皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

鯖缶ショック

2023-02-23 20:24:04 | 食べることは生きること

サバの缶詰が高騰している。一部メーカーは出荷を停止しているそうだ。(極洋)食品問屋に勤めていたころ缶詰と言えば極洋、マルハニチロ、宝幸水産など各メーカーが競って味や内容を問屋に売り込んでいたと思う(20年くらい前です)。よくサンプルと称して無償で新商品をもらったりもした。缶詰自体が時代の流れで消費量は減っているのだと思う。レトルトパウチの伸びが大きい。私が食品問屋にいることにはまだ缶切りで開けるタイプも多かった。今ではほぼプルトップ缶(取っ手がついていて引っ張ると開くタイプ)しか置いていない。おそらく子供たちは「缶切り」なるものを使ったことがないのではないかと思う。

日本の太平洋沿いを南から流れ込む暖流を「黒潮」オホーツク方面から東北沖に流れる寒流を「親潮」と呼ぶ。

サバは日本海で取れるものと、太平洋側で取れるものがあるそうで、東北沖で取れる漁獲高が激減しているそうだ。

原因の一つにイワシの存在があるそうで「イワシトルネード」と呼ばれるような大量のイワシの大群が発生し漁場にサバが近づけない。イワシの増加については黒潮の蛇行の影響が考えられるそうで、蛇行期間は観測史上最長になっているそうだ。

子供のころサバが嫌いだった。神社の祭事で神饌として奉納されたサバが食卓に並んでいたからだ。

当たり前に食べられえてきた水産資源が手に入らない時代が来ている。

ないと余計に買い占めなどが進み、物流の混乱も起きている。

 

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上ノ郷城と鵜殿長照

2023-02-21 21:12:18 | 歴史探訪

どうする家康、第六話は瀬名姫奪還作戦の上ノ郷城の戦いでした。創作を折り込みながらも非常に興味深い展開で、人質交換の史実に基づくドラマティックな内容で見ていて「大河ドラマ」(史実と創作のヒューマンスストーリー)を十二分に堪能できました。

今川義元の重臣鵜殿長照を演じたのは野間口徹さんで私と同世代。国立大学の理系学部を卒業しながら俳優業を志し、アルバイトしながら役者としての下積み時代を長く続けてきたそうです。普段は眼鏡をかけた姿が印象的で、はじめての時代劇で端正な表情が際立っていました。桶狭間合戦当時は尾張への最前線大高城代を務め、松平元康の兵糧入れによって窮地を逃れます。家康の今川離反(織田家との同盟)により敵対し、上ノ郷城で家康の三河軍に攻められました。このとき忍として服部半蔵が活躍した様子が描かれており、武家として討たれることを良しとせず自害した展開でしたが、実際には城が陥落した際城下に逃げ延び、坂の途中で討たれたとされます。

またこの上ノ郷城攻めで鵜殿長照の息子二人は生け捕りにされ、元康の妻子と人質交換されたのは史実のようで、長照亡きあと今川氏に戻った息子氏長、氏次はその後戦国の世を今川、徳川と主君を変えながら生き長らえている。特に長男氏長は今川没落後は徳川家に使え姉川、長篠合戦等に従軍している。

徳川政権誕生後は譜代の家臣として列し、慶長二十年(1615)の大坂夏の陣では重要な役目を果たしている。

東海一の弓取りと称えられた今川義元亡きあと、多くの家臣は離反している。大河ドラマでは鵜殿長照の忠義の様子が氏真によって称えられているが、実際には長照自身も最前線の上ノ郷城で悩んでいたに違いない。

家康と長照の違いは何だったのだろうか。儚く散った鵜殿長照の姿を忘れることなく今後の展開を見守りたいと思っている。

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行田市 和田神社

2023-02-21 20:32:10 | 神社と歴史 忍領行田

行田市和田はかつて条里制水田が広がっていた区域で、現在も多くの田んぼが残る。行田市にこの条里制による地名がいくつかのこっていて斎条、中里などいまでも大字として見られる。

和田地区は現在一和田と二和田とに分かれ、こちらは二和田になる。一和田は旧白河村の一部で現在も八坂神社を祀っている。『風土記稿」和田村の項には『伊森明神社、村の鎮守とす宝珠院持、蔵王社、同持」とありこの「蔵王社」が当社にあたり古くは蔵王権現と称した。明治の神仏分離により寺の管理を離れ、社名を御嶽神社と改め、明治41年社号を和田神社としている。

大正12年の関東大震災により本殿拝殿が全壊となったが、同地区の地主竹田恒太郎の所有する地に移転し大正14年社殿を新築している。このときの移転造営費用は七千八百円といわれ、現在の価値からすると一億近くになる。当時の氏子戸数は約60軒であったことを考えれば、大変な額である。

社殿は八幡造りで串瓦の外側に和田神社と社名が施されている。現在の御祭神は大己貴命と少彦名命。

境内地北側には星川が流れており、神社裏は堤の一部となっている。古くは水稲稲作と養蚕が中心であったが、戦後麦畑への転用も進んでいる。

明治45年の合祀記念碑が残っている。農業中心であった明治、大正、昭和の高度成長期にかけて、農耕暦に基づく祭りが続いていたが近年では勤め人が多くなっており、親和会を中心とした地区祭事へと引き継がれている。

