皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

佐間 神明社

2023-06-16 23:30:26 | 神社と歴史 忍領行田

「埼玉の神社」(埼玉県神社庁監修)によれば行田市内の神明社は二社しかなく、旧南河原村の馬見塚と中里の沼尻に鎮座する。両社とも旧村社で各々ささらや小高盛りといった古くからの神事が伝わり、地区の鎮守様となっている。新町通りを過ぎて、さきたま古墳の手前地元の銘酒川端酒造の少し先に小さな鳥居が建っている。「佐間神明社」と刻まれており細い参道を抜けると立派な神明造りの社殿が見える。

天照大神を祀る神明社は各地に残るが、明治の合祀政策でより大きな最寄りの村社に合祀されたところが多いと考えられる。恐らくここ佐間の神明社は佐間天神社に合祀されたのだろう。御祭神は大日婁貴命(おおひるめむちのみこと)天照大神の別称でおそれ多いことからこう呼ばれていると考えられている。

三連の幣束は三貴神を表しているのではないかと思う。こうした維新後の合祀政策で登記上合祀されながらも、その飛び地として旧来の神社を祀ることは多い。同じ地区であっても字が異なれば守ってきたお社も違いその信仰は時代を越えて受け継がれる。同じ行田地区では若小玉に同じように宅地に囲まれる様に神明社が建つ。祭事は昔からのとなり組で奉仕するらしい。

戦後の神社本庁中心とした地方の神社の登記整備はある程度の歪みを産みながらも現在へと繋がる。大事なのは氏子、参拝者の崇敬の念を守りながら礼拝施設として維持されていることだ。

美しい神明造りの千木と鰹木を拝みながら、こうしたお社が次世代へと受け継がれることを願っている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

行田市 和田神社

2023-02-21 20:32:10 | 神社と歴史 忍領行田

行田市和田はかつて条里制水田が広がっていた区域で、現在も多くの田んぼが残る。行田市にこの条里制による地名がいくつかのこっていて斎条、中里などいまでも大字として見られる。

和田地区は現在一和田と二和田とに分かれ、こちらは二和田になる。一和田は旧白河村の一部で現在も八坂神社を祀っている。『風土記稿」和田村の項には『伊森明神社、村の鎮守とす宝珠院持、蔵王社、同持」とありこの「蔵王社」が当社にあたり古くは蔵王権現と称した。明治の神仏分離により寺の管理を離れ、社名を御嶽神社と改め、明治41年社号を和田神社としている。

大正12年の関東大震災により本殿拝殿が全壊となったが、同地区の地主竹田恒太郎の所有する地に移転し大正14年社殿を新築している。このときの移転造営費用は七千八百円といわれ、現在の価値からすると一億近くになる。当時の氏子戸数は約60軒であったことを考えれば、大変な額である。

社殿は八幡造りで串瓦の外側に和田神社と社名が施されている。現在の御祭神は大己貴命と少彦名命。

境内地北側には星川が流れており、神社裏は堤の一部となっている。古くは水稲稲作と養蚕が中心であったが、戦後麦畑への転用も進んでいる。

明治45年の合祀記念碑が残っている。農業中心であった明治、大正、昭和の高度成長期にかけて、農耕暦に基づく祭りが続いていたが近年では勤め人が多くなっており、親和会を中心とした地区祭事へと引き継がれている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

忍 東照宮

2023-01-10 14:24:34 | 神社と歴史 忍領行田

忍城址のある内行田地区は室町期成田親泰が城を築き、城下の造営を進めたことが発展のはじめとされ、江戸期には十万石の城下町の中心として栄えた。

当社は家康の娘亀姫が父の肖像画を頂き、子の松平忠明に伝え、忠明が大和国郡山の地に社を造営して肖像画を安置したことに始まる。別当として久昌院が祭祀を奉仕した。以来藩主の崇敬する神社となり松平家移封のたびに遷座され文政六年(1823)桑名より別当ともども忍城内へと鎮座した。

(行田市HPより引用)
明治始めの神仏分離令により藩主東京移住のため祭祀断絶の危機を迎えるが旧藩士らの存続運動で諏訪郭内の諏訪神社境内に本殿を移し、明治三十三年(1900)藩祖松平忠明公を配祀し現在に至っている。明治維新の際旧親藩である忍藩は多くの私財を没収され、苦難の時を迎える。当時の混乱の様子は今も所々に残されていて、忍城下の御門や多くの城郭址は各地に散って行ってしまった。東照宮に対する信仰も多くはそがれようとする中でも、旧藩士らは苦労してその信仰を伝えたのだった。
そのうちの一人が旧士族の鈴木敏行であって、皿尾久伊豆神社の従軍の碑(日清戦争)の撰文は敏行公のものである。

社記によれば旧藩時代の祭りは四月十七日でこの日だけは庶民にも参拝が許されたという。現在続く行田の市民春祭りは、私が子供のころは「権現様」と言って東照宮の前が中心であった。江戸期にはこの祭りに際し多くの村々から奉納金があり、講中も大変栄えた。古記録に「嘉永五年(1853)四月行田町八十両奉納」とあり城下で地代の徴収が免除されたことに対して町民が地代に変えて奉納したものと考えられている。江戸期の徳政がよく伝わる話である。
(近年ふるさと納税の弊害が伝えられていて、返礼品の送付やその他必要な経費によって税収の赤字が進んでいる。国の交付金によってその穴埋めがされていて本末転倒な事態となっている。歴史に学ばないとはこのことだろう)

