皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

水と共に生きる

2022-07-17 22:44:30 | 生活

6月の梅雨明け猛暑から一転、七月に入って梅雨前線の南下、低気圧の停滞が重なり連日の激しい雨に見舞われている。「戻り梅雨」というのが本当にあるものだとは今年初めて知った次第だ。雨が上がっても、各地の降水量の影響か、市内を流れる忍川の水位が上がり、佐間水門を解放する胸の連絡が流れてきた。現在夜の10時を回っている。
激しかった雨も上がり東の空には大きく美し月が昇り、きれいな星も見られるのに、限度を越えた雨は時間が過ぎても各地に影響を見せている。こうした治水に関する注意警告は数年前なら九州や西日本の一部であったように思うが、ここ数年で利根川や荒川といった埼玉の一級河川に二まで影響を及ぼしつつある。

雨が上がれば美しい虹もかかる。田んぼかかる壮大な虹は見る人を魅了するが治水を考える上で重要なのは:-大きな河川の堤防より耕地面積の多くを占める田んぼの役割であろうと思う。
天然の貯水地の役割を果たしていることは言うまでもないが、こうした田んぼの維持管理が年々放棄されつつあることから殆どのひとが目をそらせているのが現実だろう。
過疎化が進行してもこの稲作文化だけは守らなければならない。先人の残した豊葦原瑞穂国としての歴史は紡いでいかなければならない。
激しい雨と美しいに虹。そして緑に映えるその風景が私たちに訴えかけている。
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羽生市 下新郷天神社

2022-07-17 21:42:46 | 神社と歴史

羽生市新郷は日光裏街道の通る利根川沿いの交通の要所にある宿場町であったそうで、五十日(ごとうび)には六斎市が立つ商業のまちであったという。賑わいのあった上新郷の鎮守が愛宕神社で、田園地帯を行田方面に抜ける地域が下新郷に当たる。古くは会の川の自然堤防があったところで、現在は国道125号バイパスに多くのトラックの往来がある交通量の多いところとなっている。

社記によれば「新井美成なるもの中国勝地に参拝し、本村中耕地に小池あり、十七日祈祷するところ菅公の霊状を夢見種々の奇端在りしを歓喜して自ら社殿を勧請鎮守と崇敬せり」と記されている。本殿に安置された天神座像底部には 「武州忍領下新郷大光院講中寄進享保十四年」の墨書きが残る。

古くから学問の神として信仰され、受験や入学等の学問成就の願いが絵馬にかけられる。現在でも地域の子供会がこうした絵馬の奉納を続けているようで拝殿南の絵馬かけには子供たちの願いがそれぞれ納められていた。

社殿正面の編額には天神社ではなく菅公の名が記されている。天神様は御霊信仰から始まっており、祭りを好まないことが多い。疫神避け信仰の八坂様と対照的である。当社でも正月、春秋のお日待ちの参列はあるが余興は一切行われなかったという。また口伝に芝居をすると大雨が降るとも伝わる。こうした伝承は東の愛宕社にも残っているそうで、祭日も定められていないそうだ。

境内入り口の石灯籠は昭和七年奉納で、日露戦争後の国威掲揚時に奉納されている。この様式の明神鳥居は各地に見られ、当時の様子が伝わって来る(私の本務社にも残っている)

昭和の古きよき時代に整備されたであろう境内地の様子が現在も変わることなく見ることができる。氏子の世話がよく行き届いているようで感心する。恐らく昭和の高度経済成長の頃に新興住宅が増えた場所で、当時は子供たちが境内で遊んだであろう様子が見てとれる。
羽生市の中心からは遠い地区で行田市の下須戸地区と隣接するが、古くは同じ忍領であり、天神信仰のもと子供の教育に熱心であったことがうかがえる。時代が変わっても子供の教育に地区社会で向き合うことの重要性を見るようで、地域の神社の役割をいまに果たしていると感じてならない。
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小暑 初候~温風至

2022-07-09 20:26:17 | 生活

温風至(あつかぜいたる)。今年は例年になく早い梅雨明けと水無月の異常な猛暑によって季節感が前倒しに感じてしまいますが、本来であれば夏の暑さが本番を迎える時期に入ります。南から暖かく湿った空気が吹き込み、本格的な夏の到来を感じる季節です。
南風にも呼び名がついているようで、梅雨入りの頃に吹く風を「黒南風(くろはえ)」、中頃に吹くの「荒南風(あらはえ)」、梅雨の終わりに吹く風を「白南風(しらはえ)」と呼びました。
この時期は白南風により湿った空気が流れ込みやすく、それが上昇して山のように立ち上がり積乱雲を生みやすくなります。雷雲といわれ突然の激しい雨や突風、雷を呼び込みます。
七月十日は功徳日ともいわれ浅草寺ではほおずき市が開かれます。この日にお参りすると四万六千二日分の参拝のご利益が得られると言います。ほおずきや風鈴などが賑やかにお店に立ち並ぶそうです。

スーパーでは多くのスイカが売られています。糖度も高い季節の果実が美味しい季節となりました。

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持田竹之花 天神社

2022-07-05 21:04:02 | 神社と歴史 忍領行田

忍城の北西に広がる持田地区はもとは糯田と書いて、上、中、下地区と菅谷に分かれていた。上、中は剣神社、下は久伊豆神社(大宮神社)菅谷は八幡神社をそれぞれ村社として祀る。当社は上持田地区の剣神社の氏子区内にあり、字名は「竹ノ花」と称す。いまでも近くの忍川にかかる橋に「竹ノ花橋」と名が残っている。
持田は忍川の用水が水田よりも高かったため水利に恵まれた反面、治水には苦労した。同じ竹ノ花地区にある諏訪神社の勧請は古く建久(1190)頃と伝わり成田泰時は延徳二年忍城造営にあたり、城鎮守として竹ノ花から城内へと勧請していることから、忍城下よりもここ竹ノ花地区の方が早くに開けたいたことがわかる。


当社は持田の風雨火水を司る大自在天神すなわち菅原道真公を祀ったものと考えられる。現在の一間社流造りの本殿は昭和36年に立て替えられたものでそれ以前の造営については不明である。氏子は剣神社の境内外末社として当社を祀り、年に一度天神講として祝う。古くは子供のみで祭りを運営し、「子供組」の名残を残していたという。

年長のものが親方として役を受祭事を執り行っていたのは明治期以前には多くの神社で見られたそうで、村の中での共同体の形成を行い世代間で集団形成をする役割を担っていたものと考えられている。現在では自治会の青年部がその役割を担っているが個人主義の進行と少子化によって多くの地域がそうした役割を消失してしまっている。
戦後70年で日本の国力が大きく損なわれてしまった要因のひとつがこうした地域の世代間交流の無さにあると思われる。
地方の神社にはこうした共同体形成の役割が求められているだろう。

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