皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

みかんの花咲く丘 加藤省吾顕彰碑

2023-08-08 22:20:08 | 史跡をめぐり

みかんの花が咲いている

思い出の道 丘の道

はるかに見える青い海

お舟が遠くかすんでる

 加藤省吾作詞 「みかんの花咲く丘」より

多くの日本人は子供のころこの歌を聞きまた口ずさんだことだろう。少なくとも私たち世代では(50代)

昭和二十年五月作詞家加藤省吾は両親の住まいがあった深谷市本住町に戦争疎開している。この「みかんの花咲く丘」はここ深谷の町で作詞されたといい、故郷の静岡の海に思いを馳せた詞なのだという。

戦後の困窮と混乱の時代に「リンゴの唄」と「みかんの花咲く丘」は多くの日本人の琴線に触れ美しい当時の日本の人々の心を歌い上げているとこの顕彰碑はたたえている。

故郷は遠きにありて思うもの

加藤省吾氏の足跡を称え、顕彰碑ができたのは平成四年のこと。三十年前にはまだこうしたに戦後日本の復興に対する気概というか、志が多く残っている。

失われた三十年。豊かさを失い、美しい心さえもどこかに置き去りにしてきてはいないか。

物理的な豊かさは数年で取り戻せるかもしれない。しかし先人や足跡に対する敬意の念は忘れれると容易く取り戻すことはできない。

石に刻まれた詩を見つめながらデジタル社会の危うさを憂いている。

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蓮田市根金 稲荷神社と芥川龍之介自筆撰文碑

2023-08-07 23:13:42 | 史跡をめぐり

蓮田市根金はかつて根金村・根金新田村の二村でいずれも元禄十一年(1696)閏戸村から分村し成立している。このうち根金新田村は足立郡別所村(伊奈町小室)の九十郎によって開発されたという。口碑によれば当社の創建はその九十郎が別所村の稲荷社の分霊を勧請したもので、当初はその子孫である内村家の氏神であったものを村人が信仰したことから村の鎮守となったと伝わる。

本殿内陣には鎌と稲把を携えた稲荷大明神像が奉安されている。神像を納めた厨子の底部には「天明三年九月(1783年)奉納稲荷本地十一面観音武州埼玉郡岩槻領根金新田村」との墨書きが記されていて、往時は本地物である十一面観音像であったことがわかる。

鳥居脇に石碑が建っているが、これは明治の文豪芥川龍之介の撰文自筆の石碑として貴重である。当地出身の関口平太郎氏を顕彰する碑文で、当時氏と芥川龍之介の親交が深かったことがうかがえる。文豪として名を馳せた龍之介があんま業を営みながらも東北の飢饉や地元の学童のために寄付を続けていた関口氏に深い敬意を払っていたのだろう。二十代半ばから龍之介がその生涯を閉じる三十五歳まで続いたという。大正六年この地の氏子が発起人となり顕彰した際、龍之介は快く自選自筆を受けたのだろう。

意外なところに自国の文学者の足跡は眠っている。足跡を辿りながら文豪の想いや、人とのつながりを知り伝えていきたいと願っている。

 

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花崎城址を訪ねて

2023-01-23 20:08:16 | 史跡をめぐり

花崎城址は東武伊勢崎線花崎駅の北西約50mに位置し、遺跡としては加須市指定史跡となっている。昭和五十六年ごろまでに畝掘、馬出しに加え、珍しい障子堀が発見されている。「障子堀」とは城の守りを固めるため、堀の中に畝や障壁を作ったもので、静岡県の山中城のものがよく知られている。

障子彫りが見つかったのは写真とは別の東武線の反対側(北側)であったそうで、しかも山中城の障子堀の畝が2m近くあるのに対して、花崎城の畝は30cmほどの規模だという。これではさほど堀としての防御機能を果たさないと思われたが、文化財調査報告書では畝を設けることで堀の中の排水を抑え水をため込む状態にすることで敵の侵入を難しくする意図があったと考えている。

花崎城は沼や湿地に囲まれた台地の上に築かれた城だったと考えられている。湿地帯という自然要塞に加え、さらに強固な守りとして特別な障子堀を有した強固な城。しかしながら中世における花崎城に関する資料は少ないという。