本殿前に奉納された一対の灯篭は天保五年の藩主松平忠堯公によるもの。

御神体となる家康公肖像画に関する由緒が非常に当時の親子の情を語るものである。
 家康公の嫡女亀姫は慶長十六年(1612)美濃加納より駿府へ帰省した際、父家康に対し歳を重ねたのに及び兄弟は皆膝下に近侍して親孝養を尽くすことができるが、自分は女子であって遠く離れた場所にあり、看護も心に任せず甚だ残念なことを嘆いた。家康之を諭し且つ女子に生まれて家督を継ぐこともかなわず故何事も望みに任せてやろうといったので、即ち父の画像を賜って朝夕にこれを拝みたいと答えた。
 家康直に画師に命じて己を描かせたるも意に満たさず再々改帳を命じて初めて会心の作を得たので自らが精神この画に宿るという意味を別紙に認めて之を与えたという。

四百年に及ぶ天下泰平を遂げた家康公が自らの長女の願いに懸命にこたえようとしたことが伝わってくる。
今年の大河ドラマは「どうする家康」
その生涯にに触れながら私たちが今の世の中でどう生きてゆくべきか指針をとなるべき教えを学んでゆきたいものである。一年間楽しみだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小見 久伊豆神社

2022-10-13 19:20:06 | 神社と歴史 忍領行田

扇状地末端で水が湧き出る場所を「おみ」と呼びそうで、周辺には「谷郷」や「若小玉」といった水に由来する地名が並ぶ。小見といえば真言宗真観寺が有名で、当社を「鎮守さん」真観寺を「観音さん」と呼び参拝するときは必ず両寺社にお参りするのが習わしだという。

当社は旧小見村の鎮守であり幕政期は修験専蔵院が別当を務めた。往時「久伊豆社」と号し社号額に「正一位久伊豆社」とあったことから、江戸期には吉田家からの宣旨を有していたことがわかる。
忍城成田家は久伊豆神社を守護として祀り領内各所に勧請している。成田家の出生地である上之、忍城に入場する前に居を構えた皿尾、忍城の鬼門口である長野、裏鬼門に当たる持田の大宮口、岩槻からの守りを固めた野、羽生領との境を接する真名板、そしてここ小見である。
日光脇街道に近く、舘林方面からの守りを固める意図があったのだろう。現に天正十八年豊臣軍石田三成の忍城攻めに当たっては、三成本陣が舘林から丸墓山に至るまでに周辺を通って、寺社を焼き討ちした記述が残っている。

明治六年に村社となり、近隣の諏訪神社天神社等を合祀している。御祭神は大己貴命・事代主命であり、末社の八坂神社の天王様の祭りには獅子頭をもって氏子区内を練り歩く。

真観寺の北側を守るように建つ社殿はまさに小見地区の御鎮守様そのものであり、時代が変わってもなお農村地域としての風習をのこしつつ、氏子に親しまれているようだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

斎條 剣神社

2022-09-22 20:41:27 | 神社と歴史 忍領行田

行田市斎條は西条とも書き、条里制水田に由来した地名である。同じく私の住む星宮地区の中里も同じ条里制に由来する地名だ。
社記によれば景行天皇の御代御諸別王(みむろわけおう)が勅命を報じて、父彦挟島王(ひこさしまおう)に代わり東国支配を宣言する。ご祭神として御諸別王を祀る御室神社は加須市にある神社で、この時代の地方支配を今に伝えている。(樋遣川古墳群)御諸別王は東国開発の祖である日本武尊の霊を水陸の要である当地に守護として祀る。さらに康平五年(1063)には八幡太郎義家が安部氏を討伐するにあたり、社前に馬を休めたと伝わる。行田八幡神社も源頼義、義家親子の伝承が残るなど、武家社会より先にこの地(忍の行田)が東国の律令国家の支配の重要地点であったことを伝える伝承である。
利根川の酒巻交差点からわずかに離れた場所に鎮座しており、長く治水に苦心した歴史を伝えるように本殿は小高い塚に乗るような作りとなっている。利根川沿いの神社に多く見られる作りである。
御剣様と呼ばれる当社は斎条の鎮守として信仰され、毎月二十七日が縁日に当たる。農耕地区らしく春の祈年祭、秋の感謝祭を執行する。夏祭りは天王様ともいわれ末社八坂神社と合わせて氏子の無病息災を祈願する。三百貫ほどの神輿を担いでいたといい、最後は星川まで行って川に入れて揉んでいたという。また八坂社の地元の大道耕地ではキュウリの切り口が八坂様の神紋に似ていることから作作りしなかったという。
終戦まで神社境内に宮守が住み祈祷を行っていたという。
利根川からすぐ近くに広がる田園地区の氏神様として今も多く農耕信仰を集める神社である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする