皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

行田市 藤間神社

2020-02-29 22:58:24 | 神社と歴史 忍領行田

 忍領藤間の地は、見沼代用水の東側にある低地であるが、古くは「当間」と書いていた。柳田国男によれば「トマン」のンを省いた表現でトマンとはアイヌ語で沼、湿地を表している。こう記すともっともらしく聞こえるが、地名の由来にアイヌ語を引用することにどれだけの信憑性があるかは不明である。

 現在でも数本の用水路が北西より南東へと流れ、雨量が多いと時に溢水に遭うというが、そのおかげで農地としては肥沃な土地柄であるという。

口伝に「藤間さんまで米の飯、小針は焼びん(あまり飯にうどんや味噌を混ぜて焼く)」などといったらしい。こうした土地の作柄を伝える表現は多く、例えば忍領西部では「前谷は持田の悪田」などと云ったのも残っている。水路に恵まれることは洪水の恐れもあるが、稲作には向いていたのだろう。

小字に一ノ口、二の口といった名が残り、当地は五の口稲荷神社であった。今でも氏子はお稲荷様と呼んでいるという。一方一ノ口には雷電社があり、風土記稿によれば両社とも真言宗花蔵院持ちであった。花蔵院も今はなく、真名板に残っているのは薬師堂だけとなった。本殿東にあるのが雷電社の旧社伝であるという。明治期に神仏分離によって寺の手を離れ両社を合祀し、社名も藤間神社と改めたという。故に御祭神は宇迦御霊神。

太平洋戦争開始前の戦勝祈願の燈篭が残る。昭和14年といえばまさに第二次大戦の始まった1939年。日中戦争勃発の二年後のことだ。この年の十月に私の母はこの世に生を受けている。教科書の年号を追っているだけでは歴史を身近に感じることはできない。こうして地元の神社を巡ることで、近代の歴史に直接触れることができるように思う。

鳥居の脇に建つ弁天様。水神である弁財天を祀っている。

十月十四日の大祭には灯篭が納められ大正期までは「藤間遊楽団」と称して万作踊りや芝居を奉納したという。また講社も榛名、宝登山、浅間講などがあったが、世話人の引き受け手がなくなると、自然に消えてしまったという。

 地方の旧村社の多くは、明治以降こうした歴史をたどってきたと言える。神仏分離、村社への合祀、戦時の国威発揚と戦勝祈願。戦後復興のよりどころと、祭の娯楽化。氏子共同体の講社の結成。高度成長と個人主義化。世話人の継承断絶。講社の衰退。祭りの簡素化。

 こうした流れを変えるには、神社本来の意味をもう一度捉えなおすことから始めるべきではないか。度重なる自然災害に続き、未曽有のウィルス感染に国中が揺れている。

星川の流れに春の訪れを感じながらそんなことを考えている。

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野 久伊豆神社

2020-02-28 22:48:17 | 神社と歴史 忍領行田

 行田市の南端に位置する野は「風土記稿」によれば広い野原であったことを意味し、江戸期の慶長年間(1611~)に開発され「野村」と称したという。天台宗正覚寺持ちとして、村鎮守は近くの野氷川神社であった。

 鴻巣市く屈巣と隣接し、忍領最南東部にあたることから、戦国期には忍、騎西、岩槻と度々所領が変わったことから、戦の度に被害を受けた。よって忍の城主は戦に備えて、野村の道をわざと迷路のように屈曲させたという。記録にはないが、現在でも舗装路は曲がりくねったところが多く、当時を偲ばせる。

西向きの社殿は社務所の様な造りになっており、インターネット地図の検索に乗っておらず、地元の人でななければ、神社までたどり着くのは難しい。また御祭神は大己貴命。本殿内に雷電社が合祀されている。

 口碑によれば御祭神はせっつさま(久伊豆様)の鎮まるところを「中耕地」と呼ぶ。これはせっつさまあが情け深く面倒見のよい神様で耕地内でもめ事がなかったからだという。また同じく中耕地の万願寺は妻沼の聖天様の本家で仲が良いともいわれていたらしい。

文久二年には正一位久伊豆明神の神階を受けている。

祭りは年四回行われ、元旦、丑寅、フセギ、ササラと数える。

丑寅は三月初巳に当たり、志を持って神社に集まり御神酒を頂く嵐除けの意味を持つという。

フセギは七月二十日で土用祭。辻札を立てて直会を行う。ササラは十一月の新嘗祭で、近くの諏訪社、氷川社、万願寺を廻る。

合祀されている雷電社は古くは雨乞い神事があったという。板倉雷電社、榛名社、三峰などの講社もあったというが現在では行われているか不明である。

成田氏が忍城居城後、鬼門(丑寅)に長野久伊豆神社、裏鬼門(未申)に大宮神社(久伊豆社)を祀ったことは城の守りとして知られている。一方で忍城築城以前から成田家の祖先が祀った皿尾久伊豆大雷神社は忍城の戌亥(北西)に当たり、その対方向は辰巳(南東)であり、そこに同じく久伊豆神社と雷電社が合祀されているところが非常に興味深い。偶然ではなく城鎮守として配置されたとみるほうが自然である。