天正二年(1574)北条氏繁書状に「羽生被寄馬候処、近年向岩付取立候号花崎地、即時自落」

と記されおり岩付城に対する備えとして存在したことを証している。また「武蔵稿」によれば「花崎古城 要害東北沼深く城地箕を伏せたるが如し・・・城主不知」と伝える。

羽生市の郷土史家髙鳥邦仁先生よれば上杉謙信が小田原城を攻めた永禄四年(1561)当時、花崎城はすでに後北条方の城として機能していたそうだ。武蔵東部の拠点粟原城(鷲宮神社)を支える役割を果たしていたと考えらえる。そして粟原、花崎両城を攻め立てたのが羽生城主木戸忠朝だったと比定している。近年の調査でも花崎城近辺から陶器や板碑に加え砲弾も出土しているそうだ。戦上手の木戸氏に攻めたてられたことで、城の主が木戸氏方に移り、羽生城落城に合わせて花崎城も自落したのではないかと推考している。その年天正二年(1574)。もとの城主の後ろ盾であった後北条氏が豊臣に落城に追い込まれたのはその十六年後のことである(天正十八年1590年)

永禄年間、隣国忍城成田氏に抗いながら羽生城を守り抜いた木戸忠朝。その後ろ盾は越後上杉謙信であり、所領した羽生領から西は皿尾城、南東はここ花崎城まで駆け抜けて戦い続たことだろう。自らの地位と所領を守り抜くため。

城としての名残は堀を残すだけであるが、その生きざまは時を超えて今の私に大事なことを投げかけているようだ。

引用文献「歴史周訪ヒストリア」髙鳥邦仁先生

 

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権現堂川と舟渡橋

2022-05-29 21:55:13 | 史跡をめぐり

権現堂川は寛永十八年利根川が改修工事で大日川(渡良瀬川)に合流された後出水時には度々領内で氾濫するため、対策として人工的に開削されたと言われています。その後江戸時代から昭和のはじめまで江戸への重要な水上交通の場として大きな役割を果たしてきました。

権現堂川沿いの五霞町、幸手市、栗橋町は舟の往来が多くなり、河岸場が広がる岸に回船問屋が栄え上りは年貢米、穀物、木材などを下りは塩、日用雑貨、肥料など多くの舟が往来し、人びとの交通の重要な足となりました。

鉄道路線の発達と共にその役割を終え、中川総合開発事業により昭和四十七年(1972)多目的ダムとして地域に貢献する平地のダムとなったのです。
幸手市(埼玉)と五霞町(茨城)を結ぶ「舟渡橋」は県と県とを結ぶ越境橋であること以上に、『過去と今との出会いの場』であり、関東有数の桜の名所権現堂桜堤の名橋として訪れる人びとに親しまれています。
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勝呂神社 日露戦役祈念碑

2022-05-19 22:26:38 | 史跡をめぐり

行田市若小玉勝呂神社一の鳥居脇にある日露戦役祈念碑。大正二年二月の建立で記毫は陸軍大臣木越安綱。
行田市内に残る戦役記念碑は多く、日露戦役で十五基残っている。(日清戦役では9基)

前玉神社に残る忠魂の碑は大久保利武(利道の三男)の書であり、また同じく前玉神社に建つ日露戦役記念碑は山形有朋の記毫である。
大久保利武は埼玉県知事も勤めており、官僚として埼玉にゆかりがあるようだ。

木越安綱は長州出身の陸軍軍人で、大正二年(1913)に第一次山本権兵衛で陸軍大臣に任じられている。(同内閣の内務大臣は原敬、大蔵大臣は高橋是清)
近代史の日本史で軍部が力を強め、シビリアンコントロール(文民統制)が効かなくなり、軍伐政治が横行した伏線として、内閣の閣僚の内、海軍、陸軍大臣に就任するには現役軍人の大将、中将に限るという制度(軍部大臣現役武官制)がしかれていたが、そうした軍伐政治に対する批判を受け、退役、予備役まで大臣資格を広げたのが山本権兵衛内閣で、陸軍の反対を押しきって同意したのが木越安綱であった。
その後木越は陸軍の意向に逆らったとして、軍人としては冷遇され、退官前に予備役に編入される。
自らの出身組織よりも、民意と自らの信念に基づいて政治家としての職務を全うした木越安綱。
その後大正九年(1920)に貴族院議員補欠選挙当選し、生涯政治家としての職務を全うしている。

石碑に記された文字から私たちへ伝えようとする木越安綱の思いは今でも伝わって来る。


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