皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

四馬の譬え

2020-04-25 22:12:06 | 先人の教えに導かれ

 新聞紙上に毎日の新型コロナウィルスよる感染者数と死者数が載るようになって久しい。しばらく前までは他国の出来事であったものがあっという間に自国の数計となり、日々不安と隣り合わせの毎日である。人の死を数で表すことに慣れてしまうと、本当の自分の死に向き合うことの意味を見失ってしまう。

 一年前の今日、お世話になった先輩がお亡くなりになった。とても急なことでただただ驚きと悲しみに暮れていた。本日一年忌の法要が営まれるはずであったが、今般の状況を考慮し、施主様のご判断で延期されることになった。

 

お釈迦様はその教えの中で人の死について四頭の馬に例えて説いているという。

 仏比丘尼告げたまはく、四種の馬有

 一つには鞭影を見て即驚束して、御者の意に随う

 二つには毛に触るれば、即ち驚束して御者の意に随う

 三つには肉に触れて然してのち、即ち驚く

 四つには骨に徹して然してはじめて驚く

           ~『雑阿含経』~

第一の馬は振り上げた鞭を見ただけで走り出す馬。第二の馬は鞭が毛の先に触れて走り出す馬。第三の馬は肉をたたかれて走り出す馬。そして第四の馬は鞭が骨の髄まで達してようやく走り出す馬のことだという。死をどれだけ身近なこととして感じることができるか、その大切さについて諭したのだという。

つまり一頭目は知らない人の死を知って自分の命、人生について考えられる人のこと。二頭目は身近な知人、友人の死に際しその意味を考える人のこと。三頭目は親兄弟などの身内の死に遭って初めて考える人のこと。そして四頭目は自分の余命を宣告されて初めて自分のことに気づき、慌てふためく人のことをいう。

死について考えというと、深刻で暗い話になりがちであるが、人は生まれてから死ぬまでを人生とするならば、生まれ生きることそのものが、死への旅路であり、後戻りできないのだ。だから死について考えることは自分の人生の終着点を定めることであり、生きることそのものを創造することに他ならない。だから自分が死に瀕してからでは遅いのだ。

 ある方の言葉によれば人生で一番大切なことは、「死をみつめること」だという。時間というものは区切りの無い永遠のものであるのに対し、一人のひとにとってみればわずかばかりの限られたものだという。だから誰しも人生そのものは片道切符を手にした旅の様なもの。決して後戻りはできない。

 日本人の遺伝子の中には他者の死を深く悼むというのが伝わっているという。そうしたことが古来からの葬儀儀礼にも表れている。「死」を以て人は残された人へとその意味を伝えるという。

 今一度握りしめたその切符の意味を確かめ、日々丁寧に生き抜いていきたいと感じている。

 

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上尾市瓦葺 尾山台遺跡

2020-04-20 20:30:14 | 史跡をめぐり

JR東北線東大宮駅から北に1㎞ほどのところにある尾山台団地は日本住宅公団の集合住宅。埼玉千葉を結ぶ国道16号瓦葺交差点から大宮側に500m入った場所にある。高度成長期に開発された大型団地であるが、かつて古くは古墳時代の始めごろにも多くの人々が暮らしていたという。尾山台遺跡である。

昭和四十年尾山台団地の建設に伴い発掘調査が行われ、弥生時代末期から古墳時代初頭にかけての住居跡が約60軒見つかり大規模な集落跡であったことが判明している。当時一つの遺跡から60軒以上の住居跡がまとまって発見されたのは初めてであり、調査が進むと更に縄文期から弥生、古墳、奈良平安時代それぞれの住居跡や遺物も確認されたという。

住居の一辺は3~7mで柱穴は四か所設けられ、その中の多くに炉跡が見られる。かまどができる前の時代のことで、土器は煮炊きに使う台付き甕形土器が多い。また収穫した食料を貯蔵する跡も見つかっている。また住居跡は各時代にグループ分けすることができ、数世代に渡ってこの場所で人々が生活してきたことが分かるという。

見つかった住居のうち、約20軒からは炭化した木材が折り重なった状態で発見されている。これは火災によって住居が燃えた跡だと考えられていて、遺跡の南部に多く見つかっている。火災の原因は不明であるが同時期の住居であり、大火災によって一挙に燃えてしまったことがうかがえる。

現在団地の中ほどにある公園の一角に尾山台遺跡跡から見つかった住居跡を再現した場所がある。現在でも多くの人々がここ尾山台団地に住んでいる。古代から続く尾山台の繁栄は時代を超えて現代も集合住宅として引き継がれている。

今も昔も尾山台の地は人々が大きな集落を作り、未来の繁栄を願って暮らしているようだ。

 

