皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

権現堂川と舟渡橋

2022-05-29 21:55:13 | 史跡をめぐり

権現堂川は寛永十八年利根川が改修工事で大日川(渡良瀬川)に合流された後出水時には度々領内で氾濫するため、対策として人工的に開削されたと言われています。その後江戸時代から昭和のはじめまで江戸への重要な水上交通の場として大きな役割を果たしてきました。

権現堂川沿いの五霞町、幸手市、栗橋町は舟の往来が多くなり、河岸場が広がる岸に回船問屋が栄え上りは年貢米、穀物、木材などを下りは塩、日用雑貨、肥料など多くの舟が往来し、人びとの交通の重要な足となりました。

鉄道路線の発達と共にその役割を終え、中川総合開発事業により昭和四十七年(1972)多目的ダムとして地域に貢献する平地のダムとなったのです。
幸手市(埼玉)と五霞町(茨城)を結ぶ「舟渡橋」は県と県とを結ぶ越境橋であること以上に、『過去と今との出会いの場』であり、関東有数の桜の名所権現堂桜堤の名橋として訪れる人びとに親しまれています。
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佐間学校跡

2022-05-26 22:07:07 | 行田史跡物語

明治二十二年(1888)成田町、行田町、佐間村が合併して『忍町』となり妙音寺にあった埼玉村との組合立の温知学校を廃して天神社社務所に忍第三教場を開校し明治二十五年より佐間尋常小学校として四十一年三月まで独立校としてあった。
建立地 佐間天満天神内

佐間天神社は享保五年((1720)京都吉田家から神位を与えられ正一位天満天神社と号した。
『忍名所図会』等によれば社殿の創建は文化十年(1814)八月二十五日再建とある。

享保五年は阿部家四代阿部正喬(まさたか)は若いころ大変粗暴で、侍講である三宅尚斉が進言した折、家臣らと共三年ほどに獄に入れたという。正喬は壮年になってこれを大いに恥じ、尚斉に深く詫びて学問に励んだという。
 老中の職務を終え忍に帰城することが多くなり、学問の神である天神社を大事にしたという。
明治六年佐間村ですでに寺子屋を開いていた妙音寺をそのまま『佐間学校』として用いることにした。当時佐間村の財政では小学校を運営する余裕はなく、埼玉、利田、渡柳、佐間との四村で組合立の小学校とした。町村制が敷かれ佐間、成田、行田町が合併し『忍町』となったのは明治二十二年(1870)。明治二十五年に小学校令改正に伴い佐間尋常小学校となり、大正四年行田尋常小学校今津印刷所裏に新築されるまで天神社内に佐間学校として存在したとされる。
令和四年には中央小学校と星宮小学校が合併し『忍小学校』が開校している。
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荒川の恵みと北埼玉の風景

2022-05-25 09:44:41 | 郷土散策

五月皐月も後半。いよいよ田んぼに水が引かれています。埼玉県行田市は利根川と荒川に囲まれ、肥沃な農地が広がります。田圃の水利については元荒川水利組合が揚水し、各地の揚水貯水池から各地区に水を引いています。
「父なる利根川、母なる荒川」と称されるように、多くの人々の生活の糧となる両河川。特に荒川につては、秩父山岳部を水源とし、埼玉県内を潤し東京湾へと続く埼玉、東京にとっても正に命の恵み。河川流域の長さ全国15位を誇り、埼玉県民約700万人のうち、430万人は荒川の水利に頼っているそうです。(飲料水、工業用水、農業用水など)
県内も多くの区域で田植えが行われています。皐月はもともと早苗月とも呼ばれ、神々に供えるための神聖な苗を植えるとう意味があったそうです。行田地区でも当地区はは元荒川水利組合内で用水の順番が後半で、田植えも遅い地区になりますので、これから水が入ります。耕運田起しが終わりこれから代掻きとなるようです。

代掻きや田植えは機械化が進みますが、実際にには藻や塵を広い、草を刈り、水路の仕切りの土を固めるなど、人手がかかる仕事も多ようです。
美しい水田の夕日に照らされて、贅沢な散策をしています。私にできることを前向きに取り組みながら、この北埼玉の風景を伝えるように各方面に携わって行きたいですね。
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忍城 二の丸稲荷

2022-05-22 13:47:03 | 昔々の物語

 成田家十六代下総守長泰は室町後期の武将で上州青柳城を攻め、川越城、古河城、上杉謙信の襲来と三十年間に及ぶ戦に次ぐ戦の生涯であった。
 永禄九年(1566)長泰は家督を氏長に譲り、仏門に入って蘆伯斎と号して忍城二の丸に隠居する。するとある夜から毎晩のように何者かに憑かれ子丑の刻になると家鳴りがして大きな石のようなもので胸が圧迫され息も絶え絶え、声も出ず全身汗をかいているという夜が続いていた。何者かが寝室に忍び込むのではないかと不寝番をたて、僧侶や山伏に御祈祷に当たらせるも一向に効き目なく、豪勇で名を馳せた長泰もめっきりと衰えてしまった。息子の氏長も心配し家老や家臣を招いては何か良い案はないか相談すると、その中の須賀修理大夫が言うには昔からこうした武人がとりつかれる例は昔からよくあることだという。八幡太郎義家は三度弦音を鳴らして堀川院の邪気を払い、源頼政は雲中の鵺を射落とし、隠岐次郎右衛門広有は怪鳥を射落としたとも伝わる。よってその道の達人に頼もうというのである。

