皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

黒浜式土器と縄文時代の生活~蓮田市文化財展示館

2023-11-16 22:00:36 | 歴史探訪

今から1万6000年前氷河期が終わって地球が温暖化します。日本列島では針葉樹の森が北に退き、北日本では落葉広葉樹林、西日本では常緑広葉樹の森が広がる世界へと変わりました。
特に落葉広葉樹の森には食べ物が豊富で、木の実の多くを食用として採取したといいます。栗やドングリなど食べるには灰汁抜きが必要でしたので、そのための土器が縄文土器として発達したのです。
気候の温暖化にともなう雨量の増加や海水面の上昇で陸から土砂が流れ込み、遠浅の海岸をつくることでそこに生息する貝類や回遊魚も食材に加わり食生活の大幅に進化したといいます。海面の上昇のことを「縄文海進」といい、東京湾は現在の埼玉内陸部まで進出していたことがわかっています。


黒浜貝塚は関東地方を中心とした縄文時代前期中葉「黒浜式土器」の標式遺跡として昭和50年に埼玉県指定史跡となって以降、発掘調査が進み、平成18年年には縄文時代前期の集落にともなって形成された貝塚として、また南関東自然環境の変遷や当時の生業を考える上で重要であるとともに環状集落の構造をなし、集落の変遷を考える上でも貴重」として国指定史跡となっています。展示の黒浜式土器は5500年ほど前のものと考えらえrていて、地紋の斜め方向の線が強調された美しい模様を見ることができます。
海の恵みと山の幸。ともに得られた穏やかな気候の中で、煮炊きに用いる土器が発達し、程よく定住生活を送れた縄文時代。そうした当時の様子を知ることができる貴重な資料館です。
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上ノ郷城と鵜殿長照

2023-02-21 21:12:18 | 歴史探訪

どうする家康、第六話は瀬名姫奪還作戦の上ノ郷城の戦いでした。創作を折り込みながらも非常に興味深い展開で、人質交換の史実に基づくドラマティックな内容で見ていて「大河ドラマ」(史実と創作のヒューマンスストーリー)を十二分に堪能できました。

今川義元の重臣鵜殿長照を演じたのは野間口徹さんで私と同世代。国立大学の理系学部を卒業しながら俳優業を志し、アルバイトしながら役者としての下積み時代を長く続けてきたそうです。普段は眼鏡をかけた姿が印象的で、はじめての時代劇で端正な表情が際立っていました。桶狭間合戦当時は尾張への最前線大高城代を務め、松平元康の兵糧入れによって窮地を逃れます。家康の今川離反(織田家との同盟)により敵対し、上ノ郷城で家康の三河軍に攻められました。このとき忍として服部半蔵が活躍した様子が描かれており、武家として討たれることを良しとせず自害した展開でしたが、実際には城が陥落した際城下に逃げ延び、坂の途中で討たれたとされます。

またこの上ノ郷城攻めで鵜殿長照の息子二人は生け捕りにされ、元康の妻子と人質交換されたのは史実のようで、長照亡きあと今川氏に戻った息子氏長、氏次はその後戦国の世を今川、徳川と主君を変えながら生き長らえている。特に長男氏長は今川没落後は徳川家に使え姉川、長篠合戦等に従軍している。

徳川政権誕生後は譜代の家臣として列し、慶長二十年(1615)の大坂夏の陣では重要な役目を果たしている。

東海一の弓取りと称えられた今川義元亡きあと、多くの家臣は離反している。大河ドラマでは鵜殿長照の忠義の様子が氏真によって称えられているが、実際には長照自身も最前線の上ノ郷城で悩んでいたに違いない。

家康と長照の違いは何だったのだろうか。儚く散った鵜殿長照の姿を忘れることなく今後の展開を見守りたいと思っている。

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ホトトギスと三英傑

2023-02-13 20:21:02 | 歴史探訪

今年の大河ドラマ「どうする家康」。三河の小国の跡取りから人質時代を経て、多くの家臣らと共に悩みながら太平の世を作り上げる生涯を丁寧にまた興味深く描いている。ドラマの中で信長、秀吉、そして家康がすでに交わりを持ち戦国の世を駆け抜けているが、後の三英傑とよばれる三者についてその性格を詠った句がよく知られている。「ホトトギス」の句である。

鳴かぬなら殺してしまえホトトギス

これは信長が短気で残忍な性格を表している。

鳴かぬなら鳴かせて見せようホトトギス

これは秀吉が知恵者で行動力に長けたことを表している。

鳴かぬなら泣くまで待とうホトトギス

これは家康が天下取りの機会をじっとうかがっていたことを示している。

このホトトギスの句が広く知られるようになったのは江戸時代後期のことであり、平戸藩主松浦静山が随筆「甲子夜話」に引用してからとされている。もちろん本人が実際に読んだ句ではない。