 

 

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上尾市 瓦葺氷川神社

2020-04-20 17:51:01 | 神社と歴史

 瓦葺という地名は河原が転じて『瓦』、『葺』とはフケ即ち深田、低湿地を表しているという。今では住宅地の密集するところだが、古くは一面沼地であった。河は近くを流れる綾瀬川を指している。江戸との間を綾瀬川や見沼用水を使って江戸へと荷を運んでいた風景が浮かび上がる。

 瓦葺はもとは一村であったが天保から元禄にかけて(1644-1704)にかけて上、下、元瓦葺の三ヶ村に分かれたという。この氷川神社は上瓦葺の鎮守として祀られたという。創建については『郡村誌』によれば「永正三年(1506)武蔵国一宮を遷す」とされる。境内地周辺は一面の畑で祭礼日には神社の幟が岩槻から見えたという。確かに近辺は尾山台という大地であり、田園よりも畑が多く、城下町岩槻から一里ほどの場所にある。

昭和五十五年に本殿の修復、境内地の整備が進められ、昭和六十年に造営記念碑が建てられている。高度成長期から都市化と共に人口流入が激しくなり、尾山台団地の建設にも伴い、氏子の構成も大きく変わったという。

 甲子園優勝経験のある県内有数の名門校、浦和学院の野球部が毎年七月の県大会の開始前に氷川神社に訪れ祈願祭を受けるという。昭和六十一年夏の甲子園四強に入る活躍を果たす頃からのようだ。近隣の中高校の学生が大会前に多く訪れるという。

広い境内地に地元自治会館を構え、地区の鎮守として崇敬される現在ではあるが、かつては境内地を廻り隣接する楞厳寺(りょうごんじ)との間に紛争が起こった歴史がある。

 昭和四十九年本殿裏手の土地の所有権をめぐって楞厳寺を相手に浦和地裁に訴訟を起こしている。審理の結果氷川神社側の勝訴となるも、不服とした楞厳寺が控訴。その上檀家を兼ねていた氏子一人一人に「氏子を抜けなければ一切の仏事は世話しない」と圧力をかけたという。

 菩提寺から祖先の供養を拒まれた氏子は致し方なく鎮守を離れることとなり、最後まで寺の圧力に屈しなかったのは僅か三人だけだったという。境内は一時荒れ地となったが残った三名は一致団結して鎮守様を残すため総代として尽力した。

その総代を継いだ方々の名前が現在も残っている。

昭和五十年代になると団地の造営をはじめ住宅地の建設が相次ぎ、総代三名と宮司は境内地の一部を売却し訴訟の費用を確保。昭和六十年に結審した裁判でも勝訴を勝ち取っている。団地住民の協力の元自治会主催の祭典を始め、子弟の学業成就を願う氏子の要請にこたえるため北野天満宮より天神様を勧請している。

平成四年には夏祭りに子供たちが担げるよう総代の黒須喜代松氏が神輿を奉納したところ、大いに喜ばれ他所から転入してきた子育て世代の氏子にとって鎮守様が心のふるさとになっっていったという。

 神社の由緒や過去の歴史よりも、今生きる人々にとって鎮守、氏神が地域にとってどうあるべきかを示した模範の様な例だと思う。勿論古くからの祭事や慣例を継承し、神社を次の世代に継承することは大切だ。しかし現代社会において様々な環境、要因により神社そのものが宗教法人として世間の荒波にもまれることも多い。それを支え未来へと漕ぎだすのは、神の御加護を信じた人である。とりわけ神職、総代の役割は大きい。

 自分自身も、もしこうした難局岐路を迎えた際、鎮守と氏子を結ぶ役割を最後まで果たしたいと思っている。

 

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幸手権現堂 順礼の碑

2020-04-13 16:49:07 | 史跡をめぐり

幸手市権現堂堤は桜の名所として知られるが、その歴史は江戸時代天正年間に利根川の支流である権現堂川の堤防として築かれたものだという。かつては6kmに渡って約3000本の桜を誇り、大正期にはすでに桜の名所として賑わっていた。

明治九年(1876)には明治天皇が東北行幸に際に立ち寄られたことから行幸堤とも呼ばれるようになった。

権現堂川は利根川の流路変更に伴い明治の終わりには締め切られ廃川となりそのため堤防は荒れ果て植えられていた桜も戦後の混乱や薪燃料のため多くが伐採されてしまった歴史があるという。

昭和二十四年(1949)以降旧権現堂川堤防の内、中川の堤防として残ったところにソメイヨシノを植樹したものが現在の権現堂桜堤であるという。平成二十年(2008)には埼玉県営権現堂公園として整備されているが、その公園の中には権現堂を見守る順礼母娘の碑が建てられている。