代々弓術で仕える三沢七郎右衛門を呼び、長泰に纏わる不思議な出来事を伝えると、「目に見えないものを射抜くことは腕が未熟でできかねる故、父三沢浄斎に相談いたします」ということになった。三沢浄斎は成田家当主氏長の前に進み出て、「京都将軍家弓道指南役、住山将監の秘伝を伝授されたものの、いまだ使った試しなく、この機にその怪物に試して見せましょう」と申し出た。

夜になって浄斎は長泰入道の寝床の隣間に入り、その他屈強の侍で寝床の四方を固めていた。子の刻になるとうなされる長泰の様子そのままに、どこからともなく風が入り、行燈の灯りが消えうせる。もがき苦しむ長泰の脇を浄斎は秘伝の弓を放つ。警護の矢沢玄蕃允(げんばのじょう)は暗闇の中何者かを感じとらえようと試みるもついには取り逃がしてしまった。その物音に長泰入道も気を取り戻し、氏長以下家臣の一人も怪我もなかったが、怪物と格闘した矢沢玄蕃允のみが具足の下に何かの爪の痕が残されていたという。

翌朝見返曲輪の番人が来て申すには「子の刻あたりに私の夢の中に真紅の狐が口から火炎を吐きながら話すには、『我この曲輪に久しく住む狐である。昔この城の城主長泰にわが妻子は殺された。その恨みを果たすべく狙っておったところ、長らく隙が無かった。長泰老いて後近年その機会をうかがっておったが、今宵弓の達人に射抜かれ力尽きて逃げてきた。吾これよりこの曲輪を去るが、汝は多年に渡り我に恵を与えたまえたので、恩返しにこれを与える』といって美しい赤い球が枕元に残されたおりました」

この話を聞いた氏長は三沢の弓術と矢沢の怪力をたいそう褒めたという。しかしながらそれ以上に驚いたのは長泰入道で『私がまだ血気盛んな頃、二つの丸曲輪(見返り曲輪)の藪の根元にいた子連れの狐を見かけてともに射殺してしまった。あの怪物はその時の牡狐であったか。無益な殺生をしたものだ』と大いに悔いた。


すぐに清善寺で大供養ををし、見返り曲輪に祠を建てお稲荷様として祀ったという。
現在も城内諏訪神社の東に二の丸稲荷は立っている。
話の構成や人名が出来すぎており『成田記』四巻からの引用であると大沢俊吉氏は解説している。文脈・構成が太平記調で構後世の創作と考えられるそうだが、長泰が龍淵寺に隠居し仏道に励んだことは事実であり、こうした伝承によって、領内の成田家に対する崇敬を図ったとも考えられる。
無益な殺生と悔いる心。武勇を誇れども老いては仏の道へと導かれる。どんなに時代が変わろうとも事の本質は変わらないのではないか。
伝承は今尚伝わっている。
引用文献
『行田の伝説と史話』大沢俊吉
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手水舎の柄杓置きにみる未来

2022-05-21 21:57:03 | 記憶の片隅

平成八年奉納の当社の手水舎。近年行田市を始め各地の神社仏閣においては手水に花を生け「花手水」なる飾りつけで参拝者を迎えています。当社においても行田市商工観光課様にご協力いただき、花を生ける鉢をお借りし「行田花手水」を奉納しています。

始めてみると楽しいもので、境内や自宅庭に咲く季節の花を摘みながら、丁寧に水面に挿しながら穏やかな日々を過ごしております。
夏季になりますと花の数は増えますが、水の痛みも早く、なかなか毎日美しい花手水を奉納することもかないませんが、神域の尊厳を保ちながら、ご参拝の皆様の癒しとなるよう続けていきたいと思っております。

手水舎には柄杓の受けの竹がかけられておりますが、すっかり青竹も萎びて色もかすんでしまいましたので、本日竹を改めてみました。

この青竹の差し替えが前回いつであったか、記憶が定かではありませんが、私が宮司を次いで何度目かの夏祭りの時であったと記憶しております。当時すでに七十代後半の氏子さんが神社裏の竹やぶから切りだし、手際よく変えてくれたことをよく覚えています。子供のころからお世話になったIさんとKさん。Kさんは地元の大工の棟梁でありました。眩しく広がる青空と氏子による花飾り、子供神輿が出ていたことを鮮明に覚えています。

残念ながら今はお二人ともいらっしゃいません。ご葬儀で地元のかたとお見送りしたこともよく覚えています。ここ三年子供神輿すら出せなくなりました。

また現実問題として、残念ではありますがご高齢の地元の氏子さんをここ十年以上お一人、またおひとりとお見送りしてきました。それも私の務めだと思っています。
こうして境内地ので整備や維持も私自身で奉仕することも多くなりました。もちろん氏子さんのお力添えがあってのことですが。
先の見通しが明るいとは言えません
覗いても竹の節でさきが見えないようなものです。。ただ先人の残してくれたものを受け継ぎ、また浄財をお寄せいただきながら氏神様のご加護の元、社殿を維持し清め、祭祀に奉仕続けること今の私にできることだと思っています。いつか私の後を継いでくれるものがいると信じていますし、こうした氏子区域の佇まいが少ないながらも氏子のつながりによって守られていくことを願っています。



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