それまでの価値観を打ち壊し、革新的手法で京に上った信長。身分的ハンデを乗り越え、己の才覚で立身出世を遂げた秀吉。古くからの価値観を大事にしながら機を待つ家康。

戦国のという大転換期を納めた人物を表す句は、今の時代にも多くのことを教えてくれる。

ホトトギスの句には続きがあって

鳴け聞こう我が領分のホトトギス

これは加藤清正の配慮を表したものだといい、

更に現代では松下幸之助が

鳴かぬならそれもまたよしホトトギス

と詠んでいるそうである。

鳥の鳴き声に人の生き方やものの道理を表現する日本人らしい一面で非常に興味深い。

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厭離穢土 欣求浄土

2023-01-16 20:53:41 | 歴史探訪

徳川家康の陣中旗に記される浄土宗の教え。

厭離穢土 欣求浄土 とは穢れた現世を離れ極楽浄土へと向かいなさいという、源信の「往生要集」にある言葉だという。

今年の大河ドラマ「どうする家康」の第二話は桶狭間の戦いで織田信長の軍勢に今川義元が討たれ、今川方の大高城へ兵糧を届けながらも、最前線で取り残される様子が描かれていた。

松平元康(家康)と信長の出会いは幼少期まで遡る。元康の父松平広忠は尾張の織田信秀の度重なる侵攻に苦しんでいた。今川の助けも望めなかった広忠は竹千代(元康)を渥美半島の戸田宗光へと預けるが宗光の裏切によって、宿敵尾張の人質となってしまう。信秀によってその命を絶たれるところを、使い道があると拾った(預かった)のが信長であったとドラマでも描かれていた。

その後信長の兄と人質の交換として今川へ差し出された元康。信長と元康(家康)は齢九つ違いで、元康にとってはまさに恐るべき狼のような信長であったに違いない。

桶狭間の後大高城に残された元康を、信長が攻めなかった理由は様々考えられるが元康の人としての器量を買っていたと思うとまた歴史も面白くなる。

今川太守義元亡き後、震えながら岡崎へと向かう元康一行を、だまし討ちにして追い詰めたのが、三河大草松平昌久。かつて何度も裏切られていた昌久を信用ならないと酒井忠次や石川数正、最古参鳥居忠吉らは進言したが、信じ込む元康。

まんまと策に騙されて逃げ込んだのは松平家の菩提寺大樹寺であった。本田忠勝に介錯を頼み自らの命と引き換えに自刃を果たそうとするときに、掲げられていた寺の札書きが

「厭離穢土 欣求浄土」

この言葉は現世から離れることではなく、穢れた現世を浄土にすることこそこの世に生まれた理由なりと諭したのが

榊原小平太。

後の徳川四天王の一人 若き日の榊原正康であった。

日本人の民族性に思いを致し、知恵と情けで天下を取った家康。その人となりは苦労した若き日の人質時代に培われたとする定説だ。仏教(過去)を否定しキリスト教(新時代)を重んじた信長の峻厳たる生き方が現代ビジネス社会の規範にされる流れがあったが、長く日本に根付いた仏教的な慈悲の教えを重んじていた家康の生き方に改めて光を当てる時代を迎えたのかもしれない。

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急がば場回れ 瀬田の唐橋

2022-05-16 21:54:46 | 歴史探訪

もののふの 矢橋の船は早けれど 急がば回れ 瀬田の長橋
室町時代の連歌師宗長が詠んだとされる歌が現在の急がば回れの起源となったと言われています。

瀬田の唐橋は琵琶湖から流れ出る瀬田川に懸かる橋です。現在でも交通量が多い反面、歩いても渡れる名所となっています。架橋は667年頃と推定されます。
明治までは瀬田川に架かる唯一の橋で東国から京に入るには琵琶湖を船で漕ぐか、この瀬田の唐橋を渡るしかありませんでした。船の方が短距離でしたが湖上の強風のため橋の方が早く着けるとされました。

交通の要衝であったことから「唐橋を制するものは天下を制す」とも伝わります。飛鳥路代の壬申の乱、鎌倉時代の承久の乱では激戦地となります。戦国期には本能寺の変にあたり焼き落とされています。
京都の宇治橋、山崎橋とならび日本三名橋に数えられ、唐橋と呼ばれるのは架橋当時に遣唐使(659年)が派遣され唐風の技術が伝わったことにもよります。
多くの歴史人が渡った瀬田の唐橋。一度歩いて見たいと思っています。
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