皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

宝登山神社 令和五年 皿尾講登拝

2023-10-30 21:16:22 |  久伊豆大雷神社

令和五年宝登山神社ご眷属お借換え代参登拝をしてまいりました。皿尾講と呼ばれる五人講で現在でも約30軒のお宅がお札を受けています。

お犬替えとも呼ばれるお札の由縁は宝登山に纏わる日本武尊の伝説に由来します。日本武尊が宝登山にお登りになった際、山火事が起き、どこからともなく現れた山犬がその火を消し止めたというものです。この故事にちなみ宝登山は古くは「火止山」と書き、火災・盗難除けに霊験あらたかと伝えられてきました。そのご眷属をお札として各家々にお祀りしているのです。江戸中期ごろには宝の山に登るとの表記があり、そのころから先達や修験者を通じての布教活動から、各地で講社が生じ多くの参拝者が寄るようになったと考えられています。
当皿尾地区の講社(皿尾講)がいつから宝登山に登拝しているかは明らかではありませんが、昭和四十二年久伊豆大雷神社鳥居奉納額は当時の宝登山神社横田茂宮司の揮毫です。横田宮司は埼玉県神社庁長も務めた埼玉県神社界の重鎮として知られていますが、大戦中の軍人を務めていらしたそうです。
私が初めて宝登山神社助勤にてお世話になったのは昭和六十三年の冬。高校一年生のことです。「君が皿尾の神主の倅か、しっかりやり給え」背筋を伸ばして聞いたことを今でも覚えています。
三十年後、講社の世話人として代参を案内しています。

本日の御祈祷は禰宜様斎主が務めてくださり、直会での講話では助勤として勤めていた私の父の思い出話をしていただきました。もう二十年以上前のことですので宝登山神社の職員のかたも多くは代わられていますので、父ことを知る人も少なくなりました。

講社の講員も高齢化が進みましたが、宝登山とのご縁を繋ぐ役割を果たしていけたらと思っています。

直会の食事は上長瀞の蕎麦内田屋さんでいただきます。少人数での代参ですが、こうした一日旅が無事にできたことを嬉しく思います。

長瀞は天下の勝地
宝登山は千古の霊場
御神徳を授かり講員の待つ忍領への帰路へ着きました

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ソーシャルキャピタル(social capital)

2023-10-19 22:53:02 | 物と人の流れ

ロシアウクライナ紛争の行く先も見えない中で中東情勢も混乱を極めている。イスラエルの歩んできた歴史を学べば自衛という名の武力行使は常に名目だけでは終わらないことは確かだろう。隣人を信用できない社会は常に境界線を厳しく敷く。海に囲まれ戦後の平和な暮らしを甘受してきた私たち世代には易々とイメージできない社会のほうが世界ではスタンダードであることを改めて認識しなければならないだろう。

radio番組の経済コーナーで有名大学の教授が「ソーシャルキャピタル」(social capital)につて話していた。19世紀に生まれ1972年に論文化された概念で「社会関係資本」と訳される。エネルギー供給や交通網の整備といった社会的インフラは目に見えるけれども、隣人との信頼関係や、政治への信頼といった内面の問題は可視化できない。人々の信頼関係が強く、協調的行動が顕著な社会ほど効率的で生産性が高いという考え方。

米国におけるコミュニティーの衰退や過度な個人主義への反省が根底にあって、おおよそ日本では昔は高い傾向にあったと考えられる。日本では「お互い様」という言葉があるように、協調性は高い傾向にあると考えがちだけれど、近年ではそうとも言えない。格差が分断を生む構造が浸透してきて久しい。

自国を信頼していますかという問いに、今の日本の多くの人は「どちらともいえない」と回答するそうだ。これはフランス人にも共通しているという。
「皮肉の国」という風で自国に誇りを持ちながらも、自信を失いかけている時の表れだという。だからNationalチームのスポーツ応援が盛んになるという。
本当は自分や自国に誇りを持ち、隣人を信頼する社会を望んでいるはず。
ソーシャルキャピタルという言葉が多くの人々に浸透し、そうした社会が根付くことを願っている。
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高崎 美保大國神社

