皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

庭の千草

2023-01-28 21:57:18 | 心は言葉に包まれて

庭の千草も 虫の音も 枯れて寂しくなりにけり

ああ白菊 ああ白菊

一人遅れて咲きにけり

露もたわむや 菊の花

霜におごるや 菊の花

ああ あわれ あわれ ああ白菊

人の操も かくてこそ

明治十七年 小学唱歌集に載るこの歌の原曲はアイルランド民謡「夏の名残のバラ」

日本語訳としては晩秋から冬にかけての自然描写とされる。背後にある人の心情は昭和のころまで多くの人々の共感を得ている。

人生の晩年愛する人に先立たれ、一人残された人の寂しくも、凛として最後まで生きる様が歌い上げられえている。

季節の花々を手水に挿し人の癒しとなればとの思いで花手水を続けている。

花を見るたびに先立った人を思い出すのだろう。幸い私はまだ伴侶となる人とともに歩いている。いつかどちらかが先立つ日も来るだろう。それでも尚凛とした生き方ができるよう、ともに歩く時間を大事に過ごしたいと思っている。

 

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合掌の気持ち

2023-01-26 20:41:34 | 日記

強烈な寒波に見舞われて、ここ関東も氷点下の真冬日となりました。昨晩の暴風でお社の木々も吹き飛ばされそうで心配しておりましたが、大きな被害もなく済みました。一夜明け、境内地を見回りながら自然の力に改めて思いを馳せ、人の営みの小さきを知る思いでした。

皿尾城土塁跡に繁る杉の木々は樹齢何年ほどになるのか定かではありませんが、長きに渡り風雨からこの社殿を守ってきてくれたことに変わりはありません。改めて早朝に手を合わせていました。

手水舎の竜神から流れ落ちる水が太い氷柱となって姿を変えています。ここ数年で見たことのない姿です。

手口をすすぎ、清らかな心身でお参りすることが神社参拝の作法とされておりますが、どうしてご神前にお参りすることで、より清らかな心持ちとなるのでしょうか。願いを神様に叶えていただくため、あるいは願いが叶ったお礼参り。

本来は良いときもそうでないときも、「今を生きていることへの感謝する」こととしてお参りすることが本来のあり方なのではないでしょうか。特に私のような鳥居の中に育った者はそうすることが自然な生き方なのでしょう。

そうした気持ちをご神前にお参りしたときだけではなく、日々の暮らしの中で常に持つことができればよいのですが、仕事や生活の流れの中で忘れてしまうことが多いのでしょう。

「生かされていることに感謝する 」気持ちを常にもちつづけることが叶わなくとも、何かの機会に「合掌」することで心が清らかになり、前向きで豊かな心持ちを取り戻すことができるのではないかと思います。

神社の参拝作法は二礼二拍手一礼とされることが多いのですが、穏やかに手を会わせ生かされていることに感謝することは作法以上に大切なことだと思います。

合掌

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花崎城址を訪ねて

2023-01-23 20:08:16 | 史跡をめぐり

花崎城址は東武伊勢崎線花崎駅の北西約50mに位置し、遺跡としては加須市指定史跡となっている。昭和五十六年ごろまでに畝掘、馬出しに加え、珍しい障子堀が発見されている。「障子堀」とは城の守りを固めるため、堀の中に畝や障壁を作ったもので、静岡県の山中城のものがよく知られている。

障子彫りが見つかったのは写真とは別の東武線の反対側(北側)であったそうで、しかも山中城の障子堀の畝が2m近くあるのに対して、花崎城の畝は30cmほどの規模だという。これではさほど堀としての防御機能を果たさないと思われたが、文化財調査報告書では畝を設けることで堀の中の排水を抑え水をため込む状態にすることで敵の侵入を難しくする意図があったと考えている。

花崎城は沼や湿地に囲まれた台地の上に築かれた城だったと考えられている。湿地帯という自然要塞に加え、さらに強固な守りとして特別な障子堀を有した強固な城。しかしながら中世における花崎城に関する資料は少ないという。

天正二年(1574)北条氏繁書状に「羽生被寄馬候処、近年向岩付取立候号花崎地、即時自落」

と記されおり岩付城に対する備えとして存在したことを証している。また「武蔵稿」によれば「花崎古城 要害東北沼深く城地箕を伏せたるが如し・・・城主不知」と伝える。

羽生市の郷土史家髙鳥邦仁先生よれば上杉謙信が小田原城を攻めた永禄四年(1561)当時、花崎城はすでに後北条方の城として機能していたそうだ。武蔵東部の拠点粟原城(鷲宮神社)を支える役割を果たしていたと考えらえる。そして粟原、花崎両城を攻め立てたのが羽生城主木戸忠朝だったと比定している。近年の調査でも花崎城近辺から陶器や板碑に加え砲弾も出土しているそうだ。戦上手の木戸氏に攻めたてられたことで、城の主が木戸氏方に移り、羽生城落城に合わせて花崎城も自落したのではないかと推考している。その年天正二年(1574)。もとの城主の後ろ盾であった後北条氏が豊臣に落城に追い込まれたのはその十六年後のことである(天正十八年1590年)

永禄年間、隣国忍城成田氏に抗いながら羽生城を守り抜いた木戸忠朝。その後ろ盾は越後上杉謙信であり、所領した羽生領から西は皿尾城、南東はここ花崎城まで駆け抜けて戦い続たことだろう。自らの地位と所領を守り抜くため。

城としての名残は堀を残すだけであるが、その生きざまは時を超えて今の私に大事なことを投げかけているようだ。

引用文献「歴史周訪ヒストリア」髙鳥邦仁先生

 