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川越氷川神社

2023-02-20 19:34:57 | 神社と歴史

川越は都心から三十キロ圏内に位置し、交通の便がよく江戸の情緒を感じさせる蔵造りの町並みや多くの寺社が残ることから、近年は首都圏を代表する観光地として賑わいを見せる。 「川越」という地名は時代により「河肥」「河越」などとも表記されたがいずれにせよ周囲を川に囲まれた肥沃な土地である。かつてこの河川を利用した舟運により江戸との物流が盛んに行われ物資だけでなく江戸の文化や流行がいち早く伝わったことから当時から「小江戸」と呼ばれていた。また豊かな自然に恵まれた「武蔵野」とよばれる景勝の地はこの氷川神社が北端とされている。

創建について氾濫を繰り返し幾度も流れを変えてきた入間川を畏れ、出雲の簸川にこれを見立てて大宮の氷川神社より勧請したと伝わる。御祭神は須佐之男命、稲田姫命、大己貴命、足名桂命、手名桂命の五柱。

中世に入り長禄元年(1457)当地の要害を利用して太田道真、道灌親子により川越城が築城される。以来城主の崇敬厚く、城の神門(戌亥)の守護としてまた川越の総鎮守として崇められるようになった。

道灌は『永享記』という書物のなかに次のような句を残している。

 老いらくの身をつみてこそ 武蔵野の 草にいつまで残るしら雪

境内末社のひとつに人丸社がある。戦国時代丹波の綾部から近江を経て移住した綾部家の祖先柿本人麿を祀っており、これは武蔵国内では唯一のものだという。人麻呂の神像が奉納されていて、文久二年に盗難にあったところ、盗人が逃げる際急に目がくらんで難を逃れたという逸話が残っている。

御祭神が二組の夫婦神と出雲大社の大己貴命を祀ることから縁結びの神として信仰を集めている。奉納された絵馬の数はまさに圧巻の一言に尽きる。本殿脇の樹齢六百年の大欅は台風の影響で欠けてしまっているが、その雄大な佇まいを残している。

境内地東側の大鳥居は木造鳥居として国内最大級の規模を誇り、懸かる篇額の記号は幕末の志士勝海舟の手によるもの。また代表的な神事に八坂祭り、川越祭り、お衾替神事がある。

川越祭りは「天下祭り」とも言われ赤坂山王祭、神田明神祭をそのまま移したのとされ、全国でも江戸の祭りの古い形を伝える唯一の祭礼とされている。

多くの人々が蔵造りの街道を抜け賑やかな境内で参拝する一方、明治十四年に護国神社も建てられている。

西南の役以降川越出身の戦役軍人ら英霊を奉斎している。

川越の歴史を今に伝える総鎮守。夕暮れ間近の時間でも多くの人々で賑わっていた。

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菖蒲神社

2023-02-16 20:16:16 | 神社と歴史

古河公方足利成氏(しげうじ)が家臣の金田則綱に命じて康正二年(1456)に関東管領上杉氏に対する前線基地としてこの地に築かれたのが菖蒲城と言われている。その竣工が五月五日であったことから菖蒲の節句にちなみ菖蒲城と称された。

当社はもとは袋田明神と称し、『風土記稿」においては「袋田明神祭神は稲田姫命、神体銅鏡にて本地薬師像を彫れり、裏に寛文九年(1669)と見ゆる合殿に鷲宮・久伊豆の両社を置き云々」と記される。別当の吉祥院は真言宗の寺院で開基は菖蒲城主佐々木源四郎という。佐々木氏は金田と称し後に小田原北条氏に与するも天正十八年(1590)に豊臣秀吉によって滅ぼされたという。

当社の大元となった袋田明神の社名は氏子の間では見沼大用水を隔てた新堀の地に祀る久伊豆神社の御祭神大己貴命のお袋(母親)が稲田姫命であったことに由来すると伝わる。久伊豆神社の総本社は騎西の玉敷神社とされる。また近郷の鷲宮神社の御祭神は武夷鳥命(たけひなどりのみこと)でありこちらのお袋(母神)も同じく稲田姫命であり、武蔵国の古社二社のお袋であるとも称する。戦国期まで鷲宮と久伊豆はその勢力を信仰氏神が違うことで争う一面を有していたが、古利根川流域の鷲宮、元荒川流域の久伊豆と大まかに分かれている。その両神社の母神として上尾、加須、鷲宮への道が交差する交通の要所に鎮座するお社である。

境内にある藤の大木は昭和二十七年に埼玉県天然記念物に指定されており樹齢400年を誇る。大正二年藤の下にあった池を埋めて広い柵を作ったところ樹勢が盛んになり、大正天皇の即位に合わせ「君万歳の藤」と名付けられている。また天明八年(1788)奉納の絵馬は百首の和歌と作者の図柄が描かれた他に例を見ないもので久喜市指定文化財となっている

また一月十五日のどんと焼き左義長も盛大に行われ、菖蒲地区の中心的神社としての役割を伝えている。

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