家たちはただ息をのむばかりであった。

「宮中での帯刀は固く禁じられている。その決まりを破るとは朝廷をないがしろにすること甚だし」「武家といえども、殿上人の交わりに刀を差して現れるとは呆れた次第」公家たちは忠盛に隠れて罵った。

やがて忠盛は宴の途中で席を立つ。控えの間にいた役人に短刀を鞘ごと預けると、「これを私から預かったこと、後々よく申し述べてほしい」と言って帰途に就く。

「直ちに官位を削り、忠盛を重い罪に問うべきである」なすすべなく残された公家の面々はそう訴えた。

 事の次第を公家衆から聴いた鳥羽上皇は驚いて、忠盛を呼び出し問いただすと、

「そのことについては、宴会に控えていた役人に刀を預けておりますので、お調べ願います」と忠盛は落ち着いて答えたという。

宴会係の役人が預かっていた短刀を以て「確かに私が平忠盛殿よりお預かりしております」と言って差し出した。鞘から抜いてみると、刀身は木刀に銀紙を貼ったものであったという。

武士としての名を辱めることなく、またおめおめと闇討ちされないための思案ががまさにこれであった。

上皇は「「誠に立派な思案である。武士とはまさにそうでなくてはならぬ」と言って忠盛をほめたたえたという。それ以来忠盛の昇殿をとやかく言うものはいなくなった。貴族社会に武士としての存在を示した出来事として語り継がれたという。

後に忠盛が亡くなった際、公家の一人は日記にこう記したという。

忠盛は巨万の富を蓄え、多くの者を召し使いしかも武勇に優れていた。けれど慎み深く、おごりや贅沢をせずに世の人々はその死を心からおしんだ

平家の繁栄を築いたのは清盛の力であることが大きいが、その父忠盛の人柄が基盤となっている。

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武士の世の始まり 平氏、栄える~平忠盛伝①

2019-09-21 22:47:02 | 昔々の物語

 武士を意味する『侍』とは「侍ふ(さぶらう)』から出たという。「さぶらう」とは身分の高いひとのそば近くに控えること。その言葉通り、源氏も弊誌も都の貴族=公家にさぶらい、護衛の役を務めた。源氏と平氏は競い合うようにして勢いを伸ばし、はじめは源氏が優勢であった。特に奥州の反乱を鎮めた八幡太郎義家は「天下一の武勇の士」とうたわれた。

 これに対し平氏はあまり振るわなった。はじめ東国に勢力を伸ばしたものの、平将門の乱によって地盤を失い、その後伊賀、伊勢(三重県)に本拠を移し「伊勢平氏」と呼ばれるようになった。

 伊勢平氏が中央の貴族に名を知られるようになったのは平清盛の祖父正盛の時。当時の白河法皇の信頼を得て、朝廷のいうことを聞かない八幡太郎義家の次男、源義親を討って武名をあげた。

 そのころ源氏は義家の後を巡り、一族の争いが起きていた。義家の孫、源為義が後を継ぎ棟梁となったが凡庸な人物で、貴族や朝廷の信頼を得ることができなかった。

一方平家は棟梁となる人物の引継ぎが上手くいっていた。正盛の息子平忠盛は、父と共に白河法皇に仕え、朝廷の命により二度に亘って瀬戸内海や九州沿岸の海賊を討ち滅ぼし、同時に中国との貿易を大いにとりまとめ、宋との商人との間で取引を行い、財力を蓄えていった。

 その財力で寺社を建て、土地を寄進し上皇による政治を支えることで益々信頼を勝ち取り、結果昇殿を許される身分を得た。内裏の清涼殿の間に出入りを許されることで、貴族でも特別の資格でなければ許されない名誉であった。昇殿を許された人物のことを「殿上人」と呼び敬われた。雲上人ともいい、雲の上の人という意味であった。

 しかし周囲の貴族たちは忠盛の昇殿に反発した。これまでの身分では武士は貴族に仕える立場であり、低い存在であると思われてきたからだ。憤慨した貴族たちは宮中での宴会の席で忠盛を闇討ちにする計画を立てた。暗闇に紛れて討ち滅ぼす、闇討ちの計画が立てられていったという。

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お名前で失礼します

2019-09-20 22:29:17 | 心は言葉に包まれて

長引く目眩症の経過診察で壮行会病院へ。午前10時の予約で向かうと、クリニックの受付、各診療室前の待合の椅子は既に沢山のひとで溢れていた。社会保障費、とりわけ医療費の社会的な増加に伴って、近年かかりつけ医の推進が取られているそうで総合病院は二次診察、専門治療へとシフトしたいようだが、地方都市の中核病院となると、駐車場も年ごとに拡張され、病棟も年々増えているのように思う。

基本的に、初診でなければ受付も診察券を機械に入れるだけで、当日の受付番号を発券される。また診察、診療が終われば、薬の処方箋も、会計も機械対応になっている。勿論窓口での対応もしているが、極力医療行為以外は機械化しようとしてるのがよくわかる。
診察の呼び出しも受付番号の掲示と案内音でされるが、必要に応じて看護士さんが呼び出す場合もある。その際基本的には番号で呼び出している。『1234番の方〜』『受付番号○○の方〜』といった呼び方だ。しかし聴き取れない方も多く、その際は名前で呼ぶことになる。病院のルールなのだろうか、名前で呼ぶ際に、『お名前で失礼します。○○様○○様』と呼んでいる。病院という施設の特殊性なのか、名前を呼ぶのに失礼しますというのに異様な違和感を感じてしまう。個人情報の保持は大事な事で、様々な観点からこうした対応をしてると理解できるが、やはり人と人との会話の中で、機械的な番号よりも、名前で呼ぶ方が自然のよう思う。
若い頃は親への反発から、自分の名前があまり好きではない頃があった。
『名』は『音』『ね』が転じたもので、そもそも人は自分以外の誰かに対して呼び名、即ち『音』をつけなければ、その人が誰かを判別できない。『名』は『夕』と『口』に別けられて、即ち夕刻、暗くなってから口にするもの、要するに暗くなって姿か見えない相手を探すためのものだったという。(諸説あり)
『前』は『一人前』などと言ったように整った様子や物事を表している。名前というのは、その人がその人であるために、他の人から授かるかけがえののない存在価値。またその理由だ。
自分が歳を重ねる毎に授けてくれた両親への感謝が深くなったように思う。
人の名を呼ぶのに配慮が必要な場合もあるだろう。世の中のあり方も時代によって変化する。名前の扱い方ひとつで思いを巡らせていた。
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