皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

佐間学校跡

2022-05-26 22:07:07 | 行田史跡物語

明治二十二年(1888)成田町、行田町、佐間村が合併して『忍町』となり妙音寺にあった埼玉村との組合立の温知学校を廃して天神社社務所に忍第三教場を開校し明治二十五年より佐間尋常小学校として四十一年三月まで独立校としてあった。
建立地 佐間天満天神内

佐間天神社は享保五年((1720)京都吉田家から神位を与えられ正一位天満天神社と号した。
『忍名所図会』等によれば社殿の創建は文化十年(1814)八月二十五日再建とある。

享保五年は阿部家四代阿部正喬(まさたか)は若いころ大変粗暴で、侍講である三宅尚斉が進言した折、家臣らと共三年ほどに獄に入れたという。正喬は壮年になってこれを大いに恥じ、尚斉に深く詫びて学問に励んだという。
 老中の職務を終え忍に帰城することが多くなり、学問の神である天神社を大事にしたという。
明治六年佐間村ですでに寺子屋を開いていた妙音寺をそのまま『佐間学校』として用いることにした。当時佐間村の財政では小学校を運営する余裕はなく、埼玉、利田、渡柳、佐間との四村で組合立の小学校とした。町村制が敷かれ佐間、成田、行田町が合併し『忍町』となったのは明治二十二年(1870)。明治二十五年に小学校令改正に伴い佐間尋常小学校となり、大正四年行田尋常小学校今津印刷所裏に新築されるまで天神社内に佐間学校として存在したとされる。
令和四年には中央小学校と星宮小学校が合併し『忍小学校』が開校している。
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須賀城跡

2022-01-17 21:17:45 | 行田史跡物語

忍領行田市内には、三大城趾があることを知る人は少ない。
ひとつは言うまでもなく、戦国期最後まで豊臣方の猛攻に屈せず、落ちなかった城とし名を馳せた成田忍城。
更にはその成田忍城の支城として、またある時期は敵対する羽生城の出城として成田を追い詰めた皿尾城。
そして利根川堤に沿うようにその姿を失いつつもその歴史を今に伝える須賀城である。
いまでこそ忍城は三階櫓を復元し、堀を起こし堤を築いて当時とはまた違った形で城らしく立派な姿をなしてはいるが、少なくとも私が中学二年時までは「本丸球場」と言う名の野球場があって、城の姿など全く想像もつかなかったのである。

『吾妻鏡』承久三年(1221)伏見宇治橋で奮戦したことが出ている須賀弥太郎の末裔、須賀修理大夫が忍の成田の家門侍として天正年間に(1550年頃)館を築き、『成田記』に須賀城とある。地形文書にこの一帯と推定される
昭和54年3月 建立 行田ライオンズクラブ 協賛 川島清

吾妻鏡の宇治橋合戦の項には行田ゆかりの武将が多く記されその中に須賀弥太郎、行田兵衛尉、鴛四郎太郎、成田兵尉、五郎太郎とある。
鎌倉殿の13人の時代にかの地で行田周辺の豪族たちが東国から出向いて戦ったのは史実であろう。
それから三百年、天正期忍城が勢力を伸ばした頃、上杉謙信は忍城を攻め、須賀には家門侍として須賀修理大夫が須賀城を築いたと『成田記』に記されている。
天正17年(1589)豊臣軍が関東攻め行った際成田家当主氏長は小田原にいた。石田三成軍が館林から利根川を渡って忍城に向かうとき、川俣から忍領内に入るときには須賀城を焼き、須賀軍は忍城内へと軍を移している。
焼けてしまった須賀城がどこにあったかは定かではないが、現在の長久寺一帯と須賀小学校を城趾として考えるのが妥当とある。
須賀は州加から転じた地名と考えられる。利根の流れに翻弄され、またその水の恵みと共にあった土地だ。
残念ながら須賀小学校もこの春で合併閉校となる。長久寺は堤防の護岸工事にともない一部墓地の移設設置が行われている。
時代と共に須賀城はその姿を変え人々の心にその勇姿を伝えている。
小学校の体育館前に立ち並ぶ墓石に手を会わせながら、この地に生きた人々の思い寄せる、師走の穏やかな午後だった。
(令和三年12月16日登拝)
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忍城 八軒口御門跡

2020-01-27 22:40:29 | 行田史跡物語

『新編武蔵風土記稿』編纂のため幕府に提出された文政三年(1820)の書上帳によれば、天文年間の成田氏時代から忍城下は「行田町」として栄え、町屋が点在していたという。元々成田氏の拠点は現在の熊谷市上之であり、忍入城の際一時期居を構えていたのが皿尾村であった。

 成田氏は築城に際し近隣の一族である別府、玉井、奈良氏はもとより後の家臣となる酒巻、須賀、中條、久下といった近隣諸氏の助力を得て水路を開き、良田を整備し農地を尊重することで、各地からの人望を集め、結果として行田町周辺に人が集まるようになったともとも伝えられる。現在の愛宕社の周辺に集落ができ、城に対して「下町」と呼ばれるようになったという。

