長暦三年古利根川の氾濫の際上流から流れてきた不動尊を引き上げようとしたところ、突然地震が起こって引き上げることができず、下流の村でこれを引き上げて祀ったために、その地を不動岡と呼び、この地を岡震いと称した。
中世においては古江郷とよばれ、羽生の毘沙門天像には「武州太田庄北方古江郷」の銘文が残り、古くはこの地が郷の中心であったと考えられている。
江戸期までは岡古井村の鎮守であったが明治の神仏分離で寺の管理を離れた際村人の集会の場が移り、近くの通殿神社が村社になったことから、耕地持ちの神社となり、祭事も行われなくなってしまった。
戦前までは各耕地ごとに天神講が組織され、子供たちが学問の神である菅原道真公を祀り、通学の分団としてまとまっていたという。
人が集まることが祭祀においても重要であることを物語っている。
本殿には天神座像が安置されている。就農者の減少は耕地の整理と機械化で収穫量は維持することはできるが、こうした信仰を守ることは難しい時代に入っているのだろう。