忍領藤間の地は、見沼代用水の東側にある低地であるが、古くは「当間」と書いていた。柳田国男によれば「トマン」のンを省いた表現でトマンとはアイヌ語で沼、湿地を表している。こう記すともっともらしく聞こえるが、地名の由来にアイヌ語を引用することにどれだけの信憑性があるかは不明である。
現在でも数本の用水路が北西より南東へと流れ、雨量が多いと時に溢水に遭うというが、そのおかげで農地としては肥沃な土地柄であるという。
口伝に「藤間さんまで米の飯、小針は焼びん(あまり飯にうどんや味噌を混ぜて焼く)」などといったらしい。こうした土地の作柄を伝える表現は多く、例えば忍領西部では「前谷は持田の悪田」などと云ったのも残っている。水路に恵まれることは洪水の恐れもあるが、稲作には向いていたのだろう。
小字に一ノ口、二の口といった名が残り、当地は五の口稲荷神社であった。今でも氏子はお稲荷様と呼んでいるという。一方一ノ口には雷電社があり、風土記稿によれば両社とも真言宗花蔵院持ちであった。花蔵院も今はなく、真名板に残っているのは薬師堂だけとなった。本殿東にあるのが雷電社の旧社伝であるという。明治期に神仏分離によって寺の手を離れ両社を合祀し、社名も藤間神社と改めたという。故に御祭神は宇迦御霊神。
太平洋戦争開始前の戦勝祈願の燈篭が残る。昭和14年といえばまさに第二次大戦の始まった1939年。日中戦争勃発の二年後のことだ。この年の十月に私の母はこの世に生を受けている。教科書の年号を追っているだけでは歴史を身近に感じることはできない。こうして地元の神社を巡ることで、近代の歴史に直接触れることができるように思う。
鳥居の脇に建つ弁天様。水神である弁財天を祀っている。
十月十四日の大祭には灯篭が納められ大正期までは「藤間遊楽団」と称して万作踊りや芝居を奉納したという。また講社も榛名、宝登山、浅間講などがあったが、世話人の引き受け手がなくなると、自然に消えてしまったという。
地方の旧村社の多くは、明治以降こうした歴史をたどってきたと言える。神仏分離、村社への合祀、戦時の国威発揚と戦勝祈願。戦後復興のよりどころと、祭の娯楽化。氏子共同体の講社の結成。高度成長と個人主義化。世話人の継承断絶。講社の衰退。祭りの簡素化。
こうした流れを変えるには、神社本来の意味をもう一度捉えなおすことから始めるべきではないか。度重なる自然災害に続き、未曽有のウィルス感染に国中が揺れている。
星川の流れに春の訪れを感じながらそんなことを考えている。