皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

旧栗橋町 鹿島神社氷川神社

2020-06-24 22:15:46 | 神社と歴史

加須市大利根方面から栗橋に入ると、青々とした水田地帯が広がっている。旧栗橋町西部の区域で大字を狐塚という。古くは田圃の神として狐を祀った塚があったことに由来するという。

村内には高秀寺と泉福寺という二寺があり、後者が別当であったという。『風土記稿』高秀寺の項には「鐘楼 延宝三年(1675)の鋳造の鐘を懸ける」とあり神社境内の池には寺の鐘が沈んでいたとの逸話が残っている。

また参道わきには従軍碑が建っており、明治以降も当地が地域の信仰の中心であった事がうかがえる。

 鹿島神社と氷川神社が合祀されている経緯が、地域性を象徴するようでいかにも面白い。「風土記稿」においては氷川神社の記載はなく鹿島神社として載る。口碑によれば昔当地が下総国に属していたころ、一宮香取神宮を祀り、次に常陸国へ入植する過程で鹿島神社が祀られ、江戸期となって武蔵国に編入されるにあたり、氷川神社を勧請したという。

よって現在でも社号額は「鹿島大明神・氷川明神」との併記となり、二間社の本殿を有している。

当地にはいくつも沼があり、利根川の氾濫によって生じた水害地帯であることを物語る。逸話に関しても水害にかかわるものが多い。明治四十三年合祀政策によって他社との合祀が図られたところ、幣帛を持ち出した途端大水が出て中止となったという。また昭和二十二年の洪水に際しては中川昭和橋付近で逆流した水が神社周辺に押し寄せたものの、神のご加護により社殿が流されずに済んだという。

利根川の歴史とともに歩んできた区域だけに、多くの水にまつわる伝承が残っている。水とともに生き、水に悩まされてきた栗橋の町。現在の流域からは少し離れた区域でもこうした伝承を見ることができ、非常に興味深い。

 

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加須市 南大桑 雷電神社

2020-06-22 19:13:34 | 神社と歴史

か加須市大桑の地名は昔、筑波の門井村から移り住んだ大桑氏がこの地に勢力を得たことによる。その大桑氏も姓を出自かららとって門井姓に改めたという。古利根川流域の地域であることから、堤も築かれ現在でもその上に社殿が建っている。

主祭神は別雷命で本殿に十一面観音像を安置している。板倉の雷電様から勧請したものであろうか。笹祭りの中心となるのが古くから伝わる獅子舞である。昭和三十五年に市無形文化財に指定されている。加須市北小浜の八幡神社、同多門寺愛宕神社に伝わるものと同じ流派であるという。ことに当地に伝わる獅子舞は動きが激しいため「暴れ獅子」と呼ばれる。現在使われている獅子頭は天保十四年から伝わるものだという。

境内末社である愛宕社は、昔当地に火事が頻発したことから、防火の神として信仰の厚い、京都愛宕神社の護摩の灰を御神体として祀ったものだという。また古くから社頭においてある楊枝を耳に入れると、耳の病が治るといわれている。同じ信仰が先の多門寺愛宕神社にも伝わり、地域の関連が見られる。尚別当であった多門寺はすでに廃寺となりその姿を見ることはできない。

こうした信仰に加え、古くは多くの習俗が残っていたが、生活様式の変化や転入者の増加に伴い次第に失われていった。

その中でも昭和一桁台まで行われていた雨乞いは特殊なものであったという。

 稲や大豆が日照り続きで萎れてくると、隠居獅子といわれる古い獅子頭を箱に収め神社から葛西陽水まで担いで行き、用水に流し観音堂池まで来るとこれを沈めた。雨が降れば隠居獅子を神社に戻したが、降らなければ初めからこの儀式を何度でも繰り返したという。