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屋敷稲荷と裏白の木

2023-01-21 19:38:13 | 郷土散策

氏子区内のお宅で屋敷稲荷周辺の樹木を伐採をするにあたってお祓いをしてほしいとのことで、樹木伐採報告祭を執り行いました。当地区内でも古くから代々続く家柄で広大な敷地を有します。


初めて敷地内のお社を拝見させていただきましたが、稲荷社と天神様の一間二社造りとなっている貴重な屋敷神様で驚きました。御神体としてはいる幣束の紙垂を当家で毎年切り替えていますが、私の曾祖父の名前が記されています。社殿の屋根は一回り小さな瓦が載っており、また鬼瓦の神紋には梅が用いられていることから、天神様を祀っていたことがわかります。

御神木はウラジロの木という常緑樹で、葉の裏側が白くなるそうです。敷地内の整理でこの御神木を残して、屋敷森をたたむようです。田舎暮らしでも、屋敷林を維持して行くのが難しい時代になりました。

お祓いのあとお屋敷でお茶をいただきながら、古い写真を見せていただきました。明治期のもので、当地区の厄神祭の様子でした。五色旗があり当時の様子を良く伝えてくれています。
このお屋敷から私の住む皿尾城を望むことができます。その間にひろがる耕地の一部は私が子供だった昭和50年代までため池となっていて、冬場には氷が張って滑ることもできました。当時は村に酪農家もあった時代です。
この村の暮らしと祭祀を次世代につないでいくという使命を私は担っています。
先はなかなか見えませんが、昔のことを紐解きながら少しづつ紡いでいくしかありませんね。


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特別史跡 さきたま古墳群~いかにして守られてきたか~

2023-01-19 21:24:13 | 生涯学習

令和五年一月度行田市民大学、市民大学同窓会の合同講演会が開催されました。会場は行田商工会館4階、年に一度の合同開催ということで120名近くのご参加を頂きました。市民大学では1,2年生ともさきたま古墳に関する講義があります。郷土史に関する知識として、行田市民の皆さんにより詳しく知ってほしいとの願いから、今回改めて合同企画としてさきたま古墳に関する講演となりました。講師はさきたま史跡博物館主幹学芸員である佐藤康二先生です。

令和二年三月埼玉古墳群は全国で63番目、古墳群としては67年ぶりの3例目として令和初の特別史跡に指定されました。特別史跡とは「史跡のうち学術上の価値が高く、わが国文化の象徴となるもの」とされ有形文化財でいえば「国宝」に相当します。古墳公園として整備され、多くの来訪者を迎える現在ですが、昭和初期においては古墳の維持どころか破壊の危機を迎えていたそうです。また国宝稲荷山古墳出土「金錯銘鉄剣」はいくつもの偶然が重なって発見された経緯があります。そうした私たちの知らない埼玉古墳の歴史を掘り下げながら、また市民大学の講義にふさわしい内容として取りまとめていただきました。

さきたま古墳は軍は5世紀から7世紀中ごろにわたって作られた古墳群で前方後円墳8基、円墳一基から構成されています。前方後円墳については内堀と外堀の二重構造であることがと特徴で祭壇と呼ばれる造り出しの部分が西側にあります。南北900M東西400Mの広さを誇りながら、150年近くにわたり連続して造営されたことから、古墳と古墳の間は非常に接近した作りになっているのが特徴です。また前方後円墳の向きは基本的に同じ方向を向いています。

昭和42年国の「風土記の丘」整備事業に伴い発掘調査が行われたのが稲荷山古墳で、当初横穴式石室と思って調査を進めていたところ、埋蔵施設にたどり着かなかったため、上部からの発掘に切り替えたそうです。そこでは粘土槨と呼ばれる部分はすでに盗掘にあっていたことがわかっていましたが、隣の礫郭部分は偶然にも盗掘にあっていなかったそうです(全くの偶然)。実は全国の古墳の90%以上はすでに盗掘にあっていて、同じ古墳で隣の郭部分が未盗掘であったことは調査でも珍しいそうです。

また金錯銘鉄剣については出土昭和43年ながら当初金錯銘があったことに気づかず、錆の腐食防止を奈良県の文化研究所に依頼したところX線調査でたまたま文字に気づいたそうです。その間10年間はひっそりと展示室の片隅に置かれていたそうで、これも鉄剣の浸食がもし進んでいなければ知られなかったかもしれないということです。また当時のこの大発見については埼玉県庁発表するはずであったところ、1978年9月20日の毎日新聞によってスクープ記事として取り上げられることとなりました。(この大スクープを上げた記者は後にメディア論の専門として大学教授に上り詰めています)

将軍塚古墳からは渡来系の副葬品が多数出土していて馬冑は全国で3例しかありません。

今日の講演で最も心に残ったのはさきたま古墳群の整備の歴史についてです。

昭和5年から昭和43年までの変遷が貴重な航空写真での対比から詳しく解説されまた。

満州事変の前年である昭和5年(1930)当時戦時高揚と食料増産体制から農業地確保のため多くの干拓事業が推し進められています。その際に運ばれた土の出所が稲荷山古墳でした。文化財保護法もない時代です。日本の古代史を紐解く鉄剣が眠る古墳そのものが姿を消す可能性が大いにあったということです。そこで昭和14年当時のさきたま村が古墳保存会を立ち上げ、地元の要望が出たことから国史跡へと指定がなされ、昭和42年国の「風土記の丘」整備事業の一環として埼玉県へと管理が移行します。

現在のさきたま資料館に金錯銘鉄剣は保管展示されています。東京の国立博物館ではなく、地元に展示しようと働きかけたのは当時の埼玉県知事畑和氏であったといいます。

多くの地元の方の熱意によって今日のさきたま古墳があることを市民大学の皆さんと共有できた、心に残る貴重な講演会となりました。

司会者席からそんなことを思った1日となりました。

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