 野の鎮守は氷川様ではあるが、忍城が落ちなかった守りの要が四つの久伊豆社とすれば、この地の久伊豆様の意味合いは忍の歴史に於いて重要なものと考えられるだろう。

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弥生を前に桜を植えました

2020-02-28 22:09:04 | 生活

三月を目前に控え、入試も大詰め、卒業式の準備と学校生活も年度末まとめの時期に差し掛かったところ、昨日全国の公立小中高校に対して休校を促す要請が政府から発表されました。連日ニュースは新型ウィルスの感染状況と社会的混乱を伝えるばかりです。勿論正確な情報を把握し、一個人としてまた社会人として知るべきこと、それに伴い取るべき行動はあると思いますが、今のところ自分や家族が感染から身を守ること以外に推移を見守ることしかないように思います。

 突然の発表となったことは当然それだけ事態が切迫しているとのことなのでしょう。こうした事態はこれまでなかったことですので、やはり戸惑う面が多いように思います。9年前の東日本大震災や昨年の大雨による洪水被害など近年「今までになかった」と思われる事態が自分の身の回りに起こりつつあることは肌で感じています。但し歴史は繰り返すの言葉の通り、長い歴史を振り返れば、人の力の及ばない災害や病気の蔓延はこれまでにもあったことは確かです。

 中学2年の娘クラスではは突然の学校閉鎖、休校の事態に修了式を待たずして一年間のクラスの仲間との別れを惜しみ、涙する生徒が多かったそうです。突然の別れを経験することで人はまた成長することもあり得ます。それだけ日々懸命に生きている証です。

 良いことも悪いことも、自分なりに向き合い、受け入れ、前にすすむ。そのために必要なことは覚悟と時間かもしれません。

 20年後、今年の春の出来事を思い出すように、神社の参道に2本の桜を植えました。今年も来年も、そしてその先もずっと穏やかで暖かな春が訪れることを願って。

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アイノカタチ

2020-02-18 23:53:09 | 心は言葉に包まれて

あのね いつのまにか 気づいたんだ 愛にもし カタチがあって

それがすでに わたしの胸に はまってたなら

きっとずっと 今日よりもっと あなたのことを知るたびに

そのカタチはもう あなたじゃなきゃ きっと隙間を作ってしまうね

あのね 大好きだよ あなたが心の中で 広がってくたび

愛が溢れ 涙こぼれるんだ

昨年、一昨年とこの唄を紅白で歌い上げている。昨年に至っては紅組のトリを務めていた。その時の緊張した様子を年明けのNHKラジオ「星空のラジオ」で語っている。舞台袖では直前までトリの経験者である坂本冬美さんが手を握って応援してくれたらしい。

これから沢山の 泣き笑いを 知るたびに増えていくの

飛び出たとこ へこんだとこ 二人になってく

時にぶつかりすり減って そしてまた 埋めあっていけばいい

大好きなあなたが そばにいないときに ほら胸が痛くなって

あなたのカタチ 見える 気がしたんだ

作詞作曲はGReeeeN ドラマの主題歌にもなっている。

初めて武道館のライブを見に行った際、彼女は「大事な思い、心をカタチにして、言葉にして、自分にとって大事な人に伝えていくことが大切」と話していた。

あのね 大好きだよ 何万回も 伝えよう 温かく増えた想いは

全部 アイノカタチ です

ずっと ずっと 大好きだよ あなたが心の中で 広がてくたび

愛があふれ 涙こぼれるんだ

星の数ほどの ただ一人のあなたが 心にいるんだ

あのね あのね ずっと大好きだよ 

大好きだよ ああ ありがとう

 

 

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幸手宿 一里塚跡

2020-02-18 23:16:08 | 史跡をめぐり

『風土記稿』によると「幸手宿は田宮庄と唱え、古くは田宮町と号す既に正保二年(1645)国図等田宮町と記し薩手と傍記す」とある。幸手の地名は一説にアイヌ語の「乾いた原野」とあるが詳しくはわからないという。仲町、荒宿、右馬之助町、久喜町、牛村を合わせて「田宮の町」と呼び幸手と通称していたという。

 一方で日光街道整備前から幸手は利根川水系による河川船運と鎌倉街道の人の往来で交通の要所として栄えていた。中世においては古河公方の重臣幸手一色氏と縁が深く、軍事的にも重要な場所であった。

 慶長九年(1604)徳川家康により五街道が整備され、主要街道には一里塚が築かれる。日本橋を起点として一里(4km)ごとに五間(9m)の四方の塚であったという。また塚には榎を植えて目印にしていた。榎は根が深く広がり塚が崩れることを防いでいた。

一里塚は重要な路線標識で荷役人の賃金計算の元になったという。戦国乱世から泰平の世に移り変わるうえで、戦支度よりも経済優先の政策に変化しているのだろう。

幸手宿は江戸期には本陣、脇本陣に加え旅籠27軒を抱える日光街道三番目の規模を誇り、将軍家による日光東照宮参拝の道である日光御成道との結節点に当たり、宿場町として大いに栄えたという。

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