皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

ブルショット・ジョブにあふれた世界を生き抜くには

2022-11-21 19:57:41 | 物と人の流れ

物価高騰に直面した社会の中で、多くの矛盾や過去の政策の失敗が明らかになりつつある中でも今日明日の私たちの暮らしが激変しているわけではない。本当の有事は音もなく忍び寄るというが、少しづつのわずかな変化の繰り返しが私たちの社会生活をよくもし、悪くもする。
イノベーションという言葉がもてはやされ、多くの企業が経営に反映するよう努めているが、技術革新、創造的進化なるものが一朝一夕に叶うものではないことは確かだ。

ペーパーレス社会の進行によって、デジタル教科書の導入も近い。覚えた知識を紙に書いて答えるというこれまでの教育も見直される日が来るだろう。しかし幼少期における(青年期まで含め)社会的また科学技術的な基礎知識を記憶にとどめ、人格と知識を融合し成長するのに本を読み筆で書き伝えることは文化的に最低限必要なことだろう。まさにデジタル社会の進行は過渡期なのであって、すべてデジタル化することが有益ではないだろう。

自動運転が実現する未来も近いが、「人間にしかできない仕事」ほど労働条件が厳しくなっている。社会のインフラと化したコンビニの業務はまさしく多岐にわたり、店員一人の働きをすべて機械化するには現時点では不可能に近い。介護や医療の現場においても相手に合わせた細かいケアが必要であって、エッセンシャルワーカーと呼ばれる仕事はロボットの対応が進まないのだ。(私自身もその現場にいる)
しかしそうした社会的に絶対に必要である仕事ほど労働条件が厳しく低賃金である傾向が強い。労働時間が長くなることが顕著である。

一方商品を売り込む広告や、業務改善などにつながるコンサルタントなどは非常に華やかであるとともに経費をかけ、働く従業員の給料も高い。ただしよくよく考えれば、社会的に絶対に不可欠とは言えず、その内容も時代に合わせて変化が大きく、結果に直結しなけれすぐに消えてしまう。
例えは悪いが販売業における接客調査などがその最たるもので、チェーン化され多くの従業員を教育管理する手間を省くため、現場の仕事ぶりをお客様の視点で覆面調査する。お客様にとって不快と思われる従業員には管理者を含め指導と評価がなされるので、現場の意識向上につながるそうだ。

そうした指導をされて従業員の考え方が変わるとはとても思えない。いわゆる背面服従の労働者を生産するだけだろう。
「ブルシット・ジョブ」とは「くそどうでもいい仕事」と訳される。
資本家にとっては細分化された仕事に就く従業員をいかに効率よく働かせるかが重要なのであって、内面の問題は関係ないのである。
私たち労働者は仕事における構想と実行をできるだけ共有し、仕事に対する喜びを自ら見つけ働き方、生き方に反映させるしかないのだ。
そのために技術向上、労働時間管理、デジタル化といったものを自分で取り入れ進化していくしかないのだ。
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令和四年 霜月花手水

2022-11-19 23:47:37 |  久伊豆大雷神社

行田市商工会と市の観光課が中心となって行われている、市内のイベント花手水。すっかり行田市の観光の中心的役割を果たしています。行田八幡神社、忍城を中心に毎月二週間花を刺し、毎月第一土曜日にライトアップイベントを行っています(希望の光)。十一月は第三週で、本日が年内最後のライトアップの日でした。
市街地から2キロ離れた小さな神社ではありますが、観光課から声がかかって当社も花手水を始めて一年以上が経ちました。

夏から秋にかけてマリーゴールド中心の手水でしたが、晩秋から初冬を迎え境内地内に咲く菊の花を挿しています。花を用意するのが大変という声を聞いたことがありますが、お陰さまで自然に任せた花花で、花手水を飾ることができています。

空気が澄んで晴れの日には西の秩父連峰の美しい山々を見ながら花を挿しています。
神域の尊厳と自然との調和、そして人がなす手水舎の華やかさ。
本格的な冬の到来の前に、もうしばらく花々の賑わいで癒されることができそうです。
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幸手市 神明神社(右馬之助町)

2022-11-19 23:01:00 | 神社と歴史

日光街道の宿駅であった幸手宿は五つの町内に分かれ、当社はこの右内馬之助町の鎮守として祀られてきた。この地の開拓者である新井右馬之助は一色氏の家臣であったであったが、その後当地に土着し代々名主を務める家柄となった。