 板倉の雷電様も雨乞い神事が盛んで、鶴ヶ島市脚折の白髭神社では四年に一度の神事として板倉まで神水を取りに行く、「脚折雨乞」が国の指定文化財となっている。

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旧栗橋町 一言神社

2020-06-16 21:59:49 | 神社と歴史

旧栗橋町は史跡静御前の墓が建つことで知られている。栗橋駅前にはその参道と静御前の伝承を伝える墓碑がすぐそばにあり、観光名所となっている。

白拍子と呼ばれる美しい舞姫であった静御前が、その後平家追討で名を挙げた源義経の寵愛を受け、兄頼朝の迫害から逃れるため運命を共にしながら、奥州に逃れた義経の最後を聞きつけたのが近くの下総国下辺見付近(古河市)であったと伝わる。義経の菩提を弔うために京都に戻る途中、度重なる苦難に倒れたのがここ栗橋であったという。

 この静御前の物語は悲しくも人々の心を掴み、今日でもその墓石が残るほど有名になっているが、この静御前の墓石の近くに、もう一つの悲しい伝承が残る小さな神社がひっそりと佇んでいる。

 昔利根川の洪水に見舞われた際、水が引かず村人は困っていたが、そこへ通りがかった旅の母娘を人柱として神の怒りを鎮めようとしたという。母親は「せめて最後に一言言い残したい』と懇願するも、村人は聞き入れず母娘を濁流へと投げ込んだという。すると洪水の水は瞬く間に引いていき、村人たちは難を逃れた。以降その母子の霊を慰めるため祠を建てたのが、この一言神社であるという。ただし「風土記稿」によれば「祭神詳ならず」とある。 

記紀神話において一言主命がが雄略天皇大和国葛城山で出会ったという故事が残されており、一言であればいずれの願いもかなえてくれるという神であるという。さらに利根川対岸にあたる茨城県境町猿山と茨城県水海道市大塚戸にも一言神社があり、同様の伝承が残っているという。

 利根川流域近くの栗橋では、近年まで大雨洪水に悩まされていた一方、昭和30年代までは雨乞いの行事が盛んにおこなわれていたという。治水に悩みながら、作物に必要な雨に悩むことも多かったのだろう。『延喜式』臨時祭条という記述の中には祈雨神八十五座というのがあって、大和国の一言神社が列しているという。

雨乞いは作物の被害が出そうになるとおこなわれ、まず氏子一同が当社に集まり、若い衆二三人がご神体の御幣をもって東の香取神社まで向かった。その際必ず宝地戸池を泳いだという。

寛保二年(1742)の洪水の際利根川は栗橋関所を押し流し、濁流は激しく地面をえぐったため池として残ったという。現在も「宝地戸池」として残っている。

香取神社へ到着すると御幣は本社へ納められ降雨が祈願される。一言神社は香取神社の居候となり心苦しいから、七日以内に雨を降らせるのだという。雨が降るとお礼参りをし、御幣は一言神社へ戻される。ただしあまりの効果に年に二回行うと大雨になったという。

 一方静御前にも「雨乞いの舞」に関する伝承がある。むしろこちらのほうが広く知られている。

後白河法皇は日照りが続き国が弱った際、百人の白拍子を集めて雨乞いの舞を舞わせた。当時十五歳であった静御前が最後に舞うと、空がにわかに曇りだし降り出した雨は三日三晩続いたという。後鳥羽上皇はその才能を称賛し褒美に「蝦蟇龍」の錦の舞衣を贈ったといい、現在古河市の光了寺に残るという。

水神としての信仰があった一言神社。人柱となった母子の最後に言い残したかった言葉は何だったのか確かめようもないが、静御前の伝承と結びついて現在でも地域の信仰として大事に守られている。現地では一言神社の案内板はなく、社殿と神社の扁額がその名を伝えるだけである。

