皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

久喜市八甫 宝泉寺池

2021-06-24 22:10:07 | 史跡をめぐり

旧鷲宮町八甫村は東鷲宮区域に広がる田園区域で、開発が進んだ鉄道沿線から離れ、古利根川の流れの跡をよく残している。八甫はかつて八つの甫船が行き交う、水上交通の村であったという。利根川の瀬替えによって今ではその流れを見ることはできないが、かつてこの地が川の流域であったことを示す大きな池が残っている。

宝永元年(1704)七月の関東大洪水にによっていくつかの洪水跡池が生まれたという。この年、六月から続いた大雨で利根川およびその測流が満水状態となり、各地で大きな被害を出したという。

 その後天明六年(1786)の大洪水においてもおおきな被害が出、ここ宝泉寺池はほぼ二百メートル四方の大池となって残っったという。なお、宝泉寺自体は廃寺となっている。

広く平地が広がる風光明媚な土地であり、遠く赤城山も望む。但し池の脇にはパチンコ遊技場もあり開発の狭間でその優美な姿を広く残しているいるとはいいがたい。

やはり鷲宮神社周辺は古くから水の浮島として名が残るように、水利に恵まれ、また治水に苦労した土地柄であることが伺える。単に居住地、商業地、農地といった土地開発の主要目だけが進められるのではなく、古くからの土地柄がわかる史跡が残ってほしいものだ。

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大宮市見沼区蓮沼 八雲神社

2021-06-24 18:50:34 | 神社と歴史

さいたま市(旧大宮市)見沼区蓮沼。岩槻から大宮氷川神社に抜ける道は岩槻道と呼ばれ中世から開けた街道であった。見沼区蓮沼の地名はその名の通り、蓮の生じた沼が見える場所であったという。また当社の鎮座する区域は字薊ケ谷戸と呼ばれ、昔は薊(あざみ)が多く自生したところだったともいう。

薊(あざみ)は「あざむく」から転じた雑草で美しいと思って触れば棘があるという、古代から知られる華であったという。草冠に魚の利と書いてあざみ。リとはすなわち魚の小骨であって、鋭い棘を表している。

創建の年代は明らかでないが、口伝によれば古く古呂利(コレラ)などの疫病にたびたび見舞われたことから、これを防ぎとめようと牛頭天王を勧請したことを起源とし、獅子頭を作り、氏子の安泰を祈願するようになったという。

 古くは牛頭天王社と称したが、明治期に八雲社と改めている。ご祭神は素戔嗚命。

社殿は質素な一間社流造りで内陣に白幣を安置する。改築が嘉永五年(1852)に行われたと記録にあるようだ。

年間の祭祀として獅子回しと天王祭りがあるという。獅子回しは一頭の獅子をもって氏子各戸を祓って回る。回った家々ではお供え物として胡瓜を差し出したという。きゅうりの切り口は八雲神社の神紋に似ているからである。また初生りは神社へ備える習慣があったともいう。

キュウリの切り口が八雲、八坂の神紋に似ているというのは各地で伝わることで、区域によってはきゅうりの作付けを憚るところもある。これはいわゆる禁忌伝承であって、稲作中心の農地における、他作物の転帰を暗に禁じる意味合いもある。

岩槻から大宮氷川神社へと抜ける道は岩槻道とよばれ、内陸の重要街道の人一つであった。よって人の往来も多く、人流の激しさから疫病が運ばれたことはおそらく史実であろう。こうしたところに道の神、祓いの神を祀ることは至極自然な流れであり、牛頭天王が勧請された理由がよくわかる。また現在でも県道として非常に日中から車の往来も多い。

岩付城の城鎮守が久伊豆社であり、太田氏がこの道を通って氷川一之宮に参拝しその庇護を求めたのだろうか。

一間造の小さな社の裏には六道を案内する地蔵尊が建っている。今なお、コロナという疫病の蔓延によって社会が不安になっているが、江戸期以前にもこの地で道に迷う旅人や行商人は多かったことだろう。時代を超えて、流行病が治まるよう牛頭天王と六道の地蔵尊に祈る人々が後を絶たない。

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一進一退

2021-06-24 00:49:35 | 生活


我が家の軒先には雀が巣を作る。ここ数年毎年のこと。木々に囲まれ喉かで自然豊かな処ではあるが、住宅も維持していかなくてはならず、やむなく取り除くことにしている。ただし何度取り除いても同じところに巣を作る。



