皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

天高く未来へとつなぐ幟と共に~令和五年例大祭の記憶~

2023-08-24 21:42:55 |  久伊豆大雷神社

令和五年皿尾久伊豆大雷神社例大祭が執り行われました。と言ってもすでにひと月以上が過ぎています。この間大祭の様子をブログに記そうと思いつつ一日一日と過ごしてしまい、行田浮き城祭りが過ぎ、お盆を終え、兼務社の夏祭りなど日々流されるばかりだったように思います。時間は大事だといいますが、その時のその思いを記していかないと人生の終着点もすぐに来てしまいそうです。

令和二年、三年、四年と三年間コロナ禍で祭祀も縮小しておりましたが、本年は多くの氏子さんの参列の元、コロナ前に近い祭事となりました。これもひとえに大神様の御神徳であるとともに、氏子さんの想いが形になった証です。その思いとは地元のお社に幟を立てようというものでした。平成二十六年頃を境に、古くなった幟の修復が難しくなり、高齢化も伴って旗を上げることをやめてしまっていました。ここ数年祭りやそのほか人が集まった際に、「幟を上げよう」といふ気運と声掛けが高まっていました。本年三月祈年祭にて氏子全戸へ寄付の呼びかけがなされ、結果多くのご寄付を頂戴することとなり、立派な幟を奉納いただく運びとなりました。現在奉納者名簿を木枠にして本殿に奉納する作業に入っています。

本年の子供神輿の参加者は子供四人です。これが過疎地域の現実です。それでも神輿は渡御できました。青年部の皆様のおかげです。

当社には室町時代の工芸品である「鰐口」が伝わりその年記が読み取れ、武蔵風土記稿にも記載があることから、平成十一年に市の有形文化財指定を受けています。普段は行田市郷土博物館に寄贈委託されているところ、博物館の学芸員である岡本夏実先生にお願いし、館外公開という形で神社本殿に展示していただきました。展示設定と特別解説パネルを作成いただいたのは同じく郷土博物館の澤村先生でした。

本年から私自身も行田市郷土博物館友の会の役員を拝命し、郷土文化の保持継承のお手伝いをさせていただくようになりました。今回の社宝鰐口の展示はこれからの私の取り組みの第一歩だと思っています。

受け継いだ宝を生かし、伝え、継承する。そのためには人との縁がなければできないことをここ数年で学びました。

氏子さんは勿論、御来賓として大祭にご参列いただいた行田邦子市長様にもご覧いただきました。

行田市長様は選挙公示前のごあいさつで当地においでいただき、祈年祭で玉串奉納いただいたときからのご縁です。というのも地元自治会長が同じ東北のご出身で、長くこの皿尾でお過ごしになっており、昨年度から自治会長を務めていただいています。まちづくり、村づくりは全て人とのご縁でつながることを改めて感じます。

深谷濱岡屋の岡部様、本年も御供物を奉納いただき誠にありがとうございました。皿尾地区の煉瓦水門は明治の初期に作られた治水門で深谷の煉瓦が使われています。皿尾地区の水田は深谷の煉瓦のおかげで開かれたのだとおもいます。

昭和六年の社殿幕が使われています。今の本殿ができたのもこの年です。西暦では1931年。歴史の教科書では満州事変の年です。

本年奉納された蓮四株。行田蓮の大使木暮照子先生にご奉納いただいています。桜の咲く頃、御主人様である木暮桂先生と手を泥だらけにして植えたのが昨日のことのようです。処暑を過ぎて尚、白光連が凛々しく咲いています。

当ブログにお越しくださる皆様に感謝申し上げます。ご縁を頂いた皆様のおかげで今日を生きています。家族とともに毎日を大切にこれからも歩いて参りたいと思っています。

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十四節気 処暑

2023-08-24 21:20:08 | 生活

昼間の暑さはまだまだ厳しいものですが、朝晩の空気は涼やかで長かった暑さの峠も超えたように感じます。

「処」とは止まるといふ意味があり季節が入れ替わる頃を表します。

蓮の花の季節も終わりますが、「白光蓮」が最後の一輪を気高く花開かせていてその生命力に驚かされています。

稲穂も実り頭を垂れるまでになりましたが刈り入れまではもうしばらくかかりそうです。こうなってくると台風の到来がいよいよ恐い時期になります。毎年立春から数えて二百十日目と二百二十日目を農家の厄日として雑節として暦に記します。台風の特異日です。

当社においては末社の一つに風神社をお祀りします。御祭神は志那都比古命(しなつひこのみこと)。伊邪那岐、伊邪那美との間に生まれた風の神様です。ほかの末社には幣束を入れる社殿に扉がありますが、風神社にはありません。常に風を受けているのです。

 

 

