新年度となって早ひと月。平成の御代も残すところあとわずかになりつつある中、桜の花と卯月の時を惜しむように今月は無我夢中で各地を旅してきたように思う。その一つ一つを丁寧に心に刻み自分の生きた証として書き留める、或はこうしたSNSを通して残していこうと思っているが、なかなか筆も進まず思うようにいかない。齢四十をとうに過ぎ、不惑どころか干支も一回りもすれば赤い半纏を纏うころ合いに思うことは、やはり日々の暮らしのありがたさを感じ、人に伝えることだと確信している。
先日仲間と妻沼聖天堂の秘仏開扉に訪れた際、帰路の途中「荻野吟子記念館」に立ち寄ることができた。旅の行程にあったわけではなく、途中どなたかがこうした記念館があり、ぜひ見に行こうと誘っていただいたおかげだ。埼玉ゆかりの三偉人に数えられる荻野吟子女史の生涯をまとめた小さいが大変立派な館で、地域ボランティアの方の説明をきくことができた。
女史の生涯にあまりに感銘を受け、即座に渡辺淳一著「花埋み」を読み出し、その生き方に衝撃を受けた。時代背景と共にこうした時代にひたすら懸命に生き抜いた姿にただただ夢中で読み進めた。
嘉永4年(1851)吟子は利根川近くの旧家に生まれた(現熊谷市俵瀬)。上川上の名主稲村貫一郎と結婚するも、夫に淋病をうつされ、実家に戻され離縁する。東京に出て大学東校(東大医学部病院)で治療を受けるもその間男性医師に局所の診察を受けることの羞恥により、そのような恥辱を同性たる女子に与えぬよう女医を目指すこととなる。当時女性が医師になる道はなく、容易に道は開けなかったが、周囲の助けを借りながら医師となり、社会活動(女性の地位向上など)にも参画するようになる。
一流子女、女医としての名声を得るもやがてキリスト教を通じて13歳下の男子学生(志方之善)と周囲の反対を押し切って結婚。夫の理想郷実現のため未開の地北海道へ渡る。伝道に従事しながらも彼の地で事業に失敗した夫に先立たれ、孤独の身となる。磨いてきたはずの習得した医術は北海道開拓の期間にすでに時代遅れとなり、失意のまま帰郷し姉友子や養女トミに看取られながら62歳の生涯を閉じる。
まさしく波乱に富んだ一生であったと言えます。
洗礼を受け敬虔なクリスチャンであった女史が好んだ聖句が表紙や幕に記されています。
人その友のために 己の命をすつる 之より大いなる愛はなし
その生い立ちから家族はもとより友にもおおなる愛情を注ぎ、寂しくも最後までその生涯を全うした荻野吟子女史。
女史の思いに寄り添いながらただ祈るだけの時を今過ごしている。