2023-10-15 22:16:59 | 神社と歴史

昭和二年に始まる世界金融恐慌のさなか、日本の経済も疲弊し商工業は不振を極め、倒産が相次ぎます。
高崎市では商工業者の間に美保神社の御祭神である事代主神の御分霊を迎え商工業の振興をはかりたいとのとの計画が立てられ、当時の高崎市長始め商工業者の努力により昭和四年九月二十日、すでにお祀りしていた大国主神と共に、奉斎式を執り行い美保大國神社としました。

大黒様、恵比寿様は出雲の国譲り神話に登場する、重要な神様として知られます。
また福徳円満な神様で商工業はもちろんあらゆる産業、芸能、交通安全の神としても知られ、古くから神棚でお祀りしてきました。
高崎神社の境内社として恵比寿講などの賑わいで知られています。
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神無月花手水と三方領知替二百年

2023-10-09 20:06:55 |  久伊豆大雷神社

十月が一週間が過ぎて急に気温が下がりました。秋を通り越して初冬の陽気となり、身体がついていかない方もたくさんいらっしゃることでしょう。気温と共に湿度が下がったことで空気感が全く変わったように感じます。皿尾城周辺の田んぼも稲刈りが進んでいます。
月初めは商工会と観光課が主催する行田花手水weakに当たり、ライトアップも含め社頭の花手水を改めております。どうぞご参拝の折にご覧ください。

今年は文政六年(1823)の三方領知替から二百年ということで、市内各所に幟がたてられています。
白河藩主松平定永の父定信が先祖ゆかりの地で肥沃な伊勢桑名への転封を希望し、阿部家は巻き添えを喰ったのだといいます。いつの時代もそうした政治の権力闘争はつきものなのでしょう。当時の阿部家当主正権は若くして病弱の上転封ご十七歳で病死しています。老中を輩出し続けた銘家阿部家は慶応二年(1866)白河から陸奥棚倉へ移され廃藩置県を迎えます。無念だったことでしょう。
転封後も阿部家は忍藩の神仏を崇敬し、刀剣などを奉納しています。その奉納品が当社に残っています。
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渋谷氷川神社

2023-10-09 19:27:17 | 神社と歴史

渋谷区東二丁目に鎮座する氷川神社。古くは氷川大明神と称し、旧渋谷村、下豊澤村の総鎮守であったといいます。
慶長十年(1605年)宝泉寺の住職実円が記した「氷川大明神縁起」によれば景行天皇の御代皇子日本武尊東征の時当地に素戔嗚尊を勧請したのが始まりと伝わります。

その後嵯峨天皇の弘仁年中(810~24)慈覚大師が宝泉寺を開祖し同寺が別当となりました。天明二年((1782)正月阿部備中守へ差し出した書類の中に別当宝泉寺の内裏から出火し炎上したことが記されていて、宝物等はこの時に失われたと考えられています。
神社の周囲は石器時代の土器や竪穴式住居が掘り出され、非常に古くからの文化部落の中心であったことから渋谷区最古の神社と呼ばれます。
昔は松杉が多く茂り昼なお暗く門前を渋谷川が流れていたことが「江戸名所図」などからうかがい知ることができます。
江戸名所図によれば御神木とされる古木があり「常盤松」と呼ばれ、常盤御前の手植えによるものとする伝承があるそうです。すでに枯れて古株が残っていたそうで「常盤松」と呼ばれるようになりました。
九月二十九日の例際にはかつて大相撲が開かれ「渋谷相撲」「金王の相撲」と呼ばれ将軍家でさえも見に来たとも伝わります。
昭和十三年建立の檜造りの社殿は空襲によっても罹災せず、都内有数の木造神社建築を誇ります。
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