元禄十二年(1699)に幸手宿に取り込まれ街道の面して旅籠屋や問屋などが軒を連ね、宿場町として多いに発展を遂げている。

当社の崇敬の高まりには菅谷不動尊と成田不動尊の二つのお堂の建立があげられる。これらは安政二年(1855)に豪商上野谷庄兵衛が祀ったもので、二つの不動尊のうち、菅谷不動尊は「田螺不動尊」とも呼ばれている。眼病に悩む人々を救い、目を病む人々は田螺を食べることを断って不動さまに絵馬を奉納したという。医者にかかかってなおらなかったものが不動さまにお願いしたところすっかり治ってしまったという。
参道入り口に残る灯籠の台座に記号高低標が残っている。「「不」の記号が残されており、明治七年(1875)にイギリス式の測量が導入された名残だという。東京・塩釜(宮城県)間の水準測量を行った際神社の鳥居や灯籠に刻まれたもので横線(ー)は水平を、下の部分は三脚を表している。明治以降神社は合祀政策によって村社を中心に数が纏められたが、土地の場所を示す役割を果たし、こうした測量記号が残されることが多かった。
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幸手市 一色稲荷社

2022-11-17 22:30:46 | 神社と歴史

幸手といえば桜の名所権現堂があまりにも有名で、町全体が桜のイメエージで施されているがそもそも「幸手」とはアイヌ語で乾いた原野を語源とするともされるが詳しくはわからない。日本武尊の東征の際「薩手ヶ島」に上陸したとの説もあるが薩手が転じて「幸手」となったと考えられている。また全国の市町村で「幸」の字が表記されるのはここ幸手市だけだそうで、「日本一幸せな町」を目指している。

江戸期からの日光街道の宿場町で、権現堂川の水運と相まって近郷の中心地であったという。

幸手駅そばの一色稲荷社は幸手城の跡地と考えられている。幸手城は下総古河公方足利成氏の枝城で越後上杉に対する備えとして一色氏に守らせたものと伝わる。天正十八年小田原落城とともに廃城となった歴史を持つ。

古河公方足利氏の家臣一色直朝は天文年間足利晴氏に従いその子義直は小田原落城後は徳川家康に仕えている。一色氏の幸手城はその姿を今に伝えることはないが、館の位置から南東(巽=裏鬼門)に祀った稲荷社がここで陣屋稲荷または一色稲荷として現在に伝わる。
駅から旧日光街道に出る途中に当たり、多くの幸手市民が今日もお稲荷さんの前を通りそれぞれの目的地へと向かっていた。
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春日部 八幡神社

2022-11-15 20:57:19 | 神社と歴史

春日部郷は下総国葛飾郡下河辺荘に属した中世の郷で、戦国時代には「粕壁」「糟ケ辺」とも表し、鎌倉時代には紀氏系春日部氏が拠点とした。延元元年(1336)後醍醐天皇は「下河辺荘内春日部郷地頭職」を春日部滝口左衛尉重行に宛がっている。
当社はこの春日部郷の中心地であった浜川戸に鎮座し、境内の北東側の高台は春日部治部少輔時賢の館跡と伝わり、周辺の発掘調査で平安から鎌倉時代にかけての住居跡が発見され春日部氏一族の遺跡として考えられている(浜川戸遺跡)

「武州春日部八幡宮縁起」によれば新田義貞の家臣春日部治部少輔時賢は日頃より鶴岡八幡宮を厚く信仰し弓馬の武運を祈っていた。元弘元年(1331)鶴岡八幡宮に参篭して祈願していたところ、満願の夜明けに不思議な容姿の老翁が現れて「汝の城周辺に清浄な地があるので、彼の地に鎮座して繁栄を守るであろう。よってその土地を示す霊木を生やす」と教示した。

また鶴岡八幡宮の御神木の銀杏が社前に飛んできて一夜のうちに繁茂して大樹になったとも伝わる。それが現在の社殿前に生える御神木だという。
このように当社は春日部治部少輔時賢が元弘元年ごろ鎌倉鶴岡八幡宮を勧請し以来春日部郷の総鎮守となっている。本殿裏には桃山時代の建造とされる一間社流造の旧本殿があったが(市指定文化財)平成七年不審火によって消失しているが翌年「奥の院」として再興されている。

境内地全体が中川低地の河畔砂丘群となっている。これは榛名山、浅間山などの火山灰が由来する大量の砂が平安から室町時代ころにかけて強い季節風によって利根川の旧河川沿いに吹き溜められた内陸性の砂丘である。(埼玉県天然記念物)

参道入り口には「都鳥の碑」が立っている。在原業平が武蔵国と下総国との境である隅田川の渡しで詠んだ句であり
名にしおはば いざ言問はん都鳥 わが思う人は ありやなしや
という名句である。
船の船頭が「早く船に乗らないと日が暮れる」というので船には乗ったが、わびしい気持ちになって都に思う人がいなくもないことを思い出す。そこで都では見たことがない鳥を目にしたので船頭に尋ねると「みやこ鳥」というのだ。都を離れた遠い旅路での内面を浮かび上がらせる歌たとして業平の代表作とも伝えられる。

春日部の総鎮守を参拝するにあたり美しい御神木の紅葉を目の当たりにし、御神徳を一層感じられる旅路であった。




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