皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

行田市 野 満願寺しだれ桜 

2023-04-13 14:41:13 | 寺院と歴史

「風土記稿」によれば当地は元より広い野原であって、慶長年間(1611~)開発が進み「野村」と称した。当地は行田市の最東南端に当たり戦国期までは忍・騎西・岩槻など度々領有が変わり、戦のたびに被害を受けている。よって忍の殿様は戦に備えて道を迷路のように屈曲させたと伝わり、現在でも区画整理が入っていない多くの部分でその名残を感じることができる。

満願寺は天正年間宗純和尚をもって中興開祖とし現住職をもって第十九世に当たるとある(境内石碑)この間四百年寺門益々興隆し三千百坪偉容を近隣に誇る。然し文化十年(1827)頃火災にあい御堂のほとんどを消失し、その後再建する。

昭和五十三年弘法大師千百五十年の御遠忌に際し記念事業として墓地の区画、有縁無縁塔の建立、六地蔵尊の移転等を施工する。

宗派は真言宗智山派。

鴻巣市の市境にほど近い、県道77号線からわずかに入ったところに位置するこのお寺には樹齢600年の立派なしだれ桜があります。

天保6年(1835)岩崎長容(ながかた)によって増補された『増補忍名所図会」に「広前に大木の枝垂桜あり、垂縁長くして花のころは優艶なり」と記された銘木で平成19年に市指定記念物となりました。幹の2/3ほどが枯死腐朽しているそうですが樹皮の半分が樹勢を保ち毎年見事な花を咲かせています。

目を開く 心を啓く 道を拓く

美しい花を後世に伝え、この広い野の大地で力強く生き抜いてきた人々の心を感じることができました。    合掌

令和5年4月2日 参拝

 

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熊谷市源宗寺 平戸の大仏

2022-04-25 22:01:40 | 寺院と歴史

熊谷市平戸の源宗寺の開祖は当地の名主を務めた藤井家の祖先である藤井雅楽之助であると伝わります。また源宗寺は官や当時の権力者の寄進を受けずに建立を果たした私寺であるそうで、江戸時代には近村の村々を中心に信仰を集めました。
江戸初期から平戸村の名主であった藤井家。開祖雅楽助は肥前国松浦郡平戸島の出身であったそうです。長崎県沖合島の平戸島の歴史は古く、遣隋使遣唐使のころから寄港とし開け鎌倉後期には元寇の襲来を受けています。中世天文年間にはポルトガル船が来航し南蛮貿易の拠点として発展し、宣教師ザビエルが布教を広げた場所としても知られています。
慶長13年(1608)には検地に来た役人を藤井雅楽助が案内した記録があるそうです。また雅楽助は源宗寺の建立のほかに平戸より住吉大明神を勧請しています。
源宗寺本堂に安置される二体の大仏は江戸中期に制作されています。向かって右が「薬師如来像」(高さ3.48m)左が「観世音菩薩座像」(高さ3.93m)木造寄木造としては埼玉県内最大規模で、全国的にも珍しいといいます。
内陣の蓮華座上に祀られた立派な大仏。薬師如来像は禅定印に手を結び、観世音菩薩座像は左手に持つ蓮華が失われているが両像とも全体の造形美が非常によく維持されています。
昭和三十年頃に確認された棟札には、仏師は頓誉宗円と江戸弥兵衛が担い、漆塗り、金箔押を中村喜平と沼黒村の太兵衛が担当したといいます。
また令和三年十月の調査では薬師如来像内から「寛文三年(1663)仏師松田庄兵衛」の墨書きが発見されています。
二体の大仏の胎内に収められていたとされる「秘伝書」は神経痛などの妙薬として周知され、昭和四十年代までこれを求める人々が絶えなかったといいます。
平成31年に源宗寺改修事業を担う組織として本土修理委員会が始動し、多くの浄財や寄付を集い見事本堂が美しく改修されました。奈良の東大寺に倣い、屋根には古代寺院建築が施され、新たな時代へと継承されようとしています。「千日堂」と呼ばれるにふさわしい本堂を拝し、多くの人々へその信仰の歴史を伝えようと多くの方々が集い力を会わせる様子が境内地全体から伝わってくるようです。
尚、仏教用語としての大仏はの基準は一丈六尺(5m)以上とされており、この基準に満たないことから「平戸の大仏(おおぼとけ)」と称します。
私の忍領皿尾村からわずか離れたところにこのような立派な大仏が鎮座することも知りませんでした。たまたま熊谷市街地へと向かう途中、交通規制の迂回路で源宗寺を通りかかり、またお参りの最中、お寺の世話人様と思われる方が本堂をあけてくださり、おおぼとけを間近に拝むことが叶いました。すべては輪廻の巡り合わせ、繋がるご縁に感謝するばかりです。
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泉蔵院と竹内露白

2020-03-20 22:40:34 | 寺院と歴史

皿尾村にある泉蔵院は真言宗智山派の寺院で無量寿山阿弥陀寺と号す。創建に関する資料はないが、遍照院門徒として江戸初期には創建されたと考えられている。社家である我が家の菩提寺でもある。

古くから農村部として開けた皿尾村であるが、忍の沼尻に接し、治水に悩む土地柄であった。水を引く、排すともに苦労してきた歴史がある。明治期になると他地域に先駆けて煉瓦水門を設置し灌漑に利用してきたという。村の北側から外張堰、松原堰、堂前堰といった。泉蔵院墓地内に現在も堂前堰が残っている。忍川皿尾橋から百間ほどの所で、今でも台風などの大水の際はここ堂前までは水に浸ることがある。字名も「堂前」として残る。

社家である我が家の墓所には榊を植え、彼岸の折にはその葉を供えている。

皿尾村には御一新とまるまで村役割名主がいたという。竹内家といったそうだ。江戸後期には竹内露白という俳人を輩出している。辞世の句が墓碑に記されている。天保三年十二月二十八日没。享年七十.。墓碑は巨大なもので、行田市史下巻によれば忍領における文学墓碑ともいうべきものである。

すずしさや きままに旅は ゆき次第    露白

若き日の夏の日の旅路を詠んだものであろうか。旅路に履いた忍名産の足袋を掛けたものであろうか。

時の流れはむなしいもので、明治以降東京に出てしまったという竹内家の墓守はなく、現在一部の墓石は倒れたままになっている。移り変わる時世に身を置きながら村の歴史を伝えるとともに、今後こうした墓地の整理もしなければならないと思っている。

 

 

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加須不動尊総願時と黒門

2019-01-12 15:47:25 | 寺院と歴史

 加須市不動岡の総願時にはかつての忍城の城門が現存している。加須市の文化財に指定された黒門は忍城の北谷門であったという。

 忍城は関東の名城として築城以来二百八十年の歴史を誇ったが、明治六年にすべて取り壊された。明治二十一年忍橋から東照宮境内南を通過して持田へ抜ける行田熊谷道が開通した。この道路工事の土木請負人であった不動岡の田村重兵衛の払い下げられた北谷門を、重兵衛は日頃から信仰する不動岡不動尊に寄進したという。黒門は総欅造りで門扉は一枚の玉木理であるという。

門扉上部の欄間の構造が松平候の菩提寺である桃林寺本堂の欄間と同時代のものと考えられている。持田の桃林寺は天保十三年(1833)の建立という。この黒門は忍城の城門として現存する唯一のもので、不動岡不動尊に移築されたのは明治二十二年元旦のことであるという。

現在門前には「くろもん」とう理容店が店を構えている。

 

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