城と下町の往来が盛んになると中間の新町二丁目あたりに家が建ち「八軒」と呼ばれるようになった。天文十三年(1544)には市が立つようになり、当初は下町と新町の路傍で開からていて市神は下町天王社であったという。

時の城主成田長泰はその八軒を栄えさせるため、武運の神八幡神を向町の田中から現在の地に移したので「田中八幡」と呼び「城主八幡」として祀ったことから忍城に向けた「西向き八幡」となったと伝わる。天文五年(1536)年のことで、このころ新しい町がなったことから現在でも新町と呼ばれるゆえんであるという。

現在「八軒口御門跡」は天満稲荷神社の前に建っているが天満ができたのは八軒よりあとのことであるという。

一方そのころ羽生城城主となる広田直繁と河田谷忠朝(後の皿尾城主)兄弟は羽生の地盤固めとして、同じく天文五年に羽生領総鎮守である小松神社に「三宝荒神御正体」を寄進している。両陣営が領地を巡って皿尾城の地で激突するのはその約四半世紀の後、永禄五年(1562)のことになる。

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忍藩 代官所跡

2020-01-20 21:04:40 | 行田史跡物語

上町愛宕神社入り口鳥居の右に建つ「代官所跡」。昭和五十三年市議会議員一同の名で建てられている。

 忍藩の領地は行田一帯に限らず、秩父、影森、定峰などの秩父領、皆野、風布等の鉢形領、別府、東方の柿木領、そして遠く播州(兵庫県)に四郡七一か村、伊勢領(三重県)と各地にあったため、それらの年貢の取り立ては大変であった。帳簿も膨大で代官所で整理したといわれている。要するに当時の代官所は領地数百か所の登記所としての機能を果たしていた。また税収を確保する税務署でもあったのだという。そうした膨大な業務を下級武士二十数人で果たしていたのである。当時としても相当な激務であったことが想像できる。

 

代官所のあった通りを「北谷通り」といい、古く鎌倉時代から開けた場所であったという。八幡太郎源義家が奥州征伐の際行田を通ったのはこの道と伝わり、北条時頼(時頼の父)は佐野源左衛門出会い、鎌倉へ帰ったのは白川戸からこの道を通ったともされる(鉢の木物語)。

 西行法師は平泉の藤原秀衡を訪ねる際、埼玉の前玉神社に泊まって、翌日ここを通って白川戸から利根川を渡ったともいう。

「足袋蔵の町行田」日本遺産を記念し石畳として舗装されたこの「北谷通り」は数百年に渡る忍の行田の昔話を今に伝えている。

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忍城 大樋跡

2019-08-21 22:08:55 | 行田史跡物語

 行田市谷郷にある『大樋跡』。市内52か所に及ぶ忍城史跡の中でも一際人の目に付きにくい場所に建っている。行田市総合運動公園前に広がる水田の水路脇にあり、通りにむかって建っておらず、西向きに設置されているためか近くを通ても見過ごしてしまう。

 谷郷の地名は古く中世には谷村、谷の村と書き、その後「谷之郷」とそばれ江戸期後半になって「谷郷村」と称した。「谷」とは低湿な地の意味で、そこに家々が立ち並んでできたことから谷之郷と呼ばれるようになったという。慶長年間(1596)には一八二五石の米が取れたという文献があるという。戦後団地や新興住宅地が増えたが、現在でも春日神社の北西は緑の田んぼが広がっている。

十四代成田顕泰(あきやす)が文明年間(1496-1486)に忍城を築城したと推定されているが、築城に際し農民擁護と新田開発を考慮し、忍の地形を生かして一大貯水池を城の守として縄張りしたという。戦時には自然の水の要塞として機能し、平時には貯水灌漑に利用するという斬新な発想は周囲の豪族たちの協力を得やすかったと考えられている。

星川、利根川の水をこの大樋に集め、第一の貯水池北谷沼に入れ、それを荒井沼と行田町北側に分水し、次に内行田に入れて大沼にため、佐間の天満宮西の樋から沼尻に放水したという。

よってこの谷郷の大樋を締めて、佐間の天神樋、持田側の沼尻樋を開ければ忍沼は干上がり「干沼」となってしまうことから、浮き城の名で馳せた忍城の秘密を握る重要地であった。

十五代成田親泰はこの大樋を隠すために藤原氏の氏神である奈良の春日神社を勧請して谷郷の地に祀ったという。

十七代成田氏長は学芸を愛し連歌の道で歴史に名を遺すほどであったという。天正十五年(1587)氏長は谷郷春日神社へ参拝し武運長久を祈願するとともに拝殿において連歌を奉納している。

むすへ猶霜の花咲神の春      氏長

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