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お前の目は節穴か

2020-06-16 20:51:00 | 心は言葉に包まれて



六年生になり、幾らか以前よりも机に向かう時間が多くなった。宿題よりも自学(自主学習)を一生懸命やっている(感じがする)。
 漢字と共に熟語を覚えるよう指導される。日一日と言葉の世界が広がっていく。
『節穴』と書いていたので、節穴を見たことある?と聞いてみると、『ない』という。今時の子供は節穴なんて見たことないのだろ。小学校の頃、木造校舎の隅々に節穴が空いていた。当時体育館はなく、音楽室が集会場を兼ねていた。その床にたくさんの節穴が空いていた。
見えるべきものを見落とす様を卑下してお前の目は節穴かなどと表現する。役に立たない穴のことだ。
自宅床を見ても節穴どころか、節さえも見当たらない。木の材質も美しいものしか使われなくなっている。
世の中が便利になって、ものも豊かになると、新しい価値にと共に新しい言葉も生まれる。新語流行語の部類は毎年注目される。一方で使われなくなる言葉や表現もたくさんあるだろう。
言葉は生き物とだという。使うことでその輝きは増すのだろう。
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下須戸 八坂神社

2020-06-06 20:21:58 | 神社と歴史 忍領行田

行田市中部東端に位置する下須戸は星川下流、見沼代用水の通る肥沃な田園地帯だ。旧国道125号沿い、その先は羽生市へとつながって行くが、市内に対になる「上須戸」の地名は見当たらない。新編武蔵風土記稿によれば、「上須戸」は幡羅郡にあり対となるという。現在の妻沼の地である。

 しかし上下一対の地名にしては距離的に無理があり、「須戸」とは「州門 」であり即ち中州の先端を指すものと思われる。幸手市にも「須戸」の地名が残り、古くは利根川流域に散見した地名と考えられるが、河川の流れの変化により、地名も消滅する中で、この地の名は残たものだろう。

口碑によれば、約七百年前、鎌倉幕府の迫害を受けた一人の僧が牛頭天王の象を奉じてこの地に住み着いたとされる。この者が旧別当真言宗天王院医王寺の開祖であるという。

医王寺の寺鎮守として牛頭天王を祀ったことが当社の創始とされる。牛頭天王とは素戔嗚尊のことで、総本社は京都祇園の八坂神社である。

本殿脇には四坪ほどの池があり、古くからの信仰の中心という。昔近郊一円に疫病が流行り、医王寺の僧は感染の原因となる生水の飲用を村人にやめさせ、代わりにこの池の水をに沸かして与えたところ、当地は疫病から守られたと伝わる。

 以来この池の水に対する信仰が高まり等遠くはるばるこの水を受けに来るものが後を絶たなかったという。また日露戦争後、当社に参拝すると敵の弾に当たらないといわれ、益々崇敬も増したという。

境内地には「日露戦役凱旋記念碑」が建っている。碑文は陸軍大将山縣有朋によるもの。行田市内には日露戦役の記念碑が16基残っているが、その中の2基が山縣有朋の書によるもので、ここ八坂神社と前玉神社に残っている。

 例大祭にはかつて馬に乗った神職を先頭に神輿が村中を廻ったという。神輿の出立に先立って、神職から馬まで水を被って清めたという。これは昔天王様が水行したという伝承によるもので、神輿は「女天王」と呼ばれていた。現在でもその記念碑が残っている。

古来、戦と並んで恐れられたのが疫病である。その恐怖は尋常でなかったのだろう。昔は「厄災」を世の中に怒りや恨みをもって亡くなった人の祟りと考えていた。また疫病を司る神の仕業と思っていた。牛頭天王はインドの寺の守護神で、病気を流行らせる神だとも考えられていた。そこで牛頭天王を鎮める御霊会が平安中期から広まっていったのだという。

行田市内には八坂社はここ下須戸と白川戸の二社であるが、加須、羽生には八雲神社を含め八坂神社、祇園信仰が数多くみられる。羽生の八雲神社の例大祭、天王様の祭りは今でも盛大に行われている。令和の御代に今般のウィルス蔓延の事態となり、改めて八坂祇園信仰が高まっている。

 稲作を中心とした農耕信仰が神道の起源だと考えられるが、厄災、疫病除けもその派生的起源として古くから広まっていたものと考えられる。

 

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