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みかんの花咲く丘 加藤省吾顕彰碑

2023-08-08 22:20:08 | 史跡をめぐり

みかんの花が咲いている

思い出の道 丘の道

はるかに見える青い海

お舟が遠くかすんでる

 加藤省吾作詞 「みかんの花咲く丘」より

多くの日本人は子供のころこの歌を聞きまた口ずさんだことだろう。少なくとも私たち世代では(50代)

昭和二十年五月作詞家加藤省吾は両親の住まいがあった深谷市本住町に戦争疎開している。この「みかんの花咲く丘」はここ深谷の町で作詞されたといい、故郷の静岡の海に思いを馳せた詞なのだという。

戦後の困窮と混乱の時代に「リンゴの唄」と「みかんの花咲く丘」は多くの日本人の琴線に触れ美しい当時の日本の人々の心を歌い上げているとこの顕彰碑はたたえている。

故郷は遠きにありて思うもの

加藤省吾氏の足跡を称え、顕彰碑ができたのは平成四年のこと。三十年前にはまだこうしたに戦後日本の復興に対する気概というか、志が多く残っている。

失われた三十年。豊かさを失い、美しい心さえもどこかに置き去りにしてきてはいないか。

物理的な豊かさは数年で取り戻せるかもしれない。しかし先人や足跡に対する敬意の念は忘れれると容易く取り戻すことはできない。

石に刻まれた詩を見つめながらデジタル社会の危うさを憂いている。

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深谷城址と富士浅間神社

2023-08-08 21:24:28 | 神社と歴史

日本近代資本主義の父渋沢栄一翁の故郷深谷市。市の中心部には深谷城址が静かにたたずむ。深谷城は康正二年(1456)深谷上杉氏である上杉房憲が築いたと伝わる。鎌倉公方、古河公方との覇権争いに加え北武蔵の山の内、扇谷上杉の氏族の争いが絡み合って、争乱の歴史の中にあった。唐沢川、福川などに囲まれた低湿地に築かれた平城であるという。低湿地の要塞と言えば忍城が思い浮かぶが利根川、荒川流域に近く平地でありながら水の恩恵を受けていたのだろう。天正十八年開城以降は寛永年間に酒井讃岐守忠勝が城主となり、同四年河越移封となり深谷城は廃城となっている(1634)

現在深谷城の遺構とされているのが城鎮守であった浅間神社周辺の外堀とされている。

浅間神社とされるが、内陣に収めた祝詞に「正一位智方大明神」と記されているように本来は智方神社であったという。明治初期の神社混迷期に富士浅間社と改めた歴史があるが、深谷城築城前から当地の氏神として祀られた千方神社であったという。

千方神社は北武蔵の加須、羽生領に多く見られ藤原千方を祀る神社である。藤原千方とは平将門の乱を鎮めた藤原秀郷の六男に当たり、武勇と治世に優れた人物であったという。藤原秀郷は武蔵守に任じられ以降子孫は東国に繫栄している。その一つが下野の小山氏であり古代当地もその支配下にあったのだろう。

深谷城の祈願所として信仰された千方神社であったが、寛永十年(1634)の廃城以降は本住町の鎮守として祀られている。境内に天保十四年と安政三年の石灯篭が残り「部屋頭清五郎・佐吉」と記される。現在の町内頭に当たるという。

現在千方の名称は鎮座地の字名に深谷市大字深谷字知形のと残すのみである。

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蓮田市根金 稲荷神社と芥川龍之介自筆撰文碑

2023-08-07 23:13:42 | 史跡をめぐり

蓮田市根金はかつて根金村・根金新田村の二村でいずれも元禄十一年(1696)閏戸村から分村し成立している。このうち根金新田村は足立郡別所村(伊奈町小室)の九十郎によって開発されたという。口碑によれば当社の創建はその九十郎が別所村の稲荷社の分霊を勧請したもので、当初はその子孫である内村家の氏神であったものを村人が信仰したことから村の鎮守となったと伝わる。

本殿内陣には鎌と稲把を携えた稲荷大明神像が奉安されている。神像を納めた厨子の底部には「天明三年九月(1783年)奉納稲荷本地十一面観音武州埼玉郡岩槻領根金新田村」との墨書きが記されていて、往時は本地物である十一面観音像であったことがわかる。

鳥居脇に石碑が建っているが、これは明治の文豪芥川龍之介の撰文自筆の石碑として貴重である。当地出身の関口平太郎氏を顕彰する碑文で、当時氏と芥川龍之介の親交が深かったことがうかがえる。文豪として名を馳せた龍之介があんま業を営みながらも東北の飢饉や地元の学童のために寄付を続けていた関口氏に深い敬意を払っていたのだろう。二十代半ばから龍之介がその生涯を閉じる三十五歳まで続いたという。大正六年この地の氏子が発起人となり顕彰した際、龍之介は快く自選自筆を受けたのだろう。

意外なところに自国の文学者の足跡は眠っている。足跡を辿りながら文豪の想いや、人とのつながりを知り伝えていきたいと願っている。

 

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