まさしく一進一退。よほどここが気に入ったらしい。ただしこちらもおいそれと玄関の頭上に巣作りされるわけにもいかない。
共存とはかくなるもたりと思う。互いの領域を犯さない。
都市部においては野鳥の集団発生に苦慮している地域も少なくない。昨年まで勤務していた東鷲宮駅前も雀の巣に悩んでいた。
共存は難しい。勝手なのは大概こちら側ではあるけれど。
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幸手市 上宇和田 香取神社

2021-06-12 22:27:07 | 神社と歴史

 幸手市に登録がある神社57社(埼玉県神社庁)のうち25社は香取神社である。同じ埼玉東部において私の地元行田市には香取神社は登録がない(実際には末社等であるのかもしれないが)。香取神社の御祭神は経津主命であるが、これは日本書紀においてのみ国譲り神話で出てくる神様で、古事記においては見当たらない。幸手市自体が子供のころからあまり縁もなく訪れることもなかったためか、香取神社は未知なる神社のように感じていた。

 利根川を渡るとこの香取神社はさらにに多く、文化圏の違いを感じざるを得ない。但し延々と広がる田園風景を見ると同じ武蔵の国。非常に親近感が湧いてしまう。

宇和田には上下があり当地は上に当たる。宇和田の『宇』は接頭語で和田は『輪田』であり輪状の平地を表す。大輪田の泊といえば神戸の古代の港で平家の繁栄を担った港。これも同じ転じ方。しばしば利根川の氾濫を受け開発が遅れたのどかな場所といえる。

口碑によれば甲斐武田氏の家臣でだった小河原氏がこの地に落ち延び、同家の氏神として祀ったと伝わる。『風土記稿』によれば『香取社村鎮守也金剛寺持末社八幡』とある。

境内に残る改築記念碑は大正13年のもの。前年の大正12年に起きたのが関東大震災。また昭和22年の台風の洪水によっても社殿が流出したと伝わる。(カスリーン台風)

幾多の災害を乗り越えて現在社殿は整備され、浅間様も見事な富士見塚の上に建っている。

この浅間様には漂流伝説が残っていて、昔大水で浅間様が水に流されてこの先の西関宿に流れ着いたという。そこで西関宿の人々はこの浅間様を祀り村の鎮守としたという。今でも西関宿に浅間様があり、この地の浅間様は『古浅間』と呼ぶそうだ。

氏子の小河原家はもともと当社を氏神様として祀っていたという。正月には本家に集い風呂を焚いて身を清めたともいう。これを六日間続けたのは、もとは小河原家は6軒であったことにちなむ。また同家では毎月13日と23日には塩を摂らないといういう。これは日待ち信仰によるもので、所謂禁忌信仰を通じて一族の健康と繁栄を祈願すものと考えられる。但しこうした記述は昭和末期に編纂された埼玉の神社によるもので、令和となった現在も続いていつかは不明である。しかしながら戦後から高度成長期を経て、地域や家族観が大きく様変わりしてきた中でも、こうした様々な風習、習俗が代々受け継がれてきたことは間違いなく、令和となって疫病が蔓延するなど、歴史的に古い過去の人々の営みが見直されていることが重視されるようになり、こうした記述を読み直すこともまた大切なことではあると感じている。

埼玉東部と県北東部の風習信仰の違いなど比較しながら郷土史探訪の旅を続けていきたいと思っている。

 

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梅シロップ作り

2021-06-03 23:45:00 | 食べることは生きること
 ここ数年、梅を自宅で漬けています。梅酒ではなくシロップにしています。

 自家製の梅があまりとれませんでしたので、今年は全量スーパーで青梅を購入しました。Y社です。


価格や品質にあまり差はありませんが、氷砂糖の価格は特売がかかり競合を下回っていました。売り手からすれば価格を『潜る』なんて表現しますね。


芽をしっかり取り除きます。細かい仕事が得意のようです。但し気が乗ればの話です。普段はズボラそのものです。


氷砂糖と梅の比重は一対一。カビ防止にリンゴ酢を加えています。


青梅は大小ふた瓶漬けました。完熟梅はもう暫く熟すのを待ちます。
斎庭の神勅の如く、日本人は何かを育てるのを好みます。味や価格ではなく、自分が育てて食す。ただ腹が満たされるだけではなく、育てる喜びを味わう。梅にはそんな魅力が溢れています。
#梅
#斎庭の神勅







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