皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

垂と注連縄、そしてシズル感。

2019-03-31 23:24:56 | 神社と歴史
鳥居や玉串の榊につけられる折った紙のことを垂(しで)と呼びます。神社の正面に張られている縄は『注連縄』といい、しめなわの呼び方は一般にも良く知られています。垂の語源は『枝垂れ桜』と同じで、吊り下げるという意味です。

昔は『垂づ』ということ古い言葉も使われていて、現代では広告のキャッチコピーや食品売り場の臨場感を表す言葉として『シズル感』などと表現されます。りんごやミカンなど、生鮮品に美しいしずくが落ちる(垂れる)様子を表しているようです。語源からすればしづるとなるところ、シズルに転じていると考えられます。
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栄光のその先へ

2019-03-28 21:29:33 | 日記

年度末を目前に控え、続々と各地から桜の開花が伝えられている。東京の桜は早く、ソメイヨシノが満開を迎えているらしい。学生の頃二年ほど北区にアパート暮らしをしたことがあり、王子公園の桜を見に行ったことがある。もう25年以上前のことだ。桜よりも花見の宴後でどうしょうもない酒のにおいをかいだことを覚えている。 朝にはつぼみだった皿尾城の桜も夕方過ぎには開花し、二分咲きといった具合だ。

弥生の終わりは別れの季節。明日には学校の先生の異動の知らせも出るのだろうか。春休みの学校職員室は遅くまで明かりがともっていた。

習字やそろばん、塾や音楽、学習塾に限らず習い事を続けている子供は多い。少子化にあたり、一人当たりの子供に掛ける費用は増加傾向だから、いろいろなことに挑戦させることも多いだろう。何事もそうだが始めるより続けることの方が難しい。ましてやどこまで続けるかの判断はなかなか区切りもつけずらい。

 小学四年生の息子は水泳を始めてすでに五年。幼稚園から同じスクールへ通っている。送迎も自家用車だけに週二回の練習は時間もかかり、なかなかの負担だ。近年では個人競技、種目が流行りで昔の様に皆野球やサッカーばかりではなくなって久しい。

記録が伸びれば伸びるほど、技術も磨かなくてはならずより速く泳ぐにはしっかりとしたフォームを身につけることが重要だ。ただがむしゃらに泳いでいても結果はついてこない。

 スクールも級取得制度をとっていて、最上級一級を取得すればスイミングキャップも青から白に変えてくれる。キャップには「First

Class」と刺繡も入る。四年生の内に白帽子を被ろうとこの一年頑張ってきた。

進級テストは今週が最後で、チャンスは今日を含めてあと二回。種目は平泳ぎで50mを50秒で泳げば合格。私が見に来れるのは今日が最後だった。

 結果は49秒63で見事合格。念願の1級取得だった。

うれしかったのは本人が得意の平泳ぎで後半も伸びのある泳ぎを見せてくれたこと。いつもは結果が出てもおとなしくしている彼が、コーチに詰め寄ってまで結果を聞きに行ったこと。そして何より四年生の息子より一回りも二回りも体の大きい中学生くらいの1級の先輩が、息子の1級合格を知って自分のことの様に喜び、握手を求め、何度も何度も背中を叩いて祝福してくれたこと。

プールサイドで同じ1級の子供たちが、一際体の小さい息子の合格を喜んでくれたこと。

個人競技でも同じプールで泳ぐ仲間と技術を磨きながら、その泳ぎを認められ、嬉しそうにしていた彼の姿に大きな成長を感じた一日だった。

ファーストクラスの白キャップを被り、大きく飛躍することを期待するとともに、これからも多くの仲間を大事にしてほしいと願っている。

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加須総鎮守 千方神社

2019-03-27 21:43:48 | 神社と歴史

千方神社の名称はその御祭神である修理太夫千方に由来する。藤原秀郷の六男で鎮守府将軍。社伝によればこの地方で仁政を行った功績を称え祀られたという。藤原秀郷は平貞盛と共に平将門の乱を鎮圧したことで知られている。

日本史の教科書においても律令国家の変質として承平・天慶の乱は大きく取り上げられ、特に関東において新皇と称し国府に反乱した平将門は、当時の社会を大きく変えようとした人物でその将門を討った平貞盛と藤原秀郷は武家の棟梁として力を持つようになった。

