令和五年一月度行田市民大学、市民大学同窓会の合同講演会が開催されました。会場は行田商工会館4階、年に一度の合同開催ということで120名近くのご参加を頂きました。市民大学では1,2年生ともさきたま古墳に関する講義があります。郷土史に関する知識として、行田市民の皆さんにより詳しく知ってほしいとの願いから、今回改めて合同企画としてさきたま古墳に関する講演となりました。講師はさきたま史跡博物館主幹学芸員である佐藤康二先生です。
令和二年三月埼玉古墳群は全国で63番目、古墳群としては67年ぶりの3例目として令和初の特別史跡に指定されました。特別史跡とは「史跡のうち学術上の価値が高く、わが国文化の象徴となるもの」とされ有形文化財でいえば「国宝」に相当します。古墳公園として整備され、多くの来訪者を迎える現在ですが、昭和初期においては古墳の維持どころか破壊の危機を迎えていたそうです。また国宝稲荷山古墳出土「金錯銘鉄剣」はいくつもの偶然が重なって発見された経緯があります。そうした私たちの知らない埼玉古墳の歴史を掘り下げながら、また市民大学の講義にふさわしい内容として取りまとめていただきました。
さきたま古墳は軍は5世紀から7世紀中ごろにわたって作られた古墳群で前方後円墳8基、円墳一基から構成されています。前方後円墳については内堀と外堀の二重構造であることがと特徴で祭壇と呼ばれる造り出しの部分が西側にあります。南北900M東西400Mの広さを誇りながら、150年近くにわたり連続して造営されたことから、古墳と古墳の間は非常に接近した作りになっているのが特徴です。また前方後円墳の向きは基本的に同じ方向を向いています。
昭和42年国の「風土記の丘」整備事業に伴い発掘調査が行われたのが稲荷山古墳で、当初横穴式石室と思って調査を進めていたところ、埋蔵施設にたどり着かなかったため、上部からの発掘に切り替えたそうです。そこでは粘土槨と呼ばれる部分はすでに盗掘にあっていたことがわかっていましたが、隣の礫郭部分は偶然にも盗掘にあっていなかったそうです(全くの偶然)。実は全国の古墳の90%以上はすでに盗掘にあっていて、同じ古墳で隣の郭部分が未盗掘であったことは調査でも珍しいそうです。
また金錯銘鉄剣については出土昭和43年ながら当初金錯銘があったことに気づかず、錆の腐食防止を奈良県の文化研究所に依頼したところX線調査でたまたま文字に気づいたそうです。その間10年間はひっそりと展示室の片隅に置かれていたそうで、これも鉄剣の浸食がもし進んでいなければ知られなかったかもしれないということです。また当時のこの大発見については埼玉県庁発表するはずであったところ、1978年9月20日の毎日新聞によってスクープ記事として取り上げられることとなりました。(この大スクープを上げた記者は後にメディア論の専門として大学教授に上り詰めています)
将軍塚古墳からは渡来系の副葬品が多数出土していて馬冑は全国で3例しかありません。
今日の講演で最も心に残ったのはさきたま古墳群の整備の歴史についてです。
昭和5年から昭和43年までの変遷が貴重な航空写真での対比から詳しく解説されまた。
満州事変の前年である昭和5年(1930)当時戦時高揚と食料増産体制から農業地確保のため多くの干拓事業が推し進められています。その際に運ばれた土の出所が稲荷山古墳でした。文化財保護法もない時代です。日本の古代史を紐解く鉄剣が眠る古墳そのものが姿を消す可能性が大いにあったということです。そこで昭和14年当時のさきたま村が古墳保存会を立ち上げ、地元の要望が出たことから国史跡へと指定がなされ、昭和42年国の「風土記の丘」整備事業の一環として埼玉県へと管理が移行します。
現在のさきたま資料館に金錯銘鉄剣は保管展示されています。東京の国立博物館ではなく、地元に展示しようと働きかけたのは当時の埼玉県知事畑和氏であったといいます。
多くの地元の方の熱意によって今日のさきたま古墳があることを市民大学の皆さんと共有できた、心に残る貴重な講演会となりました。
司会者席からそんなことを思った1日となりました。