皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

皿尾門の狐

2022-06-07 20:28:35 | 昔々の物語

『甲子夜話』(こうしやわ)という九州平戸藩主松浦静山翁が文政四年(1821)から七年かかって書き上げた随筆集がある。その巻四十六に「忍城の事」が出ていてそのなかに「本城の後ろの林ある嶋あり、この処狐多く住めり云々」と記されている。今から二百年も前に九州平戸藩まで知られていた事は非常に興味深い。


忍城は沼と森林に囲まれていたことから、蛇と狐の伝承が非常に多い。
皿尾門というのは忍城北西にあり俗に乾門(戌亥)と称し忍城十五門の内でも重要な門のひとつであった。忍城の場合明け六ツ、暮れ六ツには門を開閉する「時鐘」が鳴り響いたという。

大屋の竹さんは皿尾門の使丁であった。明治に入ってすぐの頃暮れ六ツの鐘と共に城門を閉めれば誰一人通らない静かな夜を迎えるばかりでである。
亥の刻(午後十時)には火の用心の見回りをするのが勤めっであった。この間城門近くを通る度、潜り戸を叩く音がするので扉を開けると誰もいないとい事が続いた。竹さんは興味が湧いて物陰に隠れてみていた。すると一匹の狐が門のとこへ来て止まり後ろ向きになって尻尾を立てて門をトントン叩いているのいるではないか。武さんが「この野郎!」と近づくと狐は素早く逃げてしまい、以来一度も門に近づかなかったという。
狐は人を騙すというが、狐にしてみれば戸を叩くと人が驚いて開けてくるのでただ面白かったのかもしれない。

狐が戸を叩きに来る話しは竹さんの唯一の語り草で、この先の矢場かいわいでは、竹さんの話を聞かされない人はいなかったほど有名だったという。
引用文献「行田の伝説と史話」大沢俊吉
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忍城 二の丸稲荷

2022-05-22 13:47:03 | 昔々の物語

 成田家十六代下総守長泰は室町後期の武将で上州青柳城を攻め、川越城、古河城、上杉謙信の襲来と三十年間に及ぶ戦に次ぐ戦の生涯であった。
 永禄九年(1566)長泰は家督を氏長に譲り、仏門に入って蘆伯斎と号して忍城二の丸に隠居する。するとある夜から毎晩のように何者かに憑かれ子丑の刻になると家鳴りがして大きな石のようなもので胸が圧迫され息も絶え絶え、声も出ず全身汗をかいているという夜が続いていた。何者かが寝室に忍び込むのではないかと不寝番をたて、僧侶や山伏に御祈祷に当たらせるも一向に効き目なく、豪勇で名を馳せた長泰もめっきりと衰えてしまった。息子の氏長も心配し家老や家臣を招いては何か良い案はないか相談すると、その中の須賀修理大夫が言うには昔からこうした武人がとりつかれる例は昔からよくあることだという。八幡太郎義家は三度弦音を鳴らして堀川院の邪気を払い、源頼政は雲中の鵺を射落とし、隠岐次郎右衛門広有は怪鳥を射落としたとも伝わる。よってその道の達人に頼もうというのである。

代々弓術で仕える三沢七郎右衛門を呼び、長泰に纏わる不思議な出来事を伝えると、「目に見えないものを射抜くことは腕が未熟でできかねる故、父三沢浄斎に相談いたします」ということになった。三沢浄斎は成田家当主氏長の前に進み出て、「京都将軍家弓道指南役、住山将監の秘伝を伝授されたものの、いまだ使った試しなく、この機にその怪物に試して見せましょう」と申し出た。

夜になって浄斎は長泰入道の寝床の隣間に入り、その他屈強の侍で寝床の四方を固めていた。子の刻になるとうなされる長泰の様子そのままに、どこからともなく風が入り、行燈の灯りが消えうせる。もがき苦しむ長泰の脇を浄斎は秘伝の弓を放つ。警護の矢沢玄蕃允(げんばのじょう)は暗闇の中何者かを感じとらえようと試みるもついには取り逃がしてしまった。その物音に長泰入道も気を取り戻し、氏長以下家臣の一人も怪我もなかったが、怪物と格闘した矢沢玄蕃允のみが具足の下に何かの爪の痕が残されていたという。