江戸期の御伽草子「俵藤太物語」では饗宴の席で将門が袴に飯をこぼし無造作に払いのける軽率さを見て秀郷は将門討伐を決意したと伝えられる。同じく『俵藤太絵巻』では将門の首を運ぶ秀郷の隊列も描かれている。貴族政治から武家社会の幕を開ける時期の人物像だ。

広い境内の一角に「石敢當」と刻まれた石碑が建つ。中国由良の習俗で道の突き当りや辻に魔除けとして建てられたもので、文化十四年に青縞の取引市の守護神として建てられたものだという。元々加須本通りの北側に祀られていたものを昭和二十九年に神社に移している。九州、沖縄には多いがここ関東においては非常に珍しく、市の文化財となっている。道祖神としての意味合いが見られ、神社の御祭神にも興玉命(猿田彦)が祀られている。

加須市といえば鯉のぼりの産地で有名だ。

江戸期中山道と日光街道を結ぶ脇街道の宿場町として栄えた。文化文政期において五十市が立ち青縞を中心とした染物、木綿織物の集散地として発達した。その後大正期に鯉のぼりと剣道具の生産地として有名となり、毎年五月には100mを超えるジャンボ鯉のぼりが大空を舞っている。

 

 

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忍城 帯曲輪跡

2019-03-26 23:29:02 | 行田史跡物語

市役所前通りを北に進み国道125号線を越え地獄橋跡(先述)を西に入ると矢場地区となる。戦場が地名となった場所の先に帯曲輪跡がある。忍城北方の要の地であり、城中侵入の守りとして徳川家康賞賛の曲輪であったと伝わる。

江戸時代に書かれた「甲子夜話」の文中に「この城の堀は特に多く、登城するのに多くが堀を船で行く」と記されている。今では映画の影響で「忍の浮き城」とよばれるようになったが、昭和の頃までは「水城」と呼ばれることの方が多かった。(コミュニティーセンターみずしろなどと名もついた)

 谷郷の春日神社西の大樋から沼の水を引き入れ、佐間の天神様の堰で水を止めその水量を調節していたのが忍の水城の秘密であったが、この帯曲輪で堰を守ったとされている。

 阿部家以忍城整備の際、帯曲輪の地は堅固に造られ、北側を高い土手に白壁の堀をめぐらし、そのころは曲輪に人家がないほど狭い道であったが松平候の頃から宅地造成がなされ南側に江戸屋敷の米蔵を移築したという。両側に家が並んでいたが北側は高い土手であったことから、櫛型の狭く長い曲輪であったことから「帯曲輪」と名がついたという。

現在曲輪の先に堀の跡が水路となっていて、空いた土地には春の菜の花が咲き乱れている。

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彼岸とおはぎそして私

2019-03-20 22:21:01 | 風の習わし時を超え

 三途の川を挟んで今の私たちが住む世界を此岸、そして向こう側仏様の世界を彼岸という。現世の人々を苦しめる煩悩の無い悟りの世界、即ち極楽浄土のことを指す。中日を挟んで前後三日を彼岸とし、古来の風習や自然観祖先崇拝という風習が強く結びついて生まれた言葉だという。ましてや他の仏教国には彼岸という風習はないのだそうだ。

平安期に始まった彼岸会は浄土宗の影響といわれ極楽浄土は西の彼方にあると信じられていて、太陽が真東から昇り、真西に沈む春分と秋分の日には此岸と彼岸が最も通じる日と考えられてきた。一方仏教伝来以前より祖先や自然を崇拝してきた風習から、太陽信仰即ち「日願」が転じて「彼岸」と結びついた説もある。

 

彼岸のお供えといえば「おはぎ」今ではスーパーで手作りのおはぎが人気だが、本来は春は牡丹の花咲く季節であるから「牡丹餅」(ぼたもち)であり、あきは萩の季節で「お萩」といったようだ。但し武家の家では「牡丹餅」だと牡丹の花の散り様が首が落ちる様に似ていることからぼたもちをさけたという。(諸説あり)

 江戸時代に始まった牡丹餅、おはぎの風習は小豆の色に邪気を払う力があると考えられて、あくまでお供え物であったという。またお祝いで炊く赤飯は地域によっては小豆を使うと豆の腹の部分が割れて縁起が悪いので、地場でとれるササギを使うところもあるという。

明日は中日。昨日墓参りは済ませていて、自分は販売という本業に全力で当たる日だ。

 

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