淳和二年(1802)の大雨によって弱っていた権現堂川の堤は修復してもすぐに切れてしまうような有様であったという。

ある時堤奉行の指揮の元、村人たちは必死に堤の改修工事にあたっていたところ、夕暮れ時に巡礼の母娘が通りががった。工事の様を見た母は「こう度々堤が切れるのは龍神の祟りに違いありません。人身御供(ひとみごくう)をたてねばなりません」と口走った。すると堤奉行は「誰か人身御供になるものはおらぬか」と見渡すと皆顔を見合わせるばかりで進み出るものはいなかった。すると「人身御供を進めたものを立てよ!」という声が上がりました。

 順礼母はこの声を耳にすると「私が人柱になりましょう」と申し出ると念仏を唱えて渦巻く水の中に身を投げてしまいます。これを目にした娘もそのあとを追ったといいます。

するとそこから水が引き、難工事だったものが無事に完成することとなったといいます。

昭和十一年に建てられたというこの巡礼の碑が伝えようとしたものはなんだったのでしょうか。

利根川流域には治水を廻る人柱伝承が多く残っています。大利根町鷲神社、加須市外野川圦神社など流域の神社にはその霊を慰めるために神社が勧請されたと伝わるところも数多くあります。

個人の尊厳よりも、共同体としての存続が優先された時代。人柱とは神に対する最上級の供え物であると考えられ、人の命を捧げてまで災難を沈めようとした当時の人々の考え方歴史を伝えようとしたことが分かります。

戦後現在の憲法ができ個人の尊厳が守られてきた時代にあっては考えられないことですが、翻って現在の新型ウィルスの蔓延が止まらない時世においては学ぶべき事象のように思います。高度成長期以降生まれ育ったた私たちの世代は、有事に対する立ち位置がわからない。覚悟が足りないように思います。だから上からの支持を待っている。保証がないと言い訳をする。命令に従うことでしか先行きを見渡せない。命令を出す側の方も、要請という名で人任せにしている。名ばかり緊急事態。そんな気がします。

 

桜の季節は儚くも過ぎ去りました。疫病の収束を祈りながら自身の生き方を顧み、できることをしていきたいと思います。

 

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幸手市 熊野神社

2020-04-13 15:43:04 | 神社と歴史

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 桜の名所と知られる幸手市権現堂。その地目の由来は、「村内に熊野、若宮、白山の権現を合祀した旧社あれば此村名起れりと云」と風土記稿に記載がある。創建は天正年間(1573-92)の頃である。

この地に甚大な被害をもたらした淳和二年(1802)の大水により村内の歴史を伝える記録がことごとく流出してしまったため、創建時の祭祀状況は不明であるが、大規模な社であったことは風土記稿にも伝わり、「熊野若宮白山大権現、村の鎮守也、この社古大社にて、村名の起こりと云も権現三社也」とある。文政八年(1825)に社殿が再興され、翌年に熊野三神(素戔嗚、伊邪那岐、伊邪那美)を表す神像が奉納されている。

熊野三神は神仏習合により熊野三社権現とも呼び、それぞれ阿弥陀如来、薬師如来、千手観音とも考えられてきた。鎌倉以降になると熊野御師、熊野比丘尼といった人々が熊野信仰を全国に伝えていくようになる。御師は熊野詣でをする人々を世話する世話人、比丘尼は出家した女性(尼さん)のことを云う。こうした人々が後に修験者となり全国に熊野信仰を広げていったとされ、その中心となったのが時宗の祖とされる一遍聖人で、本宮に参拝した際宣託を受けて極楽往生を約束する念仏札を配るようになったという。根本的な信仰はまさに極楽往生、即ち来世利益を願うこと。それだけ現世に対する不安や苦しみが多かった現れである。昨今の社会的状況も重なるように感じてしまう。

権現堂村は一説に北条家家臣巻島清十郎が小田原落城後に当地に移住して開いた村だとも伝わる。その当時は僅か七軒の小所帯であったという。

その後文禄三年(1594)利根川支流として権現堂川が開かれ慶長四年(1599)に河岸場が開かれると水利を活かして村は大いに発展し、化政期(1804-30)には約六〇軒、明治初頭には一三〇軒へと増加した。江戸期に権現堂川の水利を活かし江戸と往来するものも多かったという。氏子の中には江戸で成功するものもあり、そうした人々は江戸講中を結成して参詣するものもあり、講社から奉納された狛犬や燈篭が残っている。

令和二年の桜まつりは中止となったが幸手権現堂桜堤には、桜の開花期間中多くの人が訪れていた。喧騒から一区画離れた瀬戸の地に熊野神社は静かに建っている。

 

 

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