翌朝見返曲輪の番人が来て申すには「子の刻あたりに私の夢の中に真紅の狐が口から火炎を吐きながら話すには、『我この曲輪に久しく住む狐である。昔この城の城主長泰にわが妻子は殺された。その恨みを果たすべく狙っておったところ、長らく隙が無かった。長泰老いて後近年その機会をうかがっておったが、今宵弓の達人に射抜かれ力尽きて逃げてきた。吾これよりこの曲輪を去るが、汝は多年に渡り我に恵を与えたまえたので、恩返しにこれを与える』といって美しい赤い球が枕元に残されたおりました」

この話を聞いた氏長は三沢の弓術と矢沢の怪力をたいそう褒めたという。しかしながらそれ以上に驚いたのは長泰入道で『私がまだ血気盛んな頃、二つの丸曲輪(見返り曲輪)の藪の根元にいた子連れの狐を見かけてともに射殺してしまった。あの怪物はその時の牡狐であったか。無益な殺生をしたものだ』と大いに悔いた。


すぐに清善寺で大供養ををし、見返り曲輪に祠を建てお稲荷様として祀ったという。
現在も城内諏訪神社の東に二の丸稲荷は立っている。
話の構成や人名が出来すぎており『成田記』四巻からの引用であると大沢俊吉氏は解説している。文脈・構成が太平記調で構後世の創作と考えられるそうだが、長泰が龍淵寺に隠居し仏道に励んだことは事実であり、こうした伝承によって、領内の成田家に対する崇敬を図ったとも考えられる。
無益な殺生と悔いる心。武勇を誇れども老いては仏の道へと導かれる。どんなに時代が変わろうとも事の本質は変わらないのではないか。
伝承は今尚伝わっている。
引用文献
『行田の伝説と史話』大沢俊吉
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飴を買う幽霊

2022-03-28 22:46:46 | 昔々の物語
昔はお寺の門前坂には、飴やさんが多くあったそうです。その飴屋に閉店間際ひとり怪しげな女が飴を買いに来たそうです。
一文で飴がひとつの時代。
女は来る日も来る日も飴を求めてやって来ます。しかもその数は一つきりでした。
六日目の夜、その女は「もうこれで銭がありません。今宵が最後でしょう。もう来ることもありません」
と寂しそうに一文銭をおいて店を出ました。
不思議に思った店の主人はこっそりあとをつけました。すると女は寺の境内をすり抜け墓地に入っていくと、埋葬されたばかりの新しい墓の前でふっと消えてなくなりました。
「これは何かあるに違いない」そう思った飴屋の主人は翌朝寺の住職に立ち会ってもらい、その墓を掘り起こしてみたのです。
すると棺のなかで女の亡骸にしっかりと抱かれた赤ん坊が飴をしゃぶっています。亡くなった妊婦が埋葬後に赤ん坊を生んでいたそうです。
棺のなかにいれてあった三途の川の渡し賃とされる六文銭がなくなっているではありませんか。
若い母親が幽霊になってまで我が子を案じ飴を買うという話を書いたのは小泉八雲というギリシャ生まれのアイルランド人作家です。

日本人の持つ深い精神に触れた八雲は日本に帰化し多くの作品を残しています。「耳なし芳一」「ろくろ首」などです。
小泉八雲が明治27年に熊本での講演で述べた大事な一文を記します。
今の日本にとって大事なことだと思います。
日本の貧困はその強みであるという固い信念を敢えて述べたい
裕福は将来弱体化する原因になりうる
日本には危険性があると考える。
古来からの質素で健全な自然で節度ある誠実な生活方式を捨て去る危険がある
日本がその質素さを保ち続ける間は強いが、もし舶来の贅沢志向を取り入れるとすれば衰退していくだろう。

飴を買う幽霊の話は日本人母子を描いた短編です。すでに多くの日本人はその精神を失っているかもしれません。
国としてすでに弱体化しているのでしょう。
ものが貧しいときの方が心は豊かで、人を思う気持ちが強いのかもしれません。
豊かさを求めながら、貧しさを知る。
歴史に学ぶことしかないのかも知れません。

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水仙の花言葉

2022-03-18 22:16:02 | 昔々の物語

庭の水仙が咲いている。私が幼い頃から変わらぬ景色。緑の茎に凛と咲く黄色い花を季節の流れとともにただただ眺めていた。冬から春にかけて咲くスイセンはなぜかうつむくように下を向いて花開く。
「うぬぼれ」「自己愛」
スイセンの花言葉。けして明るく前向きな意味ではない。
その起源となったギリシャ神話があるという

若さと美しさを兼ね備えた少年ナルキッソスは多くの相手からい言い寄られてもなお、冷たい態度をとり続けました。
森の妖精エーコーも彼に恋をしましたが相手にしてはもらえませんでした。彼女は悲しみのあまり姿を失い、声だけの存在になったと言います。
これを知った女神ネメシス怒り、ナルキッソスに呪いをかけてしまいます。彼は水面に映る自分の姿に恋をしてしまうのです。ナルキッソスはそのまま水の中の美少年にの姿から離れなくなってしまい、痩せ細って死んでしまいます。そう、水辺に映るスイセンに変わってしまったそうです。
このギリシア神話は自己陶酔する人を意味する「ナルシスト」の語源となりました。また山びこやこだまを意味する「エコー」はナルキッソスに恋をした「エーコー」が起源となったそうです。
水辺にすむ仙人をたとえて「水仙」と書きます。
悲しい水辺の物語を伝えながらうつむき加減にに今日も綺麗な黄色い花を咲かせています。
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戦国の茶器 九十九茄子

2021-08-14 21:45:12 | 昔々の物語

 今日は八月の十四日。お盆の期間であるがそもそもお盆とは「盂蘭盆会」といいお釈迦様の弟子、目連があの世で苦しむ亡き母を救うため、お釈迦様の教えの通りに供養して成仏することができたという逸話に由来する。ご先祖様が迷わずかえって来られるよう迎え火を焚き、最終日には送り火を焚いて見送る。

 ではこうした風習が一般に広まったのはいつのことか。

室町時代、八代将軍足利義政のころ守護大名の勢力争いから応仁の乱となり、長く戦場となった京都は荒廃し、治安も乱れた。義政は京都東山の山荘に隠居し、義満の金閣に倣って、慈照寺を建立する(銀閣)。銀閣をたてるのには七年の歳月がかかり、財政難から銀箔を施すこともできなかったという。

しかしながら、質素で幽玄の趣の強い銀閣は、当時の武士、僧侶、貴族の暮らしに根づき、今日の和風文化のもととなったという。

そうした多様性に富んだ文化は、現在にも伝わり、その生活習慣の一つが祖先信仰である盂蘭盆会となって残っている。

茶をたてる風習というのもこの時代が元となっていて、侘茶は元々は茶の味を飲み分けて賭け事としたことに由来する。始めたのが村田珠光でのちの堺で大成させたのが千利休である。(茶道)

 その開祖ともいえる村田珠光が九十九貫で購入したというのが「九十九茄子」

足利将軍家から松永久秀、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康へと受け継がれた天下の名器とされる。昨年の大河ドラマでは、松永久秀は名器「平蜘蛛」を信長に譲ることを拒み、盟友明智十兵衛へ預けた様子が描かれていた。

久秀はこの九十九茄子を一千貫で手に入れ、信長に献上したと伝わる。本能寺では焼け跡から拾い出されて、秀吉へと渡っている。その後天下を取った家康へと渡り、明治維新後には三菱の創始者である岩崎弥太郎の弟弥之助へと受け継がれている。興味深いことに現在でも三菱にゆかりのある美術館に現存している。

まさしく日本の歴史の中心に置き継がれた